幕間
「棕櫚」
久しく聞かない名だった。
仇討ちの旅に出て以来『アスラ』と名乗った。紫苑が寵姫になる前の名だった。
アスラには親がいなかった。兄弟も名前もなく、同胞もいない。何もないからこそ、紫苑と先代獣王のゼノは惜しみなく与えてくれた。名前も親も、食べるものも着るものも家族も友も帰る場所も――何もかも。
溢れかえるくらいたくさんのものをもらったのに、アスラは何一つ返せていない。返す間もないまま先代は永遠の国に旅立った。
「お前に託す」
先代から手渡されたのは『水門の鍵』だった。偉大なる世界樹を潤す水源を繋ぐもの。獣王の証を手にしても、アスラの心は動かなかった。
獣王の位が欲しいと思ったことは一度もなかった。アスラは必要以上に満たされていた。ただ、守れるだけの強さが欲しかった。
「他に適任がいます」
育ての親すら守れなかった半獣の自分よりは、ふさわしい獣王はいるはずだ。草食系で最強を誇るファルサーミ。先代の血を受け継いだ王子達。挙げればキリがない。しかし先代は引き下がらなかった。
「奪い、壊すのは容易い。地を這う獣だろうが人魚だろうが人間でさえもできること。だが一度失ったものを取り戻すことは難しい」
握る先代の手に力が入れられる。
「守り、慈しみ、育め。お前にしかできないことだ」
承知の上でアスラに託すと決めた。
アスラが鍵を握りしめたのを確認すると、先代は力を緩めた。
「ああ、でも」
先代は力なく笑った。
「お前には『つがい』がいなかったな」