こぶしで挨拶②
「軍隊が来るぞ」
「だからどうした。俺が貴様を嬲るのに何の支障がある」
「ありまくりだろ。私だって全力で抵抗する。直立不動でお前に殴られ続けるとでも思うか」
セザが口をつぐんだ。修行のため旅に出ていたセザは、人間に関してはアスラと同じくらい詳しい。
非力で愚かで、一人ならば全く脅威にならない人間でも、武装して徒党を組まれたら厄介だ。破壊された家屋の惨状と獣人二人を目の前にした人間達が、どんな判断を下すのかは想像に難くない。まず間違いなく、原因はアスラ達だと断じるだろう。件の獣人を森に帰した以上、こちらに無実を証明する手立てはない。
口を閉ざしたままのセザに、アスラはたたみかけた。
「さっきの暴走だって原因はわからずじまいだ。発情期の発狂なら何故あの獣人だけが悪化した。森の奥深くにいたはずの獣人をどうやって人間が捕まえたんだ。暴走したタイミングもおかしい。盛るとすれば夜のはずだ。偶然で片付けるには奇妙な点が多い」
「棕櫚」
懐かしい名を再び呼ばれる。
状況にそぐわない、甘く穏やかで慈愛さえ感じるほど落ち着いた声音だった——のだが、次の瞬間、セザの拳が傍らにあった煉瓦を粉砕した。台座が破壊されたことで上に乗っていた石像が崩れ落ちる。
「俺を、これ以上待たせるな」
石像を踏みつけ、獲物を喰らう獰猛な獣が、殺意に任せて笑う。爛々と輝く目に見つめられ、アスラの背筋に震えが走った。恐怖ではなく、期待と歓喜で。
強さに惹かれるのは肉食系獣人の性だ。本能の前では正統性や合理性なんぞ消し飛ぶ。どうしようもなくセザもアスラも獣だった。
アスラは大きく息を吐いた。高鳴る心臓を落ち着かせて、低く構えをとる。
意図せずとも二人の呼吸は合った。地を蹴ったのは同時だった。
セザが繰り出した手刀を払い、軌道を逸らす。下から突き上げるように振るった拳はセザの手で受け止められた。間髪入れず放った右の正拳突きは避けられ、腕を取られる。セザに懐に入られた——と認識した時すでにアスラの身体は宙を舞っていた。受け身を取る隙も与えてくれない鋭い投げだった。
痛みに呻く間もなく右腕が背後に捩れる。セザが関節を固めたのだ。無理に動かそうとすれば痛みがはしる。アスラの腕を捕らえた状態でセザが言い放った。
「折るぞ」
「噛むぞ」とアスラは対抗して呟いた。
右腕が嫌な音を立てた。同時に激痛。悲鳴とも咆哮ともつかない声が口をついて出る。叫びながらアスラはさらに身を捩った。関節が外れようが骨が折れようが痛みに差はない。構わずセザに突進した。
思わぬ反撃だったのだろう。セザの対処が一瞬だけ遅れた。避ける暇はない。が、首筋目掛けたアスラの噛みつきは腕で防御される。差し出された腕に思いっきりアスラは牙を立てた。
「ぐっ……!」
セザは小さく呻いたが、怯まなかった。噛みついたアスラごと自身の腕を振りおろして、地面に叩きつける。
棍棒で頭を殴られたような衝撃に、息が詰まった。そのまま腕で顔を押さえつけられる。腕を噛みちぎってやろうにも首が動かせない。
左手の爪を振るうも、セザに手首を掴まれた。骨が軋む音がした。純粋な力比べではアスラに分があっても、体勢が悪過ぎる。アスラの左腕はあっさりと地面に縫いとめられた。
「噛み癖の悪さは変わらんな」馬乗りになったセザが、顔を覗き込んできた「それで、もう終わりか?」
ふざけんなこの傲慢わからずや。罵倒の言葉はくぐもった声にしかならない。
アスラは膝蹴りを見舞った。辛うじて急所の直撃は避けられてしまったが、セザの腹に一撃。押さえつける力が緩んだ隙に、アスラはセザの下から逃れた。
セザは歯形のついた左腕をひと舐めし、顔をしかめた。傷は深い。血も止まっていない。左腕は動かせても殴ったり防御したりと戦闘の役には立たなくなった。
対するアスラはというと、右腕は綺麗に折られていた。地面に叩きつけられた時に打った頭と背中が、今になって痛みを訴える。が、それだけだ。
結論、お互い軽傷——表面上は。




