あの日の地図と紅茶②
「えっと……俺は、泊ヶ山尊人です。御神宿高校に通ってました。三年生、でした」
青年はそんな自己紹介から始めた。サイもジェンヌも、あちら側の地名については全くわからないため、御神宿高校と言われても特にピンとは来なかった。ただ少し、『でした』という過去形の表現が気になりはしたが。
「いつだったかは、詳しく覚えてないんですけど……俺、確か事故に遭ったんです。多分、一年ぐらい前に。ただ、最初はそんなことも全部知らなくて、ずっと、いつも通り学校に行ってました。
最初に気付いたのは、みんなが俺の方を見てギョッとしてた時です。何でそんな顔をするんだろう、って全然わかってなかったんですけど……誰かが『なんで』って叫んだんです。それで、本当は俺は死んでたってことに気付きました」
死んでしまった男子生徒が教室内にいる。その存在に気付いてしまった時、その教室内に居たものはさぞ驚いたことだろう。あちら側の者がこちら側の者を見てしまった時の反応は大抵そういったものだ。まあ、無理もない。見えてはいけないものが見えているのだから、そんな反応にもなるだろう。
「女子は俺を見て泣いたりして、それは……ちょっと、傷付きました。でもどうすることもできなくて、どこにもいけなくて、俺はそのまま授業を受けることにしました。高校も卒業してないのに死んだっていうのが信じられなくて……信じたくなくて、俺は生きててここにいるんだって思い込むようにしたんです。無視されたり、驚かれたり、泣かれたりするのは、そういういじめ、みたいなやつでいつかはおさまるだろうって、みんなが俺をからかってるんだって、無理やり考えてました」
尊人はそう言いながら、とても悲しそうな表情を浮かべた。生きていると思い込むことが出来たとしても、周囲にそんな反応をされたのだから相当堪えただろう。それでも彼は諦めたくなかったのだ。
そんな生活を続けているうちに、次第に周囲の者たちが尊人に慣れていく。害はないし、見た目も普通の生徒と殆ど変わりない。ちょっと存在感が希薄で、触れることができない。それ以外は生前の彼と何一つ変わらない。だからクラスメートは少しずつ尊人と交流するようになっていった。
「先生も俺に慣れてくれて、テストとか、プリントとか、そういうのも俺の分が用意されるようになりました。あとは……みんなが俺の存在に慣れてくれるようになると、俺が行動できる範囲が増えていきました。最初は、教室の外になんて出れなかったんです。それが、移動教室にも行けるようになって、グラウンドにも、体育館にも行けて。誰かが俺を誘ってくれれば、学校の外にも行けました。帰りながらゲーセン寄って、ちょっと遊んで、それから帰るっていうのも出来ました。でも、決まって家の前まで来ると目の前が真っ暗になって……俺は、次の日の朝の教室にいました」
夜遅くまでクラスメートと遊んでいても、家の前まで誰かと一緒に来ても、玄関に手をかけた瞬間彼の意識は霧散してしまう。
彼の意識は朝八時に教室の扉を開くところから始まった。長くても一日十時間程度しかない意識は、きっと生きていた頃の感覚を少しずつ忘れていくのに充分だったのだろう。それは五感だけでなく、時間の感覚も含まれる。
恐らく、彼が事故に遭ったのは一年よりももっと前のことだ。だから、彼の姿はこんなにも曖昧で、今にも消えてしまいそうなのだろう。長い時間の中で、彼は自分の姿を忘れかけてしまっていた。
「……だから、あなたはあの時楽しそうに歩いてたのね。遊んでいる最中だったから」
「……はい、多分そうだったんだと思います」
サイもジェンヌも、尊人の姿がはっきりとは見えていない。表情もギリギリ感情が読み取れる程度で、彼がどんな顔立ちなのかまでは分からない。だけどそれを悟られないように、彼が自分自身のことを忘れかけていると思い出させないように、ごく自然に会話を続ける。
「一緒に何かを食べることはできなかったし、誰かに触ることもできなかったけど……でも、それなりに楽しかったんです」
でも、と尊人はここで深く息を吐いた。
それなりに楽しい生活。幽霊ながら、明るく満足してしまえるような生活。それは彼という存在に影響を及ぼすことになる。
「一日が始まる時間の間隔が少しずつ長くなっていきました。必ず朝八時に始まっていたのに、朝十時に机に座っている状態から始まったり、翌日じゃなくて、翌々日の朝八時だったり……。一週間後っていうこともありました。『ああ、俺消えちゃうのかな』って、漠然と思うことしかできなくて、でも楽しいし、ちょっと幸せだしいいかなって納得してる自分もいたんです。……もしかしたら、無理矢理自分を納得させてただけかもしれないんですけど。
でも、クラスのみんなが消えるなって、俺を呼んでくれたんです。一緒に卒業するまでは、絶対に居なくなるなって……」
話しているうちに尊人の声は震えていく。それでも堪えて、絞り出すように、噛み締めるように彼は話を続けた。その脳内では今までの想い出が駆け巡っていることだろう。体育祭や文化祭、日常の何気ない授業の一コマや、テスト期間中の苦しみ。どれも学生でなければ、共に学ぶ仲間がいなければ得られないような経験だ。
その一つ一つを詳しく語るわけではないが、それがどういうものだったのか、ある程度の想像はつく。俯きがちだった彼が、顔を上げる。その表情は爽やかな笑みを浮かべているように見えた。
「それで、俺、今日みんなと一緒に卒業できたんです」
見てみれば彼の荷物の中には卒業証書もあった。そこにはキチンと『泊ヶ山 尊人』と書かれていて、学校側も彼の存在を認知していたということがわかる。これがどれだけ特別な措置なのかは分からない。だけど、彼は確かにそこに存在して、そこで確かに愛されていたのだ。それだけは間違えようもない。
「それが、今日ここに来た理由?」
「……はい。学校を卒業できたから、ちゃんと自分と向き合おうって思いました」
「そっか」
ふう、とサイはため息をついた。内心では彼の話を聞いたことを後悔している。あちら側での話を聞くと、どうしても情が湧いてしまうのだ。本来なら失う記憶を取り戻す方法を提示してしまう。あまり褒められたことではないのは分かっている。だが改められそうにはない。
尊人にはまだ記憶を失うという話をしていない。それまで大人しかった者がそれを聞いて暴れだす例も少なくないため、サイは改めて警戒しつつ口を開く。
「ここの住人になるにあたって、アンタは今から一度記憶を全部失う。……だけど、何もかも無くなるわけじゃない。アタシが預かってるだけだ。だから、必ず取りに来なさい」
尊人は一瞬キョトンとした表情を浮かべた。しかし彼は聡い。サイのこの言葉で、本来ならば自分の記憶は自分で探しにいかなければならないことまで理解したようだ。
本当は今後についてもっと聞きたいことが山ほどあったが、今から記憶を失うのであれば無駄だろう。きっと、記憶を失った後の自分が何とかするはずだ。そう前向きに考えて、尊人は前を向いた。
「はい、必ず取りに来ます」
再びサイとジェンヌの二人きりになると、ジェンヌはニヤニヤと笑いながら「この子はどうなるかしらね?」と言った。その視線の先には彼を吸い込んでいった黒い箱がある。
「このまま能力が生かされるなら情報屋だろうね」
サイは彼の記憶の宝石を手に取り眺めながらそう答える。頭の中では彼の今後というよりも、この記憶をどう加工するかを考えている。もし彼がちゃんと記憶を取りに来るのなら、この記憶は彼にとっての武器になるし、肌身離さず持ち歩くものになる。どういう形にするのが一番いいのか、何回か記憶を見させてもらう必要があるだろう。キリネにお願いして一番いい形を教えてもらうのも有りかもしれない。
「取りに来るといいわね」
「そうだね」
当然のことながら、彼はここでのやり取りも全て忘れてしまう。その状態でこの店に訪れるかどうかは殆ど賭けだ。この店で売っているものは記憶なので多少値段が張る。稼げるようになるまでは、足が中々向かないだろう。
こちらから彼を呼ぶというのも出来なくはないが、まず接点が無い。それに、大抵の者は周囲からありとあらゆる話を聞かされて、サイやジェンヌを神のようにあがめるようになってしまうので気安く話しかけるのも難しい。
だからそう、願わくば彼がこちら側で美味しいものを食べながら、そこそこ幸せな日々を送れることを。と、そう思うのだった。




