こぶしで挨拶①
意識を失っている間に鎮静剤を口に押し込む。ほどなくして巨体はみるみるうちに縮み、人間に酷似した姿になった。発狂状態から元に戻ったようだ。
「千尋の森に送ってくれ」
「構わんが、いいのか?」
ファルサーミの視線の先には、腕組みして待つセザ。銀髪の子どもがしきりに話しかけているのを、黙って聞いている。
「仕方ないさ」
「短い天下だったな」
「まだ負けると決まったわけじゃない」
とは言うものの、勝算はまるでなかった。相手は生まれる前から百獣を統べる王と定められていた獣人で、こちらは半分しか獣人の血をひいていない『流し子』だ。
右手を掴まれる。アスラの手を自身の胸に当てて、ファルサーミは古式ゆかしい礼をした。
「ただ我が主にのみ勝利の栄光を」
王への畏敬を込めた作法。ファルサーミにされたのは初めてだった。そしてこれが最後になるかもしれなかった。アスラは空いた手を自分の胸に当てた。
アスラの返礼を確認したファルサーミは踵を返した。気を失った獣人を肩に担ぐ。軽い身のこなしで外壁を飛び越え、森へ。
「気は済んだか」
「ああ」アスラは手の関節を鳴らした「待たせて悪かった」
ファルサーミは組んでいた腕を下ろした。茶化すように銀髪の子どもが笑いかける。
「いよいよ決闘だねー」
「ニニ、物事は正しく言え。これは決闘じゃない。処刑だ」
銀髪の子、ニニを押しのけてセザはアスラと対峙した。
「貴様は誉れ高き獣人族の王座に、相応しからざる者の分際で居座り穢した」
「半獣や『流し子』が王になってはいけないとは初耳だな」
「誰が血や生まれのことを言った。俺が問うのは継承の正統性だ」
気配が変わったのを察したニニがそばを離れる。町の中央に位置する広間で、アスラとセザは二人きりになった。
「獣王を討ったのは誰だ」
喧騒に混じって馬蹄が地を叩く音が聞こえた。人間と思しき足音も。それも複数。だんだんと近づいている。おそらく騎士団か警察軍が騒ぎを聞いて駆けつけてきているのだろう。
「セザ、場所を変えよう」
「質問に答えろ」
「お前も知っていただろ。先代は不治の病だった。自らの死期を悟られ、やむなく私に『水門の鍵』を託された。それが事実だ」
「そんな見え透いた嘘を、俺が信じるとでも?」
もちろん思わない。他の獣人ならいざ知らず、もっとも先代をよく知るセザにまで隠しおおせるとはアスラも思っていなかった。
「嘘じゃない。本当だ」
全てを言っていないだけで。
あいにく詳しく説明する余裕はない。あったとしてもセザが納得するとも思えなかった。
歩み寄る糸口さえ掴めないまま、いよいよ人の群れの気配が近くなった。