神を名乗るもの②
あちら側へ通じる扉が開かれたのは、サイとジェンヌが出て行ってから二日後のことだった。
扉の開く音に反応したキリネは、期待と安堵と不安を入り混じらせながら一目散に扉の前へ駆け寄った。
「……ッ、ごめん、ね、キリネちゃん」
扉の前に立っていたのは想像していたよりもずっと傷だらけになったジェンヌと、ジェンヌにもたれかかったまま意識の無いエイゲンだった。エイゲンも傷だらけでジェンヌよりずっと悪いように見える。そして、この場にサイはいない。
「マスターさんは……?」
消え入りそうな声でキリネが尋ねる。ジェンヌはそれに目を伏せて「大丈夫、まだ死んではいないわ」とだけ答えた。確かに、サイのことをまだはっきりと覚えているのだから死んではいないのだろう。だが無事とは言わなかった。そこに気付いてしまったが為に、キリネの心には黒くて重たいものがのしかかる。
「キリネにできることある?」
零れだしそうになる感情をぐっと抑えると、キリネは静かな声で言った。本当は今すぐサイのところへ行きたい気持ちでいっぱいだが、ジェンヌとエイゲンがこんな姿でサイを置いて帰ってきたのだ。かなり危険な状況なのだろうと、そう判断したキリネは子供らしからぬ冷静さで自制していた。
まずはジェンヌが引きずってきたエイゲンを寝かせて簡単な応急処置を済ませる。次にジェンヌも同じように手当てする。二人ともところどころに大きな爪で切り裂いたような傷がある。これはまるで、まるでサイに攻撃されたような傷跡だ。
「リュウちゃん! どういうことですか!」
大体の手当てが終わったぐらいのタイミングで、今度はこちら側の扉が荒々しく開かれた。入ってきたのは息を乱したアリカ。どうやらジェンヌから連絡を受け、急いでここまで来たようだ。アリカは傷だらけのジェンヌとエイゲンを見てギョッとした表情を見せた後、すぐに真剣な表情になった。探偵の顔だ。
「知恵を借りたいのよ……あとは、そうね。キリネちゃんの力も借りたいわ。最悪なのよ」
「最悪って?」
アリカが聞き返すとジェンヌは大きく息を吐いた。それから少し身震いをする。恐怖を感じているような仕草だ。
少し間をおいてからジェンヌの口から発せられたのは、とてもじゃないが信じられないような言葉だった。
「サイちゃんが、乗っ取られたのよ」
遡ること二日前。店を出たサイとジェンヌはタカトに聞いた場所へと向かった。廃校にたどり着くと、そこでは黒くて巨大な不気味な何かと対峙するエイゲンの姿があった。
次から次へと刀を生み出しては黒い何かへ切りかかるエイゲンだが、相手に効いているようには見えない。刃は黒いもやの様なものを一時的に切り裂くだけにとどまっているようだ。しかも、もやにふれた刀は徐々にその形を失って消えていく。そんなことを繰り返しているうちに、エイゲンが急に後ろへ飛びのいた。
「あっぶねぇ……」
エイゲンが飛びのいた直後、無数の刀がエイゲンが先ほどまでいた場所に突き刺さっていた。その刀身は真っ黒だが、形はエイゲンが生み出すものと同じのようだ。
「どういうことよ」
「知らん、俺が聞きたい。斬った数だけこうやって返ってくるから、斬らなきゃいいんだろうけ、ど」
話している途中で不自然にエイゲンの身体が揺れた。と、思った次の瞬間には鮮血が舞っていた。
エイゲンは一瞬顔を歪ませたが、すぐに口角を吊り上げ忌々しそうに「またこれだ」と吐き捨てるように言った。左肩の辺りには赤い染みがじわじわと広がっている。斬られたのか貫かれたのかは分からない。それどころか、いつ攻撃されたのかその動きを誰もとらえられていなかった。
「いつ、何をされたのかも分かんねぇが時たまこういうのが飛んでくる。こっちは手ごたえもないし、正直お手上げだ」
傷口は熱く燃えるような、冷たく凍えるような、なんとも形容しがたい感覚と共に痛み続ける。分からないのはいつ攻撃されたのかだけではない。何をされたのかも分からなかった。血が出ているからきっと斬られたか貫かれたかしたのだろうけど、そうとも言い切れない。殴られたような鈍い痛みもあるし、毒でも盛られたかのような痺れも感じた。傷が深いのか浅いのかも分からないが、左腕がやや動かしにくい。利き手が右で幸いだったというべきだろうか。
さて、どうしたものかとエイゲンが考えあぐねていると、突然サイが地を蹴り宙を舞いながら竜のものに変化させた右腕で黒いもやごと相手を切り裂くように振るった。
恐らく斬撃の様なものが飛んでいたと思う。空気が一瞬爪の形に揺らいだ。
「……なるほどねぇ」
サイはつまらなさそうに言った。手ごたえが無いと言ったエイゲンの言葉の意味を理解したらしい。ついでに、いつ攻撃されたのか分からないというのも。
一拍遅れてからサイの右腕の至る所から血が噴き出た。エイゲンの刀のように形を失って消えていく様子はないが、代わりに傷の数が多い。ここまで斬られていたら何かしらわかりそうなものなのだが。
血が止まる気配を見せない右腕を、サイは特に気にするそぶりも見せずにまた振るう。今度は横薙ぎに、黒いもやを斬撃と風圧で振り払う様に。
「ッ、がはッ」
だが次は血を吐いた。
腹を抉られるような痛みがサイを襲い、たまらずサイは膝をついた。毒の類とはまた違う、身体の内側から破壊されるような苦痛。何をされたのかなど、皆目見当もつかない。
サイが膝をついたことで、エイゲンとジェンヌは身を固くした。そこにあるのは動揺と恐怖。
実際のところ、伝説と謳われ続けるユイト時代よりも今のサイの方が圧倒的に強い。それは純粋に記憶の量が多いからだ。そんなサイがなす術なくされるがままに膝をついた。二人とも、サイの強さを身をもって知っているからこそ恐怖心が湧き上がる。
「ッ……ゔ、げッ……、本体ッ! っぐ、本体を探せ! 今すぐに!」
硬くなった二人の身体を動かしたのは血を吐きながらも叫ぶサイの声だった。
サイの声にハッとしたジェンヌはサイの言葉の意味を考える。本体を探す。目の前にいる黒いものの中には本体がいない。だから攻撃が通じない。なるほど、それならば納得がいく。
「喰ってみたら分かった。こいつはただの目眩しだ」
「喰ったって……、馬鹿なんじゃないかしら!」
「ッは、同感だね!」
苦しそうに顔を歪めつつもニヤリと笑ってサイは立ち上がった。
竜とは別に、サイは鬼にも変化することが出来る。鬼に変化している状態のサイは、人の魂や瘴気などを喰らうことができる。辺り一面に漂う黒いもやも瘴気みたいなものだと判断したのだろう。だから喰らってみた。お陰で内側から蝕まれる羽目になったのだが。
「大声で言いやがって、図星みてぇだぞ!」
エイゲンが叫んだ。
走り出した三人の周囲のもやから、人のようなものが幾つも現れ襲い来る。これまでとは全く違う行動パターンだ。
人のようなものは顔の辺りを真っ黒に塗り潰されており、どれも同じように見える。だがたまに刀や銃など別々の武器を持っていることから、それぞれが別の個体の様にも見える。どちらにせよ蹴散らしながら進むしかない。
「はん、斬れるんならこっちのもんだな!」
「言ってる場合かしら!」
人の様なものには攻撃が当たる。エイゲンは片っ端からそれらを斬り伏せ、ジェンヌは次々と光の玉の様なものを放って吹き飛ばし、サイは竜の腕で薙ぎ払いながら進んだ。エイゲンの言う通り、攻撃が当たるのであれば容易いものだ。だが、それにしたって数が多すぎる。しかもそれらは無尽蔵に生み出されていく様にも見える。
振りかざされる剣先が、放たれる銃弾が、飛び交う矢が、燃え盛る炎が少しずつ三人の余裕を奪っていく。流石に無傷とはいかず、細かな傷が増えてきた。体力もかなり消耗している。
「サイちゃん! 多分上にいるわ!」
「分かった、先に行ってる」
「任せたわ!」
周囲を探索し続けていたジェンヌがようやく本体と思わしきものを見つけた。指し示したのは廃校舎の屋上。サイの竜の翼があればすぐに辿り着くことができるだろう。そういえば、タカトがそいつは屋上にいると言っていた。
飛び立とうとするサイを人の様なものが妨害する。が、両手に刀を持ったエイゲンが回転する様に斬りかかりそれらを纏めて吹っ飛ばした。
エイゲンのおかげで人の様なものとの距離が出来た。その隙を利用してエイゲンとジェンヌは一気に駆け抜け校舎の中に向かう。飛べない二人は中から屋上に向かって走る。
「サイちゃんッ!」
廊下を駆け抜け、階段を飛び越える様に駆け登り、ようやく辿り着いた屋上に続く扉を蹴破る。途中でいくつもの人の様なものを薙ぎ倒してきたが、それらが尽きる気配は全くなかった。恐らく本体と対峙しているであろうサイが、一人でどれだけの数を相手取っているのか分かったものではない。最速で屋上まで駆け抜けた二人は真っ先にサイの姿を探した。
サイは屋上の中央に一人立っていた。
ぞわり。
背筋を悪寒が走った。
「え、あ……ッ!?」
ジェンヌが訳もわからず防御姿勢を取ろうとした、次の瞬間には背後に現れたサイにガラ空きの背中を切り裂かれた。
「チィッ!」
一拍遅れてサイの襲撃に気付いたエイゲンが刀を振るうが、既にそこにサイはいない。それに気付いたエイゲンが人間離れした速度で即座に刀を反対側へ振るうと、サイの爪と交差した。
「……おいおいおいおい」
エイゲンは思わず笑みをこぼした。その笑みは絶望でもあった。
サイの瞬間移動のカラクリは分かっている。鬼の能力の一つ、影移動だ。問題はどこに現れるかわからないということ。
「っ、ふ……一番敵に回したくないのが、きちゃったわね……」
不意打ちを喰らって倒れていたジェンヌもヨロヨロと立ち上がりながら笑った。
「…………」
黒いもやを纏ったサイは何も言わず二人の前に佇んでいる。顔のあたりは影になっていてその表情は見えない。
このほんの少しの時間で何があったのかは分からない。一つだけ確かなのは、サイが祟り神とやらのものの手に落ちているということだった。




