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「帰りの案内は、しなくて大丈夫?」
「はい。来る時に、ちゃんと覚えましたので。大丈夫です。ありがとうございました」
「ふふ。どういたしまして。若い子のお役に立てて、よかったわ。それじゃあね」
帰ってゆく老女を、若い女は神殿の前まで出て見送る。
女神も神殿内から、出入り口のそばにたたずみ、見送っていた。
が、ふと思い立ち、外に踏み出す。サンダルを履いた白い肌が、やわらかい日差しに照らされる。
べつに、地上では神殿の中でしか動けないという決まりはないのだ。たまに神殿の周りを散策する時もあるし、町までおもむく時もある。この頃はなんとなく気分でなかったので、神殿に籠もりきりなだけだった。
低い階段をすぐにおり終えた女神は、隣に立ってみる。横目で様子をうかがうと、前を見据える若い女の姿があった。
やがて、老女の姿がなくなる。それを確認し、女神は踵を返す。
(勘違いだったか)
正直、がっかりした気持ちにはなった。
女神には友はおらず、話し相手と言えば、知り合いの男神とか、片手で数えるくらいだ。友をつくろうとした時期もあった。しかし輪に入るたびに拭えぬ居心地の悪さを感じ、入ってはぬけるを繰り返す。そんなことをやり続けたせいで疲弊してしまい、他の神とは深く関わらないでおこうと決めた。
同じ神とは合わなくても、人間とならばどうか。考えはしたが、そもそもの見える人間が居なければ意味がない。試す機会も訪れないまま、ありあまる時間が過ぎていた。そしてようやく、と期待してしまった。
女神は神殿の中に戻り、定位置の椅子に座る。
足音が近づいてくる。もしや、こんなさびれた神殿内でも見物しようというのだろうか。旅の者らしいのでなんでも物珍しいのかもしれない。
先ほどまでの興味を失ったようにぼうっと前を眺める女神には、若い女の進む先を知る由もなかった。
「──そこの御方」
女神の座る横。空いた一人分の椅子を隔てた所に、若い女は居た。
ゆっくりと、声のした場所へ、顔を向ける女神。その双眸は、常よりも開かれていた。若い女が、まっすぐに女神の姿を見つめていた。
「隣に、座ってもよろしいですか」
女神は、若い女との間にある椅子を見遣った。
「だめ」
とっさに短く返す。
明らかに悲しんでいる若い女の表情で、説明不足だったと女神は気付く。
「……あなた。私がいいと言ったら、そのまま右隣に座るつもりでしょう? この椅子、ぱっと見ただけではわかりにくいけれど、角がいくつかささくれてしまっているの。怪我をするかもしれない」
「あ……ああ。そういう意味ですか」
「そう。だから、座るならこっち」
女神は片手で左隣を指差す。
頷いた若い女は、女神の座る後ろをぐるりと回る。他の椅子にぶつからないように気を付けながら、極力急いで短い距離を歩く。その様を、女神は視線で追いつつ不思議な気持ちになった。人間が自分の座る隣を認識し、目指している。本当に見えているのだ。女神は、ようやく実感できた。
左隣に腰かけて、若い女は女神を見た。
「ひとつ、お訊ねしても?」
「……どうぞ」
「ありがとうございます。では、あなたは……この神殿にまつられている、女神さまでしょうか?」
いきなり核心をついてくる。女神は、どう答えるべきかと迷う。自らを女神と名乗る怪しいやつ扱いされるのは嫌だが、かといって崇められるのも嫌なのだ。なんとなく、若い女はある程度確信をもって質問してきている。だからごまかすという選択は、現実的ではないと思えた。
「そういうことになってるわ」
結局、無難な答え方をした。嘘はついていない。本当に女神かどうか、自信がないのだ。
「まあ。わたし、女神さまにお会いするのははじめてです。おばあさんには見えていなかったみたいですが……」
「大体の人間は見えないのよ。あなたは特殊」
「そうなのですか? では、わたしは運がよかったということですね」
若い女と話していると、女神は気がぬけていく感じがした。微妙に予想とずれた反応に、どう対応すべきか、判断が難しくなっていく。
とりあえず。相手の正体を知っても崇めるという雰囲気ではなさそうなので、それならよい、と女神は片付けることにした。
「あなたは、お金持ちの娘なの?」
「え、ど、どうして……そんなことを?」
「その外衣よ。黄色の線が入っているでしょう。白い服なんて珍しくもないけれど、色がついた線はあまり見ないから」
若い女が、はっとした表情で自身の外衣を確認する。動揺している様子だ。
「なにか、まずかったかしら」
「いえ……実は、あえて目立たぬ服装をしてきたのです。これは出かける間際に、急いで他の外衣から変更したもので。それでも地味そうなのを選んだつもりだったのですが、失敗してしまいました」
今日は少し冷える。昨日はあたたかく過ごしやすかったので、その調子のまま外に出たら寒かったのだろう。
「まあ、そのくらいならいいんじゃない」
「うーん。でも、次からは別のにします。お金持ちの娘だからって、遠慮されたら嫌ですし」
「嫌なの?」
「はい。わたしの親はすごい人でも、わたし自身はすごくないですから。なにもしてないのに親と同じように敬われるのは、どうしても合わなくて。居心地が悪いのです」
女神は変わらない姿勢で若い女の言葉を聞きながら、内心では首を縦に振った。
「たまに、同じくらいの身分の子と会う時があるんですが、他の子たちはわたしみたいには感じないらしいんです。敬われるのは当たり前、という感覚で生きている。それを否定するつもりはありません。ただ……そうなると、仲良くなれなくて。あまり友達がいないのが悩みで……って、ごめんなさい。初対面のかたにする話ではありませんでした」
「わかるわ」
「え?」
「私も、おなじだから」
無意識にこぼれた言葉だった。けれど、女神は取り繕う気分にはなれなかった。
女神は、ななめ前を見る。主に大理石でつくられた神像。実際の女神そのままとまではいかない。ベールをかぶっている点は同一だ。しかし、ベールによって髪の毛や体が隠れてしまっており、特に誰を模しているかの判別は難しかった。この神殿の女神は、他の偉大なる神々のように人々に伝わる神話もないため、姿を想像するにも限界があったのだろう。だからか女神にはあの像が自身とは思えなかったし、そもそも自身を優れた存在だとは思っていないのである。卑下ではなく、事実として。
人間に不可能なことを可能にする特別な力は持っていない。ただ人間の目に映らないだけの、幽霊とほとんど変わらない存在。それなのに、こうして小さいながらも神殿をつくられ、やってくる人間にはひざまずき祈られている。長い時を生きる内にだいぶ動じなくはなったが、居心地の悪さだけは心に残り続けた。
「私ね、いつもこの席から祈る人間を見守ってるの。ななめ後ろからね。正面からだと自分へ向けられてるみたいで、いえ、実際そうなんでしょうけど。正面に立つ気には、ならないのよ」
「それは……先ほどわたしが口にした話と、おなじような理由で?」
女神は静かに首肯する。
若い女の反応をうかがおうと隣を見て、ぎょっとした。妙に瞳を輝かせていたのだ。まるで、感激しているみたいだった。
「とても、嬉しいです。おなじ名前の女神さまと、抱える悩みまでおなじだなんて……奇跡ですわ」
「そんな大げさな…………ちょっと待って。おなじ名前?」
若い女が自分の口を押さえた。女神はどういう意味かと困惑しつつ、じっと若い女を見据える。
観念した顔で、若い女は口を覆う手をおろした。
「もしかしたら、不快にさせてしまうかも、と言い出せずにいたのです。人間のわたしがおなじ名を持つなど、不敬ではないかと」
「不敬だなんて感じないわよ。驚きはしたけれど……さっきも伝えたでしょう。あなたとおなじで、敬われるのは合わないの。だから気にしなくていいわ」
おそるおそる打ち明けた若い女を、安心させたかった。せっかく巡りあえた見える人間だ。怯えられたくない。
「……女神さまは」
足音がした。
弾かれたように立ち上がる若い女。衝撃で、がたんと椅子が揺れる。倒れはしなかった。どの椅子も古くなってきているので、壊れないか女神はひやっとした。
椅子の揺れがおさまってきたのと同時に、現れたもう一人の女が「姫様」と呼びかけた。さっきの足音はこの女のものだった。
女神は座ったまま、首をのばす。左隣の若い女は二十路くらいだが、右隣の女は四十路前くらいの容姿だ。
「話し声が聞こえたのですが、姫様おひとりですか?」
「ええっと。女神さまとおはなししていたのよ」
「この場所で、ですか? 神像からは離れていますけれど……」
「い、いいでしょう。声は届くのだから。それよりも、なにかあったの?」
「はい。どうやら一雨きそうですので、お早めに宿へ戻られたほうがよろしいかと。お風邪を召されては大変です」
「そう……わかったわ。女神さまにお別れの挨拶をしたらすぐに行くから、外で待っていて」
「承知しました」
女は一礼したのち、神殿の外へ戻っていく。
完全に姿が消えた所で、若い女は女神に説明した。
「あちらは、わたしの侍女です。おばあさんと一緒に居るあいだは陰で控えてもらっていたんです」
老女の見送りの際。なぜ間近くに立ったのに目もくれず、神殿の中に入るまで声をかけなかったのか。怪しまれないようにするためだったのだ。老女に見えていないのなら、侍女にも見えないかもしれない。そう推測しての行動だった。
「帰るのなら、見送るわ」
若い女と共に、出入り口まで歩く。
外に出ると、空がくすみ、重たい鈍色の雲に覆われていた。今日の天気は変わりやすい。
若い女が、なにか言いたそうに唇を開いたり閉じたりする。なにを言いたいのか、女神は予想がついていた。時間があれば訊ねたが、今は、宿へ急いだほうがいいだろう。そう考え、あえて触れないでおく。
「明日も来ます」
若い女はそれだけ告げた。
すぐに侍女がやってきて、一緒に帰っていく。同時に神殿の周りにあった数人の気配も薄まり、やがて消える。気配の正体は若い女の護衛だったのだ。
見送りを終えて、神殿の中に戻る。
椅子に座り直し、女神は自分の両足を前へ後ろへ、ゆらゆらさせた。
(勘違いじゃなかった)
楽しみな気持ちを抑えきれない両足を見つめ、微笑んだ。