さよなら仇④
「別に遊んでいたわけじゃない」
平然と言ってのけるアスラ。壁から背中を離して立つ。激しく叩きつけられたというのに、負傷した素振りもない。
「ただ、ちょっと……その、慣れていないんだ」
もごもごと言い訳をする。セザは鼻を鳴らした。
「さっさとやれ。それとも俺が仕留めてやろうか」
「やるよ!」
アスラは吹っ切るように顔を上げ、こちらを向いた。
「実を言うと、さっきからずっと我慢していたんだ。ルビセルは妖術連発するし、お前もこっそりやってるつもりだろうけど妖気を練って何か大掛かりな妖術を発動させている」
ガレナは瞠目した。気づいていたのか。密かに絶歌を練り上げていたことを。
(……そんなはずはない)
獣人族や人間は妖気を感知できない。獣人族は発達した嗅覚によって水妖族の匂いをたどることができるが、妖気は匂いとは似て非なるものだ。
だからこそ五年前、狼族もガレナの絶歌が発動したことも知らずに毒に侵されて壊滅した。妖気を感知できないからだ。水妖のような妖術を扱う者でもない限り、絶対に有り得ない。
「貴様ごときが何故……?」
「教えてやるほど親切じゃないよ」
アスラは全身に気迫を込めた。先ほどまでの浮ついた雰囲気はどこにもない。
「お前は勘違いをしている。先代の獣王は強かった。病に侵されていても、セザや私なんかよりもずっと!」
獰猛な瞳でこちらを見据える。
「獣人族最強の王は、息子のために死んだんだ。初めて会った息子を生かすために、殺されてやったんだ。そうとも知らずに勝った気でいるなんて、間抜けな奴だよ、お前は」
アスラはせせら笑った。
「全力で行く。お前がどうしようが勝手だが、私は全力でお前を叩き潰す」
宣言後、膝をついて屈んだ。豊かな黒髪から覗くのは狼の耳ーー獣の耳?
ガレナの思考は一瞬停止した。わずかなその隙にアスラが飛びかかってきた。黒い毛で覆われた手に生えた鋭い爪。鋭過ぎる赤い眼。剥き出しの大きな牙からは唸り声。眼前に迫るのは、間違いなく獣だった。
「獣化!?」
撞木で突かれたような衝撃がガレナの腹を突き抜けた。
「が、あ……はっ……!」
その場に崩れ落ちる身体を引き裂かんと爪の一閃。ガレナは全速力で身体強化を施して後ろに退いた。逃げるために全力で妖術を使った。そうでもしなければ、八つ裂きにされるところだった。
距離を取って、改めてそいつの全貌を目の当たりにした。
「なんだ、それは」
信じられなかった。
獣化したことが、ではない。ラントだって妖術を用いれば獣化することができる。半分でも獣人の血をひいていれば獣化はできるのだ。
問題は、アスラの能力だ。身体強化を施した水妖に、いとも簡単にダメージを負わせた。ガレナの身体の強度は鋼鉄に等しかったにもかかわらず、だ。