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仕事終わりの一杯③

 アリカの家に戻ると、まず行われたのはサイの手当だった。左肩の傷は見た目よりもずっと深く、しかも刃には毒が塗られていたらしい。毒は少しずつ、しかし、着実にサイを侵食していて、サイは真っ直ぐに歩くことができないでいた。


「流石の私も解毒剤は持ってないわね……。ちょっと役場からとってくるから待ってて頂戴」

「いや! リュウちゃんも重傷なんだから動かないでください! 私が行きます」

「キリネがおつかいいくよ?」

「キリネはダメ。ここにいなさい」


 そんなやりとりを経て、アリカが役場に行き解毒剤を調達することになった。家の中には傷だらけのサイとジェンヌ、自分に何か出来ることはないかとウロウロするキリネが残される。

 不安げな表情を浮かべるキリネを見て、サイはふっと息を吐きながら力を抜いて微笑んだ。それから優しい声色で「キリネ」と呼びかける。


「なあに? キリネ、できることある?」

「もちろんさ。むしろキリネにしか出来ないことかもしれない……っ、とと」


 力を抜いた時に気も緩んでしまったらしい。普通に座っていた筈なのにサイの身体はバランスを崩してぐらりと揺れ、後ろにいたジェンヌに支えられた。なるほど、重傷らしいとサイはやっとのことで自覚する。だが、ここで倒れてしまえばキリネをさらに不安にさせてしまう。それはなんとしてでも避けたかった。サイの中で芽生えつつあるキリネへの特別な感情がサイをそうした思考に導いていた。


「今日はあたしたちの為に角煮を作ってくれたんだってね?」

「うん、そうだよ! マスターさんたちがね、前にお仕事が終わった後食べてたって聞いてたから作ったの」

「じゃあ、角煮を美味しく食べられるようにご飯と味噌汁も用意してくれないかな」

「ご飯とお味噌汁? マスターさん、お酒飲むんじゃないの?」

「気が変わったんだよ。キリネが作った味噌汁が飲みたいんだ。お願いできる?」

「まかせて!」


 サイにお願いをされたのがよっぽど嬉しいらしい。先程までの不安げな表情はどこへやら、キリネの表情はパッと明るくなって、そのまま軽い足取りで台所へと駆けていった。その背中を見送った後にジェンヌが信じられないものを見たような顔で「どうしちゃったのよ、急に」とサイに問いかける。

 サイはあまり酒に強くないのだが、だからといって酒が好きではないというわけではない。むしろ大好きだ。大好物といっても過言ではないかもしれない。そのサイが、最高のつまみを用意されたこの状況で酒を飲む機会をふいにするという。正気じゃないとすら思える行為だ。


「本当に気が変わったってだけだよ。深い意味はないさ」


 しかしサイはそう言うだけで、それ以上のことは何も言わなかった。その代わりに、「あたしはキリネのことをどう見てるんだろうね」と呟くように言う。


「何よ急に。イロハちゃんとキリネちゃんをごっちゃにしてるって話を引きずってるの?」

「いや、そういう意味じゃない。……いや、そうなのかな。最近、よくわからなくなってきたんだ。なんというか……キリネを見てると、怖くなる」

「怖い?」


 今までジェンヌがサイと付き合ってきた中で、サイが『怖い』などと口にする機会は一度としてなかった。故に、サイの発言はとてもじゃないが信じ難く、ジェンヌにある種の恐怖を与えた。


「怖いっていうのが正しいのかもわからない。ただ、得体の知れない不安があるんだ……それから、頭の奥がカッとする感じ。どうしちゃったんだろうね、あたし」


「それは……」と、言いかけてやめるとジェンヌは少し考え込んだ。確かにそれは恐怖なのかもしれないが、キリネそのものに対する恐怖なのかと問われればそれは違うような気がする。あんな小さな子どもに対して何故恐怖を抱くのか、逆に疑問だ。しかもキリネはあんなにサイに懐いていて、あんなに好意を寄せている。何が怖いというのか。

 それでも怖いというのであれば、それはキリネに対してではない。

 それは、『いつかキリネを喪ってしまうかもしれない』という恐怖だ。イロハを喪うという経験がサイに植え付けたトラウマだ。

 しかし、それをサイに教えてあげたところでなんになるというのか。きっと、喪うことに恐怖を覚えていると自覚したサイはこれまで以上に自分を犠牲にしてキリネを守り抜いていくのだろう。ジェンヌが今まで見てきた中で、サイは誰よりも自分の痛みに鈍感だった。だからこそ、回収屋を辞めた今でも回収の仕事が舞い込んでくる程度の実力があるわけだが。

 それならば、今ここでジェンヌがかける言葉は決まっている。「それは」とジェンヌは言い直してニヤリと笑ってやった。


「それは恋ってやつよ、サイちゃん」


 中々のキメ顔で言い放ってやった。だというのにサイからの反応はない。自覚している程度にはふざけた事を言ったので、多少身体が動かなくとも拳か頭突きか、あるいは悪態が返ってくるとばかり思っていたのだが。

 不思議に思ったジェンヌがサイの方を見てみると、そこにはぐったりとジェンヌに全体重を預けままま眠る──正しくは意識を失っている──サイの寝顔があった。その身体は熱く、呼吸はやや荒い。


「本当におバカなんだから……なんでギリギリまで我慢しちゃうのよ」


 呆れたようにジェンヌはため息をつく。それから体勢を変えて、サイを一先ず寝かせてやることにした。膝にサイの頭を乗せてその寝顔を堪能するように眺めながら、黒髪をさらりと撫でる。

 毒に侵されながらも平然を装っていたサイだったが、実のところ限界はとっくに迎えていたのだ。左肩を負傷した後、いくらか暴れ回ったおかげで血が巡り毒が早く回っていたのである。

 恐らくサイがこのまま息絶えてしまうことは無いだろう。何の根拠もないがそう信じて、ジェンヌはサイの寝顔を見守る。それからふと思い出したように『記憶の書』を取り出してパラパラとめくった。


「……まあ、無いわよね。知ってたけど」


 分厚い本をどんなにめくったところで、解毒ができるような魔法は載っていない。そんな記憶を得たことなど一度もないのだから当然だ。

 何度も繰り返し『記憶の書』を睨みつけ続けたジェンヌだったが、やがて諦めてため息をつくと『記憶の書』を閉じて消した。それから漠然と思う。


「治癒術みたいなの探してみようかしらね……」


 何度だって懲りずにサイは無茶をするのだ。なら、どんな無茶をしてもサイのことを守れるようになろうと、ジェンヌは一人決意した。


「……ふふ、これはどんな種類の愛なのかしら」


 もしこれが恋という意味での愛なのだとしたら、始まる前に終わってしまっている。サイの心はずっとイロハのものだったし、今はキリネのものなのだから。だが、叶わぬ片想いと分かっても痛みも悲しみも湧かないということはきっとこれは恋ではないのだろう。


「顔はすっごくタイプなのに」


 誰が聞いているわけでもないのにそう吐いて、ジェンヌも静かに目を瞑った。

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