1, プロローグ
どれだけお金や権力があっても、「死」だけは誰にでも平等に訪れる。
そんな当たり前のことを、私はつい最近まで深く考えたことがなかった。
先月、母を亡くした。
六十二歳でがんを患い、六十八歳で息を引き取った。
最後の数日は、呼びかけても返事がなかった。
私は結婚もしておらず、ひとり暮らしだ。
母は、私にとっていちばん身近な家族だった。
実家に戻っても、そこにあるのは仏壇と遺影だけ。
それでも時間は変わらず流れ、会社ではいつも通りの仕事をこなす日々が続く。
——きっと、私が死んだとしても、世界は何事もなかったかのように回り続けるのだろう。
だけど……
母の最期の言葉がよみがえる。
「人生は短いねぇ……病気になってからは後悔ばかりだったよ。『いつかやろう』なんて言っていたら、その日なんて来ないんだよ。美香、やりたいことがあるなら今すぐやるんだよ」
その言葉は私の胸に深く突き刺さった。
私がやりたいこと……なんだろう?
考えた末、数年前から始めた登山が思い浮かんだ。
とりあえず山にでも登ってみるか?
こうして私は一週間の有給休暇をとることにした。
上司も快く承諾してくれた。
会社でも時折、考えに耽っていたから、傍から見れば母が亡くなったことで私が落ち込んでいるように見えたせいなのかもしれない。
休暇一日目の今日はちょうど私の誕生日。
その記念も兼ねて、以前から行きたかった少し遠方の山に登ることにした。
とはいえ、四十歳の誕生日に特別な喜びを感じるわけでもないのだけれど。
私にとって山は心の癒しだ。
せっかくの長期休暇ということで、山頂にあるホテルに一泊するコースを選んだ。
清々しい景色と美しい山々の景観は命の洗濯にふさわしい。
ウキウキした気持ちで家を出た時は、空も晴れていて「まさに登山日和!」と思っていたのに――
山を登り始めてしばらくすると、ぽつり、ぽつりと、冷たい雫が頬に落ちた。
雨?
さっきまであんなに晴れていたのに……
山の天気は変わりやすいって言うけど、何も私が登山をする時にその特性を発揮しなくても……
雨に霞む木々の向こうで、赤い影が揺れた。
それは鳥だった。
ありえないほど、鮮やかな赤。
——なのに、雨に打たれている気配がない。
羽は一枚も濡れておらず、枝に止まるときも音ひとつ立てなかった。
こちらを見て、小さく首をかしげる。
その仕草が、鳥というより、人が考え込むときの癖に似ていて、妙に引っかかった。
なぜか、目が離せなかった。
ずっとその鳥の行き先を見つめていると、鳥は、少し先の枝に止まった。
わりと距離があるのに、視線だけははっきりと感じる。
——着いてこい、と言われている気がした。
そんなはずないのに、これは偶然じゃない、と直感だけが告げていた。
まるで、最初から“そこに入り口がある”と知っていたかのように。
気のせいだと思ったけど、追いかけてみるとまた少し先の木の枝に止まっていた。
その木の先には、山肌が剥き出しになっているのが見えた。
え? ちょっと道に外れたかも……雨粒がさっきよりも大きくなってきた。
どうしよう……
私が不安に思っていると、赤い鳥は、剥き出しの岩壁の前で一度だけ羽を止めた。
まるで、そこに“入口”があると知っているかのように。
次の瞬間、鳥の姿は赤い残像を引いて、岩の中へと溶けた。
「ん? こんなところに洞穴……ちょうどいい雨宿りスポット! 私も少しの間便乗させてもらおう……ちょっと奥まで行くのは怖いから入り口付近で」
私は、そろりと洞穴に近づき中の様子を窺う。
洞穴の中は、ひんやりと湿っていた。
雨音が外から遠ざかるにつれて、代わりに水滴の落ちる音が、やけに大きく響く。
奥行きは、せいぜい数メートル。
それなのに、足を踏み入れた瞬間、空気が変わった気がした。
「あれ? あの鳥はどこに行ったんだろう? 確かにこの中に入っていったように見えたけど……気のせいじゃないよね?」
岩壁に手を伸ばした。
——触れるはずだった。
次の瞬間、手応えが消えた。
体が前に崩れ、私はそのまま前のめりに転倒した。
「ちょ、え、何? 確かに壁、あったよね。どこいったの?」
何が起きたのか分からなかった。
岩壁は、そこにあるはずだった。支えてくれるはずだったのに。
地面に着いた手のひらに、予想外の感触が伝わった。
冷たい岩ではない。
ふわりと沈み込む、柔らかさ。
——絨毯?
洞穴に絨毯ってどういうこと?
顔を上げた瞬間、思考が止まった。
小花柄の壁紙。
白く塗られた曲線の家具。
どこか甘い、石鹸のような匂い。
——洞穴の奥にあるべき風景ではない。
「……いや、ちょっと待って」
——理解が追いつかない。
私は、来た方向を確かめようと、後ろを振り返った。
そこには、アンティーク調の意匠が施された姿見がひとつ、ぽつんと置かれていた。
——なぜ、こんなところに鏡がある?
私は、そっと鏡に手を伸ばした。
指先は、ひやりとした感触に阻まれる。
乾いた音がして、ガラスの向こうに進むことはなかった。
鏡の中には、私が立っている。
でも、その背後にあるはずの洞穴が、映っていなかった。
そこに映るのは、見覚えのない部屋だけだ。
——私は、もう戻れない。
この状況……もしかして、ここって異世界ってことじゃないよね……
やだそれ、心の準備もなにもなしに異世界転移とか、聞いてないんですけど。
と、とにかくこの部屋の持ち主、いるよね?
「すみませーん……」
声は、部屋の中でやけに大きく反響した。
返事はない。
それなのに、静かすぎる。
——夢だ。
そう思い込もうとして、私は周囲を見回した。
だが、妙に細部まで整った部屋は、悪質な現実感を伴っている。
部屋は広く、左手には二つの扉。右手にはステップがあり、薄いピンクのカーテンで仕切られたスペース。
しかも洞穴の奥にいるはずなのに明るい。
正面にあるアーチ型の白い格子ガラス扉から、やわらかな光が降り注いでいる。
その向こうには、ベランダのようなスペースが続いているようだった。
そうか、窓があるから妙に明るかったのか……って、いやいや、納得してる場合じゃない!
そもそも、洞穴の中に部屋があること自体、おかしいのだ。
私はその事実にすぐ気づけなかった。それだけ、動揺していたのだろう。
人は本当に、予想外の状況に直面すると、思考が止まってしまうものなのだ。
……でも、窓があるってことは、外が見えるってこと。
もしそれが飾りじゃないとしたら――
私は、正面に見えるガラス張りの扉へと、恐る恐る歩み寄った。
読んでいただき、ありがとうございます。




