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私もヨシヤも少食だから、すき焼きは半分以上お鍋の中に残ったまま。
そのことを口にするとヨシヤは、「一晩寝かせても美味しいから大丈夫」と言っていた。
「今日はありがとうございました、豊花ちゃん。
お家に帰ったら、ゆっくり寝てくださいね。」
そう言うヨシヤの手には、私が帰るために必要な、紫の小瓶が握られてる。
私が満腹でちょっと眠くなってきたことに気づいてくれたんだ。
「今夜も呼ぶの?」
「本当は呼びたいところですけど、お使い行ってもらったので今日はお休みでいいですよ。」
「そっか。」
休んでいいと言われて、ちょっとホッとした。
眠いところを起こされたら嫌だもん。
「………ふふっ。」
「?」
ふいにヨシヤが嬉しさを堪えるように笑った。
私は首を傾げる。
「…今日のお使いのこと。
配達員さんに頼めず困ってて、豊花ちゃんにしか頼めなかったのは本当です。
…でも、今になって思い返してみたらね、もしかしたら僕は、本当は豊花ちゃんと、楽しくご飯を食べたかっただけなのかもしれないんですよね。」
「……。」
そっか。あんなに材料があるなら、わざわざお肉を買い足す必要なんてなかった。
それでも、ヨシヤは私と食べたかったんだ。
大好きなすき焼き…。
「…私も、」
「ん?」
「ヨシヤと食べれて楽しかったよ。ごちそうさま。」
生まれて初めてのすき焼きが、ヨシヤと一緒で良かった。そう思えてしまうくらい。
私の言葉を聞いたヨシヤは、また嬉しそうに微笑んでいた。
「さあ、そろそろお家に帰る時間ですよ。」
「うん。」
ヨシヤの差し出す小瓶に、今度は私のほうから唇を寄せた。
ピチョン、と垂らされた一滴の苦みが、また口いっぱいに薄く広がる。
好きになれそうな味じゃないけど、
―――なんだかちょっと、慣れたかもしれない。
ほとほと私は順応性が高いらしい。
何てったって、こんな得体の知れないお兄さんとお鍋を囲んじゃうくらいなんだから。
なんだかおかしくって、思わず笑ってしまう私。
意識が飛んだのは、その直後……―――。
***
「…はて。今の豊花ちゃんは、何に笑っていたんでしょう?」
薬の味は変えていないはずだけど。
彼女曰く「苦い」らしい液体を軽く揺すって、僕はちょっぴり自問自答です。
クルッと後ろを見れば、火の消えたすき焼き鍋がひとつ。
さすがに二人でも消費しきれませんでしたね。
いつもなら僕が丸二日はかけて食べるんですが。
「…………。」
僕のぶんとは別の、小さめのお茶碗がひとつと、ピンク色のお箸が一膳。
僕はピンクのお箸を手に取って、
「……あむっ。」
そのお箸で、すき焼きのお肉をつまんで食べます。
モグモグ…。
よく噛んで、よく噛んで…、
「…………?」
でも、変でした。
さっきまではあんなに美味しかったのに、今は、
―――美味しくない………。
冷めてしまったせい?
それとも、ずっと前からこんな味だった?
よく分かりません。
ただ、豊花ちゃんと食べた時は、確かに美味しくて…。
『二人で食べたほうが美味しいですし…――』
あれは半ば冗談で言ったはずなのに、まさか本当になるなんて思ってもみませんでした…。
「……………。」
ピンクのお箸を唇に添えて、僕は一人考えます。
とても些細で、だけどとても厄介なことを。
「……いけない、いけない。
僕は彼女を食べなくてはならないのに。」
彼女を食べたい。
でも同時に、食べるのが惜しいと思ってしまう。
豊花ちゃんに接吻されたおでこにそっと指を当てて、僕は思い悩みます。
…本当に、厄介です。
そんな時。
「……薬屋。
まだ営業時間ではないぞ。一体何をしている。」
閉めておいた引き戸の向こうから、高圧的な声が降り懸かってきました。
この世界の中で通路を渡り歩けるのは配達員と警備員、そしてお客様だけ。
ついでに、聞き覚えのある声だったので、僕が返事をするのにそう時間はかかりませんでした。
「警備員さん、こんばんは。
今は食事中です。ちゃんとお仕事もしますから、まぁそうカッカしないで。」
彼は他の警備員の倍くらい決まりにうるさい。
僕がいつ店を開けようが、何を食べようが勝手でしょうに。
「そうか、ならばもう終えろ。
さっさと照明を消し、お客様方の到着に備えろ。」
しかしその警備員さんは、執拗に僕に突っ掛かってくる。よほど明かりを消させたいらしいのです。
息が詰まってしまいそう。でも、気が滅入ってしまうほどではないので、僕は「はいはい」と生返事をして、部屋の明かりを消しました。
とたんに暗くなる室内。
警備員さんは満足したのか、靴音を響かせて通路の奥へ去って行ったようでした。
「…………。」
陽の光の射さない地下街はまるで穴ぐらのように真っ暗で、静寂が耳に痛いくらい…。
ああ、ここは本当に、牢獄のようだ。
―――早く出たい。ここから出て、早く次の………。
そんな時に、僕はなぜか豊花ちゃんの接吻を思い出すのです。
「…………。」
僕の冷たい肌に触れた、あの温かな…懐かしくもある感触。
「………僕は………。」
誰も見ていない。誰にも見られない。
だから僕は膝を抱えて少しだけ…子供のように丸くなる。
それでも、張り付いた笑顔だけは絶やさないで。




