ようこそ、人間の国④
「…………え」
間の抜けた声が水妖の口から漏れる。背後から突如として伸びた刃が、自分の胸を貫いた。その事実を認識する暇はあっただろうか。刃は瞬時に引き抜かれ、支えを失った身体がよろめく。驚愕の表情を浮かべたまま、女の水妖はその場に崩れ落ちた。
「……仲間じゃないのか?」
音もなく刃を生成し、貫く。妖術でなければなし得ない芸当だ。この場でそんな奇跡の技をやってのけるのはルビセルしかいなかった。
「せっかくの再会を邪魔したんだ。当然の報いさ。それに半獣ごときに負けるなんて、水妖の恥さらしもいいところだよ」
何事もなかったかのようにルビセルは、改めて挨拶した。
「久しぶりだね、負け犬くん。元気にしてた?」
「犬じゃない。狼だ」
「負けた部分は否定しないんだ」ルビセルは喉を鳴らして笑った「素直で結構」
完全に相手に呑まれている。アスラは大きく息を吐いた。
「今回の誘拐事件はお前の仕業か」
「本気でそう思っているなら、侮辱も甚だしいね。僕だったらもっと楽しい脚本と華麗な舞台を用意するよ。それが獣王陛下に対する礼儀ってものだろ」
細い指がアスラの髪を弄んだ。撫でるような優しい仕草にアスラは全身の毛が逆立つような嫌悪感を覚えた。
「そうだね。たとえば……」
わざとらしく考える素振りを見せて、ルビセルは耳元で囁いた。
「五年前に狼族を水妖に引き渡した裏切り者が、今度は獣王を弑し、まんまと玉座に着いた、という筋書きはどう?」
アスラの裏拳をルビセルは難なく受け止めた。振り向き様に放った蹴りも避けられる。大きく後ろに退いてルビセルは笑った。
「相変わらずからかい甲斐があるね、君は」
「ふざけるな」
「ふざけているのは君の方だろ。たかが獣人の一匹や二匹じゃないか。獣王陛下ともあろうお方が、わざわざ探す必要がどこにあるんだい?」
ルビセルはゆっくりと頭を振った。
「それとも点数稼ぎのつもりなのかな? 民に慕われる王様でも目指しているのかな。無駄だよ」
飛びかかろうと体勢を低くしたアスラの耳に、ファルサーミの声が聞こえた。自分を呼んでいる。探している。
「五年前は先代の獣王陛下が守ってくれたけど、今はもういない。君を守ってくれる優しい王様は死んでしまったんだよ——君が、殺したから」
「アスラ!」
ファルサーミが角から飛び出てきたのと同時にルビセルの姿がかき消える。血相を変えたファルサーミはこちらに駆け寄るなり、アスラの肩や頭をぺたぺたと触った。
「無事か?」
「心配しなくても、鍵は大丈夫だよ」
「違う」ファルサーミは眉根を寄せた「負傷していないのかと訊いている」
アスラはきょとんとした。五年前に飛び出して以来、ずっと千尋の森を離れていた。先代に呼び戻されてからは獣王就任、すぐさま「つがい探し」の名目で森を出たのですっかり忘れていた。ファルサーミはこういう獣人だった。頑固で厳しくて、口うるさくて、心配性で——変わっていない師匠にアスラの口元がゆるんだ。
「何がおかしい」
「いや、だって、もう成人しているのにさ」
「成獣だろうが幼獣だろうが負傷はする。心配して何が悪い」
ファルサーミは鼻を鳴らした。
「だいたい貴様は疎すぎる。水妖が三体も潜んでいたというのに気配すら察知できんとは」
「無茶言うなよ」
混血のため、アスラは他の獣人に比べて身体能力が総じて低い。特に水妖の気配や匂いを感知するのは苦手だった。
「もう一体の水妖はどうしたんだ?」
「逃げ足の速い奴だ。姿も確認できなかった」
ファルサーミの追跡をやすやすと逃れるとは相当の実力者だろう。ルビセルが現れたことといい、水妖達が何かを企んでいるのは明白。
「失踪事件に水妖がからんでいる可能性が高いね」
しかし、何のために。
獣人を数人捕らえたところで獣人族全体からすれば大したことではない。人質に使うという手もあるが、獣人族は部族のことは部族内で解決するのが主流だ。鹿族の問題は鹿族内でなんとかする。よって仮に人質を取ったとしても『水門の鍵』との交換材料にはならない。