ようこそ、人間の国③
驚きに目を見開く水妖の頬に拳を叩き込んだ。もんどり打って倒れる水妖。慌てて身を起こした水妖の前に、アスラは仁王立ちした。
「どうして襲ったのか、なんて聞くつもりはないよ」
水妖の目的は『水門の鍵』だ。代々の獣王が守り、そして今はアスラが所持している。
「でもなんであんな所に潜んでいたのかは教えてほしいな」
「誰がっ!」
力を放とうとした手を蹴っ飛ばす。水妖は悲鳴をあげた。
「水気もないのに意味もなく人間の国にいるとは考えられない。理由があるはずだ。私達を待っていたのか? それとも――」
「思い上がるな獣風情が」
視線が僅かにズレている。アスラではなく、その背後に。瞬間、アスラは異様な気配を感じ取った。飛び退こうとしたのは反射。しかし、間に合わなかった。
「こんにちは、獣王陛下」
耳元で聞き覚えのある声。愉しげな響きを伴った声だった。
「ああ、動かないで。誤って君の首を裂いてしまったら大変だ」
首筋に氷を当てられたような冷たい感触がした。背後に立ったそいつは、アスラの首に手を掛けていた。振り向かなくてもわかる。その声、気配、忘れようもなかった。
「……ルビセル」
口にした途端、苦いものが胸の中から込み上げてきた。狼族の集落を壊滅させた水妖と共にいた者。気まぐれでアスラを生かした水妖だ。
「形勢逆転だな」
勝ち誇る女の水妖の声は、耳を素通りした。際限なく高まる危機感。首に手をかけられた状況よりも、この水妖の存在が脅威だった。
「怖い?」
見透かしたようにルビセルは言う。叫び出したい衝動をアスラは堪えた。
「森の王ともあろうお方が、穢らわしい人間なんかの国をうろついてはいけないよ」
「お前に指図される筋合いはないね」
「指図じゃなくて忠告だよ。今まで僕は間違ったことを言ってないだろ。耳を傾ける価値はあると思うけど?」
アスラは歯噛みした。反論する術を持たない。正しいかはさておき、ルビセルが言った通りに事は起きている。弱いから狼族はたった一人の水妖によって滅ぼされた。死にぞこなってしまったからアスラは『裏切り者』と罵られる。
「ルビセル、遊んでいないで早く始末しろ。水門の鍵は死体から探せばいい」
「そうだね」ルビセルはアスラの顔を覗き込んだ「じゃあ、そういうことだから」
どういうことだ。アスラが問うよりも先に、女の水妖の胸から刃が突き出た。