2-1
――ピピピピピ…
ぱちん。
毎朝7時にセットしてる目覚まし時計を叩いて止めた。
のそっと枕から顔を上げれば、そこにはお気に入りのクマの目覚まし時計。
私が横たわるのは木製のベッドの上で、ピンクのブランケットの中。
いつもと同じ私の部屋の朝の光景。
「そっか、夏休みだ…。」
夏休みに入って一週間も経ってない。
遊ぶ時間も宿題する時間も、まだまだたくさんある。いろんなことができる。
拓くんや潤ちゃんと海に行ったり、キャンプしたり、グループ研究としてアンダーサイカに………、
「アンダーサイカ…!!!」
その単語を思い出した瞬間、私の頭は完全に覚醒した。
ブランケットを跳ね退け、ベッドから転がり出る。
窓の外は、夏の朝の綺麗な晴れ空。そして私もいつも通りのパジャマ姿。
日常的な光景。
だけど、昨晩は普通じゃない出来事を経験したはずだ。
「私確か、アンダーサイカで、ヨシヤに…。」
『僕がアンダーサイカから逃げるために協力していただきますよ。』
そうだ。確かに約束した。
そしてあのあと紫色の奇妙な薬を飲まされて、
「…私、いつの間に家に…?」
自力で帰った?
ううん、そんなはずない。私はあそこで意識を失った。
ヨシヤが私の家を知るわけないし…。
頭が混乱する。そんな中でも私が次に考えたのは、内緒で夜遊びしたことをお母さんに謝らなきゃ、ってことだった。
混乱でややふらつきながら部屋を出て、リビングに向かう。
――ジャー…
リビング前のキッチンから水音がする。お母さんが朝ご飯の準備をしてるんだ。
「…お母さん……?」
怒るかな。
あんな真夜中に家を抜けたんだから、きっとバレてるよね。
恐る恐る声をかけると、エプロン姿のお母さんがこっちに顔を向けた。
「…あら、おはよう豊花。
夏休みなのに早起きね。夕べはずいぶん早く寝たものね。」
「え?」
ニコッと笑うお母さん。
でもその台詞に、私は違和感を覚えた。
だって確か、夕べは………、
「お母さん。
私昨日は、夜遅くまで一緒にテレビ観てたよね?
リビングで…。」
お母さんとお父さんと私の三人でテレビのロードショーを観てた。一昨年くらいに流行った映画がやってたんだ。
映画を観終わったのが夜の0時過ぎだ。全然早くない。
しかも私はそのあとこっそり出掛けたんだから。
「何言ってるの。
9時前にはご飯食べて寝たでしょ?変な子ねぇ。」
「? ……?」
何言ってるのはこっちの台詞だよ。
変だ。何か変だ。
お母さん、とぼけてるの?映画観ながら三人で泣いちゃって、それを笑い合って…。
「わ、私…、観たよ?
昨日の映画。“ミスターチョップスの冒険”!」
「ええ、一昨年3人で観に行ったわね。」
「そうじゃなくて…!」
全然相手にされない。
でもお母さんが意地悪してるようには見えなかった。本当に、私がいたことを覚えてないみたい。
いや、というより、記憶が書き換えられて…る?
「…っ!」
そうだ、拓くんたちはどうなっただろう。
アンダーサイカで離れ離れになったきりだ。
ヨシヤが嘘つきじゃないなら今頃家に帰ってるはず。
リビングの真ん中に置かれてる電話。その受話器を掴み、私はまず拓くんの家に電話をかけてみた。
――プルルル…
コールが長く鳴ったあと、ふと電話か繋がる音がした。
そして聞こえてきたのは、
《…ふぁい、もしもしぃ?》
「!」
―――拓くんの声だ…!
朝だからか、ちょっと気の抜けた眠そうな声。
拓くん、朝苦手だって言ってたっけ。今頃罪悪感が湧いてきたけど、それを謝る暇はない。
「拓くんっ、おはよう!
私!豊花!」
《あ~、おはよう。珍しいじゃん、こんな朝早くから。》
ふわぁっと欠伸が聞こえる。
いつもの拓くんだ。何も変わらない、いつもの。
―――…待って。いつもの?
「…ねえ拓くん、昨日あのあと、潤ちゃんと二人でどうやって帰ったの?」
変だ。だって私は、結局二人と離れ離れになったままだった。
それについて拓くんが何も言ってこないのはおかしい…。
無意識に唾を飲み込む私。
拓くんの答えは……、
《何言ってんだ?
あのあと結局、何も無いからって3人で帰ったじゃん。
潤子とトイレから帰って来てから。》
「……え?」
―――“3人”で?
それを聞いた瞬間、私は言葉を失った。時間にして1分くらいだろうか。
お母さんのおかしな発言と拓くんの奇妙な証言が重なる。
どちらも、違う記憶を刷り込まれていた。
誰が、どうやって…?
方法は分からない。
でも心当たりのある人物と言ったら、あの張り付いた笑顔と白衣姿の男しか考えられない。
―――ヨシヤ……!
「……わ、分かった…。
ありがとう。朝早くごめん。」
《気にすんな。
じゃあおれ二度寝するわ。おやすみぃ…。》
電話が切れる。
でも私は受話器を握ったまま、また1分くらい固まってしまった。
「………なにこれ…。」
消えていた。
アンダーサイカの……“あの世界”の存在が。
―――夢…?
でも、私は確かに見た。
ひしめき合う店。恐ろしいオバケたち。
口の中にじんわり残る苦みも、気のせいなんかじゃない。
「豊花、ご飯もうすぐできるから、今のうちに着替えてきなさい。」
「っ!」
キッチンからお母さんの声。
その声で、呆然としていた私の意識が戻ってきた。
そうだ。確かめに行かなきゃ。
あれが夢じゃないこと。私が見たものを。
受話器を元に戻し、私は自分の部屋に駆け込む。
適当な服に着替え、次に向かうは洗面所。
顔を洗い、歯を磨き、寝癖のついた長い髪を適度に直した。
普通ならその後はリビングに向かう。
でも今回は逆。
私は手ぶらで玄関のほうへ走った。
「あら?出掛けるの?」
顔を覗かせたお母さんのほうを振り返ることなく、私は夏の朝の中に飛び出して行った。