君と見た君のいないこの景色は、もう何でもない風景になってしまって。私はやっぱりまだ立ち直り中みたいで。
家紋武範様主催『夕焼け企画』参加作品です。
金木犀の匂い。
花のない桜の木。
街の中を走る川には魚が泳ぎ、鳥が舞う。
街の喧騒。
車の音。
人々の声に、子供の楽しそうな笑い声。
「俺は、この街が好きだ」
そう語る声が間近で聞こえた気がした。
それが勘違いだってことは分かってる。
それはもう、かつての記憶の話だから。
彼はもう、私の隣にはいないのだから。
別れた理由なんて覚えてない。
覚えてないフリをさせてほしい。
きっと、誰もが頭に思い浮かべれば何個目かには行き当たるであろう、ありきたりな理由だから。
駅からの道を一人で歩く。
人もまばらなバスロータリー。
駅からの階段を下りた所にあるコンビニで買い物をするのがお決まりだった。
私はお茶。彼は炭酸。
コーヒーはすごく甘いのじゃないと飲めないような人だった。
ジュースばかり飲んでるから、年をとったら控えさせないといけないな、なんて、ふふふと笑いながら思ったりしたこともあった。
「ありがとうございました~」
そのコンビニでコーヒーを買う。
砂糖の入ってないブラック。
私もコーヒーは甘いのが良かった。というか、飲むなら紅茶だった。
思い出にないものを持てば現実を実感するかも、なんて淡い期待があったのは確かだ。
「……」
でも、そんなのは懐かしい風景とともにすぐにどこかに行ってしまった。
結果的には過去の馬鹿みたいな自分を思い出しただけ。彼との将来を想像して笑みを浮かべていた愚かな自分を。
コンビニを出たら、ロータリーをなぞるように歩いて向こう側に。
「この一番細い道だ!」
なぜか彼は誇らしげにそう説明した。
その隠された道のような感じが良かったらしい。
「……べつに、普通の道じゃん」
そのときは私も、すごーい! だとか言って喜んでみせたような気がする。
実際、その道だけが特別に輝いているようにさえ感じていた。
まったく、恋ってやつは恐ろしいものだ。
「……せま」
私は取り立てて申し上げることもない、すれ違うときに体を少しだけ避けさせる必要のある細い道を進んだ。
左右には古びた個人経営の店たち。
青山青果。
鈴木工務店。
昭和軒。
サンマーク不動産。
こんな細い道でよくやっていけるものだと思う年季の入ったお店たち。
「ここのラーメン屋が旨いんだよ!」
彼は自分の知り合いがやっているお店かのように、ここの中華料理店を自慢していた。
私はそれよりも床のベタベタが気になって、あまり味が分からなかった。
せっかくお気に入りのパンプスだったのに。
会ったときに初お披露目のそれを褒めることもしない、なんなら気付きもしない彼に私は苦笑した。
そんなことに気付くこともなく、道中ラーメンの出汁がどうこう語る彼を愛おしく思ったりなんかもした。
まさか、この新しいパンプスを履いた私とそこに入ろうとするとは思わずに。
「……お休みか」
今日は、その中華料理店はお休みのようだった。
やたら元気な恰幅のいいおばさんと、少し怖いおじさんがやってたお店。
シャッターが閉まっていると、なんだか思い出すことも咎められているような気がしてしまう。
結果的には、彼の「旨かっただろ!」っていう無邪気で得意げな笑顔が可愛くて、私は私にそれがすごく美味しかったんだっていう暗示をかけたように思う。
「……お休みなら、仕方ないか」
どうやら私にはもう、その床のベタベタも、彼の可愛い笑顔も思い出す権利はないみたいだ。
正直、もう一度このお店に入って、目が覚めた自分が過去の美しい思い出を上書きしてくれるんじゃないかという期待があったのは確かだ。
またしばらく路地を進めば住宅街に入る。
集合住宅は少なめ。
大きめの一軒家多め。
わんわんわんっ!
「うわっ!」
門構えを競う家々を抜けていると、閉じられた門の向こうから番人が威嚇してきた。
またやられた。
彼と歩いたときも、この番人は私に精一杯の威嚇をぶつけてきた。
私は昔からあんまり動物に好かれなかった。
いや、懐かれはする。
ただ、ファーストインプレッションが良くないらしい。
彼らはとりあえず私を警戒するのだ。
目付きのせいだろうか。
少し切れ長な私の目は彼らには警戒に値するらしい。
結局はすぐに、そんな必要がないぐらい弱そうな奴だと判断していただけるんだけど。
「おー! ポチ~! 元気にしてたかー!」
「え? 知ってる子なの?」
「いや、初対面だよ」
「え? 名前は?」
「テキトー」
彼はそんな私と違って、動物とすぐ仲良くなった。
初見から、コイツは警戒する必要がないと思うのだろうか。
実際、彼は人見知り街道まっしぐらな私に初対面からぐいぐい接してきた。
初めはものすごく警戒していた私だけど、彼が本当になんにも考えずに私に話し掛けに来てることが分かってからは、なんだか無駄に警戒してる自分が馬鹿みたいに思えた。
「なんか、ようやく普通に話せるようになったなー」
知り合ってだいぶ経ってから、彼が無邪気な笑顔でそう言ってきた頃には、私の心のなかにはもう彼が住んでいた。
「はいはい。よしよし」
さっき私に吠えた番人はすぐにお腹を見せて寝転がった。
許してやるから撫でろということらしい。
門の格子の間から手を伸ばしてモフモフする。
彼と一緒のときは彼にこんなことをしていた。誰にでも腹を見せる浮気性な奴だ。
「ばいばい」
ひとしきり撫でると満足したのか番人は見張り小屋に帰っていった。
私はそのぷりぷりしたお尻に手を振って再び歩き出す。
「……」
少しして分かれ道に行き着く。
「俺の家はこっちだ!」
そう言って右を指差した彼。
「……」
この道を右に曲がって少し歩けば彼の家が見える。見えてしまう。
なんなら、ここからでも少し見えてしまいそうだ……。
「……っ」
あぶないあぶないと慌てて道の先を覗き込もうとする自分を制する。
何を求めているのか。
その先に行ってどうするというのか。
何度も通ったその道を、何度も上がったその家を、もう何の関係もなくなった私が再び見てしまったら、きっと私は私の中のダムの決壊を抑えられなくなってしまう。
「……左」
私はぽつりと自分に言い聞かせるようにして呟き、足を左の道に進めた。
「こっちにはな! 俺の秘密の場所があるんだ!」
楽しそうに笑いながら私の手を引く彼。
つんのめりそうになりながらも、私は繋がれた手に頬を染めながらついていった。
「……やっぱり遠くない?」
彼の家への道の分岐路を反対側に進んで、だいぶ経った。
お昼をだいぶ過ぎたぐらいに駅を出たけど、だんだんと日が傾いてきていた。
「はぁはぁ……。間に合うかしら」
急な坂道が増えてきて、だんだんと疲れが蓄積してきた。
あのときも、私は意外と遠いその秘密の場所とやらに息を切らしていたのを思い出す。
でも、あのときはそれよりも、繋がれた手と彼の秘密の場所を知ることができるという気持ちの方が強くて、疲れなんてぜんぜん感じなかった。
「……恋は盲目、ってことかしらね」
かつての浮かれた自分に苦笑しながら、額の汗を拭って足を進める。
だんだんと緑が増えてきた。
舗装された道は終わり、緑豊かな山道へと入る。
今だと、この先の長い光景は絶望的に思える。
あのときはあんなにワクワクしていたのに。
「……ふぅ。なんとか、間に合ったわね」
山道を懸命に登り、ようやく目的の場所。彼の秘密の場所とやらに到着した。
いわゆる地元の標高の低い小山だが、運動不足の女が歩くのはなかなかに大変だった。
まだ日はギリギリ沈んでいない。
「……今見ても、やっぱり綺麗って思うのね」
山の頂上からの景色は茜色の空も相まってとても綺麗だった。
森の緑と街の喧騒と、夕日色に染まった空と、輪郭を捉えることができるようになった太陽と。
「俺はここから見る夕焼けが一番好きなんだ!」
輝くような笑顔で、茜に照らされたその横顔は今でも私の心に住んでいる。
『私は、その夕焼けを見ている貴方が一番好きなのよ』
そんなクサいセリフを思わずあのとき口走らなくて良かったと今では思う。
そんなの黒歴史だ。
そんな恥ずかしいセリフが彼の思い出の一ページにでも残ったらと考えると、この場でのたうち回りたくなる。
「……だから、そんな馬鹿みたいな言葉は私の胸の中だけで十分」
……。
「……」
でも、なんだろう。
この茜色に澄み渡る空を見ていると、胸の中に何かが込み上げてくる。
お腹の底から少しずつ。
そういえば、私は彼と別れてから泣いてない気がする。
その瞬間にさえ、私は涙ひとつ流さなかったのだ。
そこで涙を流しながら嫌だ嫌だとすがっていたら、何かが変わっていたのだろうか。
今でもまだ、彼の隣には私がいたのだろうか。
でも、私はそんな姿を晒したくなかった。
最後ぐらい、惨めで愚かな女でありたくなかった。
彼の中で、そんなふうにすがりついてくる女だという思い出になりたくなかった。
……と、考えるぐらいにはもう、元には戻れないんだという予感はあったのだけど。
「……」
お腹の底にあったモヤモヤがどんどん上に上がってくる。
優しい夕焼けが全て吐き出してしまえと責めてくる。
嫌だ。
正直、泣きたくない。
泣いたら終わってしまう気がするから。
私は、私の恋にまだ終わりを突きつけたくない。
立ち直る?
それは終わってからの話でしょ?
まだ……まだ、すがっていたい。
終わりたくない。
「……ああ」
ダメだ。
込み上げてくるものを止められない。
自然と、勝手に目から雫が漏れてしまう。
なんで来てしまったんだろう。
なんでこの景色を見てしまったんだろう。
私の中の一番綺麗な記憶。
華々しくて優しくて、穏やかで緩やかで、嬉しくて幸せな、残酷な記憶。
何が悲しいって、そんな思い出の場所が私にはもう完全に思い出の場所になってしまっていることだ。
かつて彼と来た素敵な場所。
夕焼けが綺麗な場所。
そんなチープな風景になってしまったことが、私は何より悲しいのだ。
「……う、うぅ……」
私は泣いた。
声を震わせ、静かに泣き出した。
「うわぁーーーんっ!!」
でも泣き出したら止まらなくて、口を抑えることもしないで子供みたいに大きな声で泣いた。
わんわんわんわん泣いた。
周りに人がいなくて良かった。
そうか。私は泣きたかったのだ。
この恋を終わらせるために。
立ち直り中っていうステージに進むために。
泣くのに、こんなところまで来ないといけないぐらい私は久しぶりに泣いた。
どうして大人になると泣かなくなるのだろう。泣けなくなるのだろう。
子供の頃より強くなんてなってないのに。なんなら、弱くなっているのに。
簡単なことでいっぱい泣ける子供の方が、私はよっぽど強いと思う。
こんなに醜くしがみついてしまうぐらいに、大人の私は弱いんだから。
「……ひっく。ぐす、ぐすん……」
ようやく涙が収まってきた。
夕日はもう半分ぐらい顔を隠していた。
徐々に茜色だった空が夜の黒に染まっていく。
「……帰ろ」
汗が冷えてきたことに気が付く。
さっきまで全身が熱くなっていたのに、涙と一緒に私の中の熱も流れてしまったみたいだ。
「……明日も仕事だし、風邪を引くわけにはいかないものね」
こういう現実的なところは大人だと私は思う。
どんなに情感豊かになっても、どこかにシビアな自分がいる。
こんなときにでも明日の心配をしてしまうのは良いことなのか悲しいことなのか。
「……お腹減ったな」
くるりと背を向けて歩き出す。
夕焼けの空を振り返らず。
黒に染まり出した世界を、進み出した世界を、変わっていく世界を見ないように。
彼と見た夕焼けの世界が色褪せないように、私は急いで、もと来た道を歩いた。
「……あ」
再び狭い商店街へ。
彼の家へと続く分岐路は、帰るときには気付かないぐらいに一本道になっていた。立ち止まって振り返らないと、そこが分かれ道になっていることに気付けないから。
私はそれに気付かないフリをして通りすぎ、個人商店が並ぶ商店街まで戻ってきた。
「……やってる」
来るときには閉まっていた中華料理屋さんが営業していた。
どうやらランチタイムが終わると、中休みに入るタイプのお店だったようだ。
「……思い出は思い出のままで、ってことかしらね」
私は小さく苦笑すると、お店に入ることなく駅に向かった。
「……なに食べようかな」
自分の住む街に帰ってからご飯を食べよう。
お腹はぺこぺこだ。
美味しいものを食べて、この街に来たことさえ忘れてやれ。
コンビニで買ったコーヒーはもう飲む気になれない。
明日、会社の後輩にでもあげようかしら、なんて。
「……ラーメン以外かな」
貴方に恋をしたことは後悔してない。
それだけは確か。
むしろ、私と別れたことを後悔させてやるとさえ思えるようになった……気がする。
いつか、そう思える日がきっと来る。
きっと来ると、私は私に言い聞かせる。
だから今は、何を食べるかだけを考えよう。
今はまだ、私の恋は立ち直り中だから。