キオク色のアイシャドウ①
いつものようにキリネが店のカウンターの内側に座って店内を眺めていると、一人の客が入店した。
その客の髪はいわゆるブルーアッシュで染められていて、肩ぐらいの長さのものをハーフアップにしている。
服は黒で統一されている。黒のワイシャツに黒のカーディガン、細身の黒いパンツに、黒いパンプス。そのなかで唯一、黒いワイシャツの内側から青いインナーが覗いていて目を引いた。わざとその色だけ見せているのだろうか。
化粧もしっかり決まっていて、青色のクールな印象を与えるアイシャドウがとてもよく似合っている。サイは全く化粧をしないので、化粧をした人物というのがキリネにとってはとても新鮮だった。
右耳には二つ、左耳には三つ、それぞれデザインの違うピアスをつけていて、特に左耳の耳たぶにつけられたチェーンの長い羽のピアスが特徴的だ。
顔立ちはとても整っていて、誰が見てもきっと『美人』だと評価するだろう。ただ、まとっている空気が玉に傷で、近寄りがたい雰囲気を持っている。美人故の欠点だろうか。
そんな美人の客は店内をぐるりと回ると、コスメグッズが並べられた場所で足を止めた。それから、つい昨日サイが作ったばかりのアイシャドウを手に取ると、カウンターに向かった。どうやら購入するようだ。
「いらっしゃいませ」
キリネは椅子の上に立ってカウンターから顔を出すと、客に向かってそう言った。それからカウンターの下に隠されていた値段表を引っ張り出して、新商品のアイシャドウにサイがいくらの値段をつけたのか確認する。
が、その作業は途中で中断させられた。
「ごッrrrrrrrrrるァサイィッ!!」
その容姿からは到底想像の出来ないような野太い声が見事な巻き舌を添えて店内に響き渡った。直後、扉の音で何かが何かに激しくぶつかって、何かが激しく崩れ落ちる音がして、勢いよく扉が開かれた。そして慌てた様子のサイが弾丸のように飛び出してくる。
サイの姿を確認すると、美人の客は身を乗り出してカウンター越しにサイの胸ぐらをつかむと、キスをしてしまいそうなほど顔を近づけて怒鳴り付ける。
「アンタ、私に黙っていつ子どもなんて作ったのよ! 一体誰との子よッ!! 誰と寝たっていうのよ!」
ビリビリと空気が振動した。爆発でも起きたのかと思うような声量だった。
そんな声で放った言葉を辛うじて聞き取ったキリネは、頭の中で数回その言葉を繰り返したが、客が何にたいして怒っているのか全くもってわからなかった。ただ、サイの胸ぐらを掴んでいる行為が気にくわないと、次第に怒りを募らせていくのは確かだった。
「マスターさんに乱暴しないで」
「キリネ……」
気付けばキリネはカウンターの上に上っていて、サイの胸ぐらを掴む腕を掴んでいた。
そんなキリネの行動が意外だったのかサイは少し驚いたような顔をする。それからフッと笑った。そして──
「ぷまッ!?」
サイの鉄拳がキリネの頭へ降った。
突然の衝撃にキリネは混乱しつつ涙目で頭をおさえながらサイの方を見る。サイの表情は微笑んだままだったが、怒っているというのはすぐにわかった。だが、怒られる理由がわからない。
「キリネ」
「ひゃい……」
「降りなさい」
「ひゃい……」
低く静かにサイは言い、キリネは弱々しく返事をしながらカウンターから椅子へ降りた。
その一連の様子を見た客は「へぇ」と愉しそうに笑った。そして、「あらやだ、サイちゃんったらすっかりママじゃない」なんて言う。
サイの眉がピクリと動いた。すると客は更に笑った。
「なーに怖い顔しちゃってるのよ、サーイちゃん? やぁねぇ、聞いた話じゃサイちゃんってば子どもにお世話してもらってるなんて言うからー」
すらりとした客の人差し指がサイの左胸をついた。ぷにっという音が聞こえてきそうな弾力だ。
「こんッのエロオヤジ……ッ!」
「やだ、誰がオヤジだって?」
サイはその人差し指を掴もうとするが、あっという間に引かれてしまい、逆に右の胸を鷲掴みにされる。それからもにもにといいように揉まれまくる。
そんな客をとりあえず一発殴り飛ばそうとするのだが、いつの間にかサイの両腕はまとめて頭の上で掴まれて、抵抗することができなくなっていた。ガッチリとサイの両手首を掴んだ客の右手はどんなに力を込めても外れそうにない。どころかピクリとも動かせなかった。
「はー、いいわー、目の保養だわぁ……。ところでサイちゃん、あなたいつにも増してお肌がつるつるになったんじゃない?」
「知るか。触るな。アタシの顔とおっぱいを弄ぶな。交互に揉むな」
「あなたがキリネちゃんよね? キリネちゃんがサイちゃんにお野菜をたっぷり食べさせてあげてるのかしら?」
「人の話を聞け! というか離せ!」
「うん! マスターさん、最近いっぱい食べてくれるようになったんだよ!」
「キリネもそのまま話をしないでくれるかな……」
話を振られてにっこりと応えるキリネにがっくりと項垂れながらサイは言う。出来ればさっきまでの敵意を継続して向けていてほしかった、と心の中で呟いた。
「ところでおねーさん……? おに……おねえさんはだぁれ?」
一瞬「お兄さん」といいかけてとても怖い顔をされたので言い直したキリネはとても空気の読める子だった。それに客が気付かないわけもなく、空気の読める子を嫌いになるわけもなく、サイの胸と手首から手を離してキリネの頭を撫でるとやっと名を名乗った。
「私はジェンヌって言うの。たまーにサイちゃんと夜のオシゴトをしてるのよ」
「その言い方本当にやめろ、気持ち悪い」
「やーだ、サイちゃんってば辛辣なんだから。でもそんなところが大好きよ。今夜抱いてちょうだい?」
「マジでやめろ!」
サイの拳がジェンヌの顔面めがけてとんだ。だがジェンヌはその拳を簡単に片手で受け止めてニコニコと笑っている。
「ジェンヌ……さん?」
「さん付けなんかしないで、ジェンヌちゃんでいいわよ」
「ジェンヌちゃん!」
サイは先程からずっとジェンヌに対して嫌そうな顔か苛立った顔をしているのだが、対照的にキリネは花が咲いたような笑顔を見せていて、早くもジェンヌになついてきたようだ。人懐っこい子である。
「キリネ、悪いことは言わないからこいつにはなつかない方がいい。まずこいつ男だし。ジェンヌって後から名乗り出したやつで、前まではリュウあだだだだ!」
「サイちゃーん? 世の中には言っちゃいけないことがあるってそろそろ知るべきじゃないのー?」
アイアンクローが決まった。相変わらずジェンヌは笑顔のままだが、手には徐々に力が込められている。
だがサイはそんな暴力になど屈しない。
「ロジャー、ヨーク、アンクル、ゼブラ、オーバー! ついでに言うならオーバー、キング、エイブル、マイク、エイブル!」
「何言ってるか全然分かんないけど言いたいことは十分伝わったわよ」
「いだだだだ!」
ジェンヌの手に更に力が込められた。それに伴ってサイが更に悲鳴をあげる。キリネにはその悲鳴すら楽しそうに感じた。こんなにはしゃいだ様子のサイを見るのは初めてだ。
ちなみに、サイが言い切ることのできなかったジェンヌのもう一つの名前はリュウゾウという。
「で」ひとしきり騒いだあとでサイは急に真面目な顔になって口を開く。「今日は何の用で来たわけ?」
そんなシャドウ一つのために来たわけじゃないんだろう? と言われると、ジェンヌは「やぁねぇ」と言いつつもニヤリと笑った。それから少し間を置いて、「夜のオシゴトを持ってきたのよ」と言う。
「アンタが持ってくるぐらいだ、どうせロクなもんじゃないんだろうね」
「まぁそうね。いつもとは違って数も多いし、時間の制約があるわ。だから今から一緒に行ってもらおうと思って」
「は? 今?」
普段、回収は夜に行われる。夜が一番あちら側にとどまった幽霊たちが見つけやすい時間だからだ。
それに、他の明るい時間だとあちら側の人間に見つかってしまう場合がある。いわゆる霊感というものを持ったあちら側の人間はごく稀にこちら側の者を見つけてしまう。基本的に、あちら側からこちら側へは干渉させないというのがこの世界のルールであるため、見つけられるのは極力避けるようにしているのだ。
生きている人間が死後の世界になんて関わる必要は無いのだから。
さて、だというのにジェンヌは今から行くと言う。今は夕方。日がようやく落ちてきた頃で、外はまだ明るい。あちら側の人間が活動している時間だ。
「オシゴトする場所がねぇ……廃墟なのよ。それもあちら側じゃ心霊スポットとして有名な、ね。だから暗い時間に行くとかえって人が多いらしいのよ」
ジェンヌがらしい、と言ったのは、こちら側の者はあちら側の者が見えないからだ。見えないのに集まるかどうかなんて知るわけもない。
ジェンヌの話を聞くと、サイはしぶしぶ「そうかい」なんて言いながら外に出る準備を始める。それからキリネに留守番を頼もうとしたところで遮られた。
「サイちゃんってばこんな可愛い子を一人置いてこうっていうの? いくらサイちゃんでもそれはダメよー。ねぇ、キリネちゃん?」
信じられない、と言いながらジェンヌはキリネの頭を撫でた。キリネもサイと同じように考えていて留守番をするつもりだったので、ジェンヌの発言に驚いたような表情を浮かべている。
だけどなにかを言う訳ではなく、キリネは二人の会話の続きをじっと待つ。
「じゃあ何、キリネを連れてくって?」
「ええ、当たり前じゃない。あら、今キリネちゃんが危ないって考えたでしょ? 心配要らないわよ。だってキリネちゃんには私がずっとついていればいいのよ」
だからサイちゃんは頑張って回収してちょーだい、と語尾にハートをつけながらジェンヌが言って、回収の仕事にキリネが同行することが決まった。