さよなら王子様③
だからといって、アスラも大人しく殺されてやるつもりなんて尻尾の毛先ほどもない。ルビセルを倒してゾアンに帰るつもりだ。
アスラは構えた。今になってセザに負わされた数々の傷が痛み出した。容赦なくボコりやがって。ともすれば乱れる息を整え、目の前の水妖に集中する。
「へえ、あきらめてないんだ」
ルビセルは片頬を歪めて嗤った。
「満身創痍で、骨も折れて内臓も少なからず傷を負った状態で僕と対峙しているにも関わらず、まだ心が折れていないんだ」
楽しいよ、とルビセルは呟いた。本心からの言葉だった。邪悪な笑みが端正な顔を彩る。
「五年前に殺さなくて正解だった。君ほどおぞましくて不快な存在はない。叩き潰すのが楽しみだ」
ルビセルの目に殺意がひらめく。途端、鋭く冷たい風がアスラの肩を掠めた。たったそれだけで身を切られたような痛みを覚えた。
「できるものならな!」
アスラは突進した。ルビセル目掛けて、真っ向から。あまりにも単調な攻撃だった。風か氷柱か、先ほどのようにどちらかを放てば事足りる。
それゆえにルビセルの目に迷いが生じた。頭の切れるルビセルだから警戒が先立つ。罠ではないかと。結果としてルビセルは避けることを選択した。アスラの読み通りに。
足に力を込めて急旋回。アスラは横に蹴りを放った。大雑把な攻撃だった。が、横に逃れようとしたルビセルの脇に当たった。
「くっ……」
苦悶の声が漏れる。怯んだルビセルをアスラは追撃した。間合いを詰めて妖術を使う暇を与えない。拳を脚を肩を頭を、全身を武器にして攻撃した。辛うじて急所こそは避けているものの、ルビセルは防戦一方だ。
自分が力尽きるのが先か、ルビセルに決定的な一撃を喰らわせるのが先か。前者の可能性が高かった。ルビセルにはまだ余裕がある。危険を承知で勝負に出るしかなかった。
仕掛けようと踏み込んだその時だった。
「ーーアスラ?」
小さな声が、耳を震わせた。動揺混じりの低い声。アスラは弾かれたように顔を上げた。
にわかに始まった水妖と獣人の戦いを静観することしかできない人間の集団。その中心に立つのは、金髪の青年だった。見間違うはずがない。何よりも彼からは、懐かしい匂いがする。
「……ラント」
「どうして、君がここに」
こっちの台詞だ。言い返そうにも声が出ない。揺れる目の中に驚愕と僅かな嫌悪が見え隠れした。
「君は……獣人だった、のか……?」
アスラは立ち尽くした。
穢らわしい半獣と蔑まれ、罵られても、アスラは自分の生まれを恥だと思ったことは一度もない。混血でなければもっと楽だったろうとは思うが、かといって恨んだりはしなかった。能力や行いとは違って生まれは、自分自身ではどうしようもなく、責任がないことだからだ。
しかし今、ラントに蔑まれてアスラは傷ついた。これがセザやザンだったのなら軽く流せたのに。他の誰でもない、ラントだからこそアスラは悲しかった。
「気が変わった」
ルビセルの声に振り向こうとした瞬間、突かれたような衝撃が頭を襲った。視界が暗転する。その場に崩れ落ちた身体の感覚が消え、懐かしい匂いが遠くなる。
僅かに残っていた聴覚が消える間際に、嘲笑う声を拾った。
「君には『最高の悪意』を贈る約束だったからね」