1話
好評なら続きます
この物語はとある世界のとある時代の物語――
大地が6つの太陽に焼かれ黒雲が地上を包んだよりもずっと後。
雪の世界で石棺から目覚めた者達が月の光を見出した時よりもっと後。
艱難辛苦の末に世界が人の世となった時代の物語。
シーナ大陸南西部、"死海ナレイヤ"の海岸沿いに3つの大国に囲まれた貿易国家ルテアという国があった。流れの商人達が集まり亡国の王を祭り上げて出来上がり、対立し合う大国同士の中間貿易の場となる事で類を見ない速度で繁栄していた国である。
特に首都である港湾都市アルバルドは最も大きな港がある都市であるために発展具合が凄まじく、類稀なる華々しさと花の名産地であることが相まって、他国の者からは『花の都』と呼ばれていた。
その『花の都』の貧民街、汚物と腐敗に満ち満ちた場所に一軒のあばら家が建っていた。壁や天井には穴が開いており、窓は小さな物が1つだけ。垣間見える室内には本や酒瓶が足の踏み場も無い程に散乱しており、吐き気を催す獣と酒の悪臭が満ちている。
家具は安楽椅子1つがあるだけで、寝床は皺と脂染みだらけの万年床。陽が届かぬ森の中、霧が立ち込める薄気味悪い沼地にある獣の巣が如き家だ。普通の人間ならば、訪れることは愚か近寄る事すら躊躇する事は間違い無いだろう。
そんな家には奇妙な男が住んでいた。
8尺程の身の丈は体毛に包まれており、手足口には肉を引き裂く爪牙、顔は狼のそれに近いが目の数は3対で合計6つもある。3歩歩けば子供が泣き叫び、また3歩歩けば婦女に悲鳴をあげられる。そんな悍ましい見た目の一人の男だ。
彼の名は傭兵クルツ。姿は人に非ず、されど生まれと心は人のそれ、善人なれど悪人でもある半端者。人間らしい化け物の彼こそがの主人公である。
――善意の魔女 著 「我が功罪」 第3巻 "異形の傭兵"より抜粋
「人様を見かけで判断しやがって……」
俺は今、"花の都"の地下牢獄に囚われている。太陽の光も街の喧騒も聞こえない牢の中で、遠く離れた拷問部屋から聞こえてくる悲鳴を聞きながら苔生した壁と錆び付いた鉄格子を眺めて愚痴を零し、釈放されるのを待っている。
捕らえられた理由はただの勘違い。路地裏に連れ込まれた少女を悪漢達から救ってやったら、見た目の所為で驚いた少女に悲鳴を上げられて、駆け付けた人の話を聞かない冒険者達に悪人扱いされ屯所に連行されたといった具合だ。
確かに俺は化け物で、服は恥部を隠せる腰布一枚と褌だけで他には何も身に付けていなかったのだから悲鳴を上げられてもおかしくはない。だから少女には文句の1つも言うつもりは無い。俺はただ、頭と耳を使おうともしなかった思慮の無い冒険者共に腹を立てているだけだ。
奴らの所為で捕まるのは、今年が始まってからの半年間だけで既に5回目を数えている。毎度友人達が釈放されるように手を回してくれるまでの数日間を牢の中で過ごすため、この牢獄の献立は制覇したし囚人を管理する看守とも顔なじみになってしまった。
そして通路の音の響き方も覚えてしまったので、今まさにこの牢に向かって駆け寄ってくる足音が看守の物でないこともわかる。大きな靴音を立てながらこちらに向かってくるのは、剣を引きずりながら走る子供。おそらくは我が不肖の弟子、ナールだ。
「お師匠様! ここにいらっしゃったのですね!」
牢の前に現れた足音の主は予想通り弟子の少女であった。健康的な小麦色の肌と闇夜のように黒い長髪、人の耳に加えて生えているぴんと尖った耳と太い尻尾を持つ獣人。数え年で8歳の小さな彼女は俺を探して方々を駆け回ったのか、その身に汗と埃を纏っている。
彼女は既に手回しを済ませているようで、ポケットから錆びた鍵を取り出すと牢の鍵を開け俺を解放した。緊急事態に陥った時に備えて、彼女には少なくない金を預けているのでそれを賄賂として使って釈放までの手続きを短縮させたのだろう。
「急にいなくなるからびっくりしたんですよ! 捨てられたかと思ったんですよ!」
「えぇい、暑苦しいから引っ付くな! それと……刀身が傷つくから剣を引きずって歩くなと何時も言っているよな? お前という奴は、武具を使わずに壊すような真似はするなと一体何度言ったらわかるんだ!」
駆け寄り柔らかい頬を毛皮に顔をうずめた弟子の少女、ナールの旋毛を尖らせた第二関節で突く。肉体的にはあまり傷つくことは無く、小指を角にぶつけたかのような痛みを与えられる体罰だ。
「うぎっ!? 痛いです……痛いですよお師匠様……」
拳骨を喰らったナールは頭を両手で押さえ、琥珀色の瞳を潤わせた。余程痛かったのだろう、尻尾を股下に巻き込みんでいるし針のように立っていた耳は塩水に漬け込まれた葉の物の様に垂れ下がってしまっている。
彼女の師匠として、商売道具を乱雑に扱った彼女を厳しく罰しなければならなかった。それは仕方のない事ではあったのだが、こうも痛がられると罪悪感がふつふつと湧いてくる。
「まったく……。おい、行くぞナール!」
「あぁ! お師匠様、待ってください! ナールを置いて行かないでください!」
こちらが牢から出て先へ先へと進んでいくと、ナールは袖で涙を拭って追いかけてきた。俺が置き去りにする気など無い事はわかっているはずなのに、それでも不安そうな表情で必死に付いて来てくる。おそらくだが、彼女の経験した悲惨な半生がそうさせているのだろう。
今隣でビスケットを頬張りながら歩いている弟子、獣人の少女ナールは孤児であった。流れの娼婦の元に生まれ、僅か2歳にして捨てられた彼女は去り際に母親が放った「迎えに来るからここで待っていてね」という言葉を一切疑わずに信じ、悪臭漂う魚市場のごみ捨て場で健気にも母の迎えを待ち続けていた。
廃棄された残飯や捨てられた瓶に残った液体を日々の糧とし、穴の開いた酒樽と蚤や虱が群生する布切れを集めて作った不潔な寝床で眠りにつく。彼女はゴミ捨て場から一歩も出ない生活を9か月もの間続けていたのである。
そんな不潔極まりない生活をしていた彼女は、俺と出会った時には酷い状態になっていた。髪はフケまみれで砂糖を塗された菓子の様になっており、肌は病によって茹で蟹の甲羅の様になっていた。小さな体には骨と皮だけが残っていて、腹は餓死寸前である事を見る者に一目で理解させる程に膨れていた。
複数種の病と寄生虫に侵されていた彼女の呼吸は絶え絶えで、脈は時折聞こえなくなっていた。酩酊した俺が酔い潰れたドワーフの友人と違えて連れ帰っていなければ、間違いなくその日中に死んでいた。
「どうかなさいましたか?」
見られていることに気付いたナールが菓子から口を離し、不思議そうな顔をこちらに向ける。夢中になって好物を食べていた彼女の小さな口の周りには、先程まで口にしていた菓子の屑が付いてしまっている。
「少し考え事をしていただけだ。それより、口の周りを汚し過ぎだぞ!」
「えっ、あっ、ごっ、ごめんなさい」
「袖で拭くな! 袖で! あぁまったく……ほら、拭いてやるから動くな」
袖で拭おうとした弟子の腕を掴み、腰布に結びつけていた手拭いで彼女の口元についた汚れを拭き取る。両目を瞑り、されるがままに柔らかな頬を拭かれるナールは耳と尻尾を左右に振っている。おそらくだが、優しい親が自分の子供にするように面倒を見てもらえているのが嬉しいのだろう。
「お師匠様、お師匠様」
「何だ?」
「今日はお仕事ですか? それともお休みですか?」
「もう昼過ぎだから酒場に行っても仕事は無い。休みにするしかないだろうな」
太陽の位置からおおよその時刻を推測し、弟子の質問に答える。
この街において傭兵が雇われるのは、主に早朝から昼にかけての時間帯。出立前の商人や戦力を求める者が酒場にやって来て、朝食や昼食を食べながら店内に居座っている傭兵を吟味し声を掛けたりするのが一般的である。
それとは別に有力な貴族や豪商が友人に居れば、伝手で仕事が回ってくるのだが俺にはそういった手合いの知り合いはいない。居るのは自称騎士の女好きと美少年好きの生臭な聖女様と、前科多数の悪党赤狐と酒浸りの鍛冶師だけだ。
「でしたらでしたら! 今日はナールに稽古をつけていただけませんか?」
「構わんが、それで良いのか?」
「良いのです! ナールはもっともっと強くなって、お師匠様やお師匠様と旅をしていた方々みたいになりたいのです!」
質問に対して、彼女は迷うことなく答えた。構って欲しいとか、遊んで欲しいといった願望を抑え込んで鍛錬を所望したというわけではないらしい。
「……そうか、なら稽古をつけてやろう」
屈んでいた体勢から曲げていた足を伸ばしていつもの猫背へと戻り、稽古を付ける際に使っている林に向かって歩き出す。教えるとは言ったものの、何を教えてやろうか。幼い彼女でも扱える技術で、かつ戦闘において相手に傷を負わせる事が出来る物なんてあるのだろうか。
思案しながら歩き、手拭いについた菓子をはたき落としているとふとあるものを思い出した。あれならば金も掛からずそこまで強い力も必要ない、練習すれば強力な武器にもなるはずだ。
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