つきのない夜
自らの腹部へと意識が向く。胃が蠢いて、キリキリと痛んだ。このままドロドロと体外へと溢れ出していきそうだ。
無性に腹立たしくて、むかむかとした気分が体を赤黒く染め今にも意識が飛んでしまいそうだ。
この世界は唾棄すべき掃き溜めだ。どうしたって救いがない。
外の雪がもっと降って更に降りしきって、いっそすべてを真っ白に埋め尽くしてしまったらいい。
窓から覗いた空はどんよりと暗く……つきの無い夜だった。
仕事から解放されたのが三時間前。言い換えるならば日付を跨ぐ二時間前だった。
やたらと忙しくなるこの時期は労働という言葉に抵抗を感じなくなる程に感覚がマヒする。普段の俺と言えば、反骨精神に燃える眼で虚空を見つめ徹底抗戦の構えで毅然と立ち向かうというのに。
生きていくには充分な程の稼ぎはあっても、時間が奪われ過ぎては不自由を感じる。ライフワークのバランスが壊れては、生きる意味も薄れるというものだ。
九月も半ば、お月見の頃合とあってもあいにくの雨にも降られ、脱ぎ散らかした湿ったスーツを一階のロビーへと持っていった。クリーニングサービスは非常に有難いと、この時は確かに感謝していたんだ。
出張による二泊三日のホテル生活が、非日常という刺激を提供し俺をストレスという外敵から守る癒しとなるはず、だったのだが。
あるいは、始まりは一時間前にフロントから来た一本の電話からかもしれない。
俺のスーツを無くしたと、神妙な声色で女性が説明責任を果たした。仕事に行きたくない俺同様の意思がスーツにも芽生えていたらしい事を、俺はこの時初めて知った。長年連れ添った仲間に、戦友のような愛着が一瞬生まれかけたが、エスケープという直接的な行動で俺を一人置き去りにしたあの無機物はやはり許せない。俺はそれほど身軽じゃないんだよ。
どうしろってんだ、明日の仕事。ジャケットは季節柄羽織らずとも問題はないが、問題はパンツだ。替えを持ってきていない。そもそもスーツ一式無くすという状況を想定していない。
一縷の希望を託し荷物を漁るも、今は亡きスーツの代役に立候補してきたのはステテコが一つとジーンズが一つ。けれどがっかりなどはしない。荷造りしたのは俺自身だからだ。身に覚えのないものが入ってたらむしろ驚きと動揺に襲われる。
とはいったものの、さてどうするか。
無論、代役は代役足りえない。採用する事でつまらない日常にささやかな刺激を与える事は出来るが、その後は目も当てられない惨状となるだろう。
24時間営業で衣服を取り扱ってる店が近くにないものかと携帯を取り出し、探そうとした俺は再び驚愕した。
次々と更新されるポップアップ画面に、異常なほどの通知欄。普段話さないような人間からの連絡。一体何が起きたというのだ。
見ればなるほど。ああ、やられた。
アカウントの乗っ取りだ。
とあるSNSアプリで、身に覚えのない連絡をこちらから多数の人間に送り付けてやがる。一部の友人は「アカウント乗っ取られてるよ!」などのコメントを返してくれているが、「しつこいよ、本当にやめて」「何言ってるかわかんねぇよ」など俺の人間性を疑っているようなやつもいる。
何より一番しんどいのが、連絡など全く取っていない目上の人間への送信だ。意味不明な言語羅列やスタンプを送り付け、挙句は既読スルー。勘弁してくれ、俺が何をしたっていうんだ。
……察するくらいの能力があると信じるしかない
全員に謝りの連絡を、いやその前にアカウントの停止か? 乗っ取りの解決が先か。
チッ。仕事が終わって安らぎを求めている中に、次々とイレギュラーなタスクが詰まれる。
砂漠を彷徨いようやく見つけたと思ったオアシスは、しかしよく見ればマグマが波打ち、挙句溢れ出してこちらを飲み込まんと津波のように襲い来る始末だ。
はぁ。一服つけよう。飲まれてたまるか。
気分転換に部屋から出るとしよう。そういえば外に自販機があったな。フルーツ系の甘いスッキリした飲み物と、長くなる夜に備えてコーヒーを買ってくるとするか。
財布を覗いて数枚の小銭を確かめ、ラフな格好で外へと出る。自販機は玄関口を出て左の……?
何で雪が降っているんだ。
さっむ!!!おいおい、風邪ひくぞ。
シャツにステテコとビーチにでも出るような恰好だ。常夏気分で雪夜に赴く奴があるか。
出張先は田舎の高地の方ではあるけど、確かにここ数日涼しい日が続いていたけど。今日は寒いなと思っていたけど!
……全く以って、ついてないようだ。月も見えないしな、なんて。ハハ。
早く買って戻ろう。冗談も言えるなんて、俺はまだ余裕がある。元気な証拠だ。
部屋に戻って、部屋を暖めて、まずはお風呂に入って。湯舟で鼻歌まじりに気分をリフレッシュしよう。
それからゆっくり対処していこう。大丈夫だ、俺はパニックになっちゃいない。至って冷静だ、クソ。
目の合ったロビーの受付嬢がぎこちなく笑いながら頭を下げる。軽装に過ぎる格好をした男が体を擦りながら戻ってきた様は、滑稽だっただろうか。自分のいたたまれなさに、伏せ目がちに会釈をしてそそくさと横を通過した。
俺は僅かに濡れた服を軽く払いながら、エレベーターを待っていた。冷えた柑橘系のフルーツジュースとルームキーを左手に、熱いブラックコーヒーを右手に持って。
チンという音の後、ゆっくりと気怠そうに扉が開く。滑り込ませるように内へと入り、扉を閉めるボタンを3回ほど押してから、5階のボタンを押した。
パン。
そんな破裂音のような、乾いた音が響いた。扉が遮断した、向こう側の空間からだった。
……。
俺を乗せた箱はおもむろに上昇を始める。
……。
銃声が続く。悲鳴が響く。銃声は止まない。
もういい。
無理、ギブアップだ。今日という日を俺は受容できない。キャパシティーが追い付かない。
ふらつく足で502号室へと戻り、鍵を閉めた。震えているのはきっと、寒いからではないだろう。
会社のパソコンが暗闇の中で煌々と灯っていた。ユニットバスからぴちょんと水滴が落ちる音が聞こえた。カーテンの裾がふわりと揺れた。腰掛けたベッドはぎしりと、鈍い音を立てた。
階段を上ってくる音が聞こえる。隣室の扉が乱暴に開けられる音が聞こえる。
買ったばかりのホットコーヒーを手に、プルタブを開ける。震えが止まらない手で喉へと流し込む。それは熱いはずなのに、温度も味も感じる事はできなかった。
扉が激しく叩かれる。
惨めだな。人生の最期はこんなもんか。
婚約だとか、夢だとか。青春だとか、努力や情熱だとか。別段そんなものなかったけど。華もなけりゃ大した起伏もない淡白な人生だったけど。終わりはこんなもんか。
一緒に買った甘夏のジュース。こっちも飲んでみたかったなぁ。せめて、何かを成し遂げたい人生だった。……人は機会を失って初めてその重さに気付く、か。
手に取ったペットボトルの先。
こちらに向けられた銃口が、眩く光った。
そういえば、この雪ならどのみち明日は出勤できなかったんじゃないか?
この際SNSのアカウントも新しく作り直すいい機会だったのかもしれない。
きっと、大した問題じゃあ無かったんだ。
ああ、ついてねえや。まったく。
お前は成し遂げたよ。
スーツと一緒に、エスケープを。