ただいま、人間の国①
ウィンヴィリア王国の第一王子、ラント=ディル=カリオスが王宮に戻ったのは、夏が見え始めた頃のことだった。
ラントは王宮近郊の森で狩猟をしていた際、突如として行方が知れなくなった。誘拐か暗殺か、犯人側からの接触もなく、捜査は混迷を極めた。失踪からおよそ三月、件の森の近辺や城下町、海岸沿いの港町まで捜索隊を派遣しても手掛かり一つ見つからなかった。絶望的な状況からの無事帰還に、女王は無論、臣下達も胸を撫で下ろした。ラントの妹であるアリーアもまた、兄の無事な姿を確認して安堵したものだ。帰還した当初は。
失踪の理由を訊ねたら、ラントは奇妙なことを言い出した。
曰く、水妖に呪いをかけられ、野獣の姿になっていた。とても王宮に帰ることはできなかったので黒い森の奥深くに身を潜めていた。
「今は尻尾も生えていないようですが?」
アリーアは思わず指摘した。今のラントには鋭い爪も牙もない。失踪当時となんら変わらない、人間の姿だった。
「ある乙女の愛によって、呪いは解かれたのです」
ラントは胸を張って答えた。
脈略もなく現れた少女が醜い野獣に求婚したことにより呪いが解け、元の姿に戻れたのだという。ありきたりな歌物語だ。
無論、アリーアを筆頭に王宮の誰もがラントの言葉を信じなかった。きっとショックで失踪していた間のことを覚えていないのだろう。しばらく療養させて様子を見た方がいい。臣下が女王に提言したその折、ラントは懐から証拠を取り出した。
唯一とも言うべき野獣の名残——ひとふさの、黒が入り混じった金色の長毛。獅子族の獣人を象徴する、たてがみだ。
これには皆が目を剥いた。普段は冷静な女王でさえも蒼白になった。
獣人、それも獅子族のたてがみは、人間ではまず手に入らない幻の名品だ。まず獅子族の獣人の絶対数が少ない。その上、たてがみは獅子族の象徴であり、最も長く伸ばしたひとふさを誰かに切り落とされでもしたら誇りを傷つけられたのも同然。通常ならば、結えて自身のつがいにしか贈らないものだ。運良く手に入れた国は、国宝として代々受け継いでいるという。
「これは『黒毛』ではありませんか!」
恐る恐る手に取って確認した宰相が唖然とした。黒いたてがみを持つ獅子族の獣人は、世代に一人いるかいないかの希少種だ。
「黒毛のたてがみは獣王かそれに準じる者しか持たないはずのものです」
「では本当に王子が、たてがみを持つ獣に姿を変えられたと?」
女王は困惑と恐怖の入り混じった顔で訊ねた。
「確証は持てませんが、あながち夢とも言い切れません。こうして物証がございますゆえ、調べる必要があるかと」
宰相はたてがみを絹の布に包んだ。女王が所望されたので恭しくその前に差し出す。黒光りするたてがみを見ろす女王の顔は青ざめていた。
一部始終をなんと気なしに眺めていたアリーアは、不意にそのたてがみが欲しくなった。美しさは元より、最強の獣人の証というのが気に入った。武芸に秀でていない、それどころか争い事を好まないラントより、騎士団を率いる自分にこそ相応しいと思った。
「まずはラント王子に求婚し、呪いを解いたという少女を探してはいかがでしょう? 黒い森は我が国の領土内、北は川を挟んで千尋の森、東は山脈です。国内に留まっている可能性は十分にございます」
「私はその少女と結婚の約束をしました」
ラントが嬉々として主張する。
「何としてでも探さねば」
「兄上、その娘も水妖と何らかの関わりがあるのかもしれません」
「何を言う。そんなこと、あるわけないだろう」
鼻白むラントに、アリーアはため息を吐きたいのをこらえた。恋は盲目と言うがラントは考えなさ過ぎる。
「平民の娘が一体何の用で黒い森に足を踏み入れたのですか? 野獣の姿に怯えなかったのは何故ですか? 野獣が王子と知って求婚したのでしたら、どうして正体を知っていたのですか?」
アリーアが矢継ぎ早に質問すると、ラントは返答に詰まった。思った通りの反応だ。何も考えていないのだ。皇太子が聞いて呆れる。
「……不思議な娘ではあった」
逡巡の末、ラントは答えた。
「おぞましい野獣を前にしても物怖じしなかった。むしろ気さくに、まるで友ように私に接してくれた」
落ち着いた声音だった。少なくとも、恋に浮かれて本質から目を逸らしているようではなかった。
「何かしら事情があったのかもしれません。ですが、あの娘が悪意を持って私に近づいたとは、どうしても思えません。根拠はないのですが」
ラントは数段上に座す女王を見上げた。
「しかしあの娘が異形のものだという証拠もありません。婚姻のことはさておいても、呪いを解いてくれたのですから礼をするのが道理かと」
ラントやアリーア、そして重臣達の視線を集めた女王は、口元を扇で隠した。考え込む時の癖だった。
「まずはその娘を探し出すこと。詳細は伏せ、王子を助けた手柄の褒美を授けるという名目で触れを。捜索隊の指揮はアリーアに。ただし、くれぐれも手荒な真似はしないように」
女王は淡々と指示を出した。反論する暇も与えない。
「水妖ならば貴女といえども敵いません。逆に、ただの善意ある人間ならば道理に反します。正体と目的が判明するまでは慎重に行動するようになさい」
触れの具体的な内容、捜索方法の段取り等の委細は大臣の一人に任せて、女王は退室した。
「私が探すべきだと思うのだが」
ラントは不満そうに眉を寄せた。
「ご心配なく。名前も育ちも知れぬ兄上の婚約者殿は、この不肖の妹が見つけて差し上げましょう」
「名はアスラだ。得体の知れない者のように言うな」
「出身は? 家名は聞いていないのですか」
「あまり自分のことを話したがらなかったからな。家名はないと言っていた」
田舎の村娘でさえも家名は持っているこのご時世。怪しいと思わないのか。顔を顰めたアリーアに、ラントは少し肩を落とした。
「……親を知らないそうだ」
「孤児ですか。では礼儀知らずなのも頷けますね」
「奥ゆかしい娘だった。おそらく私との身分差を気に病み、身を引いたのでしょう」
だったら置き手紙の一つくらい残してくれてもいいと思うのだが、それを指摘しようものなら「きっと傷心のあまり、そこまで考えが思い至らなかったのだ。なんて哀れな……」とさらに自分の世界に浸りそうなのでアリーアは黙っておいた。