第3話 目の見えない同居人と盲導犬
あたしは生前、霧島キリコ二十三歳だった。
社会人になって勤めた就職先はブラック企業で、同時入社の同僚たちは入社半年後に退職をした。
あたしは出遅れて辞められなかったの。いや、それはただの後付けの理由に過ぎないかな。
辞めようと思えば辞めてもよかったんだ。
それなのに、あたしも辞めたら残った仕事をしなきゃいけなくなる会社の人たちが困るだろうなと、離職届を出す手が踏み留まってしまった――あたしの失敗だ。
相手の顔色を伺って下手に仏心を出したせいで心身を壊して、ストレスからくる生理不順や睡眠障害の併発でボロボロになってしまったんだから、本当にバカなことで失敗をしてしまったと死んでから思えるようになったの。
「嫌な事は嫌だって、出来ないことは出来ませんって、……両親に迷惑かけたくなくてこの様だもんね。もっと、迷惑かけたら楽だったのかもなぁ。いまさらかぁ」
生前のことを思い出して鬱っていたときに、ガチャリと鍵が開けられる音が鳴った。不動産屋が連れて来た入居希望者だろう。
室内を見に来たんだ。扉の向こうから明かりが漏れた。夕方になる時間に居室を見に来るなんて、仕事帰りなのかな。
どんな人間なのか、あたしのあるはずのない心臓がときめくようだ。
明るく弾んだ声を出すスーツを着た中年のおじさんが靴を脱いで、連れて来た入居希望者に声をかけていた。
「お客様。今、室内に明かりをお付けしますね」
「はい」
「お願いしますぅ」
案内しにつれて来たのは女性二人と、ラブラドールレトリバーだ。紐を握る女性はサングラスをしている。つまりは盲導犬だ。
「まりなお姉ちゃん! ここにしなよ! 実家からも近いし! ここならうちも来れるし、なんたってコンビニやスーパーも近かったもん! ここにしなきゃだめだよ!」
「すずちゃんがそういうなら。ユーリも、ここが気に入ったかな?」
ゆっくりとしゃがんで盲導犬の頭を撫ぜると、ユーリと呼ばれて、わん! と吠えた。
「じゃあ、契約します。すずちゃん、手伝ってもらえるかな」
「うん。うちはそのために来たんだよ!」
「ありがとう」
姉妹の微笑ましいやり取りを不動産屋が「他のお部屋なんかもご覧ください」と二人を手招くのが見えた。
ただ、見えない相手に言う言葉じゃないかなとあたしは思う。悪気があってじゃなくて、口からいつもの入居希望者同様とした扱いで言ってしまったにしても、気づかないのは接客業としてはどうなのかな。
姉妹の二人が言わないのは、いつものことだからなのかもしれない。
「あの不動産のおじさん、なってないなぁ。接客業に向いてないんじゃないの」
腑に落ちないあたしは腕を組んで、天井で胡坐を掻いた。
むぅ、とするあたしにどこからか視線を感じて、その先へと顔を向けると盲導犬ユーリと視線がかち合ったかと思えば、わん! とあたしに話しかけた。
《ご主人様で盲目の彼女は橘まりなさん、そして、妹のすずなさん。以後お見知りおきをお願い致します》
とても丁寧で聞きやすい声は、生前でも聞いたことがないよ。