45話 一騎討ち
今川軍の本隊が本陣に入るのを見届けた後、村の男衆は酒や食料を本陣に運び込む作業に入った。
村で用意した酒肴の量が結構あるので、何度か往復しなければならない。俺と小一郎もその作業隊に混じり込んで、今川の本陣に再度入っていった。
運びながら、陣営の確認をする。
今川義元は桶狭間山の陣の中央後ろ寄り…。松下之綱の部隊は今川義元の場所から、やや前方か。桶狭間山から少し離れた西方の小高い丘に別部隊も三部隊ほど陣を張っているようだ。
うん。大軍だな…。清洲で聞いた二万五千人は総勢だったのだろうけど、ここに来ている本隊の兵数だけでも織田軍の倍以上? いや三倍までいくかもしれない。 本当に織田軍は勝てるのだろうか?
「お主らの協力を殿は大義に思っておるぞ。今後、この地の乱取りの禁制を出す故、今後も協力を惜しまぬように」
偉そうな侍が、村長にそのように話しているのを聞きながら、酒甕を置いてまた村に戻る。
「兄ちゃん。鷲津砦と丸根砦が今朝、今川軍に落とされたって」
少し時間差を置いて戻ってきた小竹が俺に報告する。
やはり昨晩火の手が上がっていたのはそのどちらかだったのだろう。しかし、これで織田軍はますます不利になった。鷲津砦と丸根砦が落とされた今、ここの今川本隊が大高城へ入城するのは簡単だ。大高城をベースに清洲を攻められたら、防戦するのはなかなかきついだろう。やはり今川軍はここで叩いておかないとまずい。
また次の酒甕を持って、もう一度今川本陣に入る。既に陣内では俺達が運び込んだ酒肴で酒盛りが始まっていた。
俺が織田軍の状況を危機的に感じているということは、裏を返せば今川軍は圧倒的に有利な戦況だと思うはずだ。恐らくもう勝った気でいるのかもしれない。
…一若と彦二郎は無事に信長に報告できただろうか?
ふと、不安がよぎる。
念のため小一郎も報告に出すべきか…。
少し悩みはじめた所で、今川軍が俄かに騒がしくなった。・・・ん?どうしたんだ?
「殿!!幕山に陣を張った井伊家の部隊が攻撃を受けております!!」
「なに!! 織田信長か!?」
幕の向こうから、今川義元らしき大声が聞こえる。
…織田軍の攻撃が始まったのか?
「殿!! こちらの本陣に向けても、少数ですが騎馬の部隊が近付いております! 前方で既に小競り合いが始まっているようです!!」
「やばいぞ。戦が始まったみてぇだ。巻き込まれる前に早く村に戻ろう…」
桶狭間村の村人達がこそこそと本陣から出て行く。
「小一郎。俺達もここから出よう」
俺も小一郎を引き連れて、足早に本陣を出る。本陣を出るときに立てかけられていた三間槍を1本手に取り、小一郎に話しかける。
「俺は松下の殿さまに話をしてくる! 小一郎は一旦村へ戻って、可能であれば織田軍に合流しろ」
「けど…」
「いいから! 早く!」
そのまま小一郎を置いて、松下家の部隊の方へ走る。本陣の前方では既に戦いが始まっており、いきなりの戦闘開始に今川軍は混乱している様にも見えた。
攻め込んできている軍の方を見る。兵の数は随分少ないように見える…一体誰が攻めてきているんだ?じーっと目を凝らして見ると、前線に派手な具足と、真っ赤な長槍を持って暴れている侍が見えた。
「…又左衞門じゃねーか!? あいつ、何やってんだ!?」
思わず声に出てしまった。又左衞門はまだ信長に許されずに、熱田で浪人生活しているはず…まさか、勝手に参戦してるってこと?そんなのアリなの?
しかし、よく見ると信長のその他の家臣も参戦しているようだ。メンツを見ると、血気盛んなウェイ系が取り揃っている感じだ…おそらくは撹乱部隊か…
松下家の部隊まではまだウェイ戦線は届いていない。…が、あの勢いだと又左衞門があの長槍でぶっ込んで来るのも時間の問題だな。
松下家の武士達は戦闘の前線が迫ってきている中でかなり殺気立っているようだ、下手に近付けば之綱に話しかける前に、殺されそうだ。 ・・・仕方ない!
俺は足早に松下軍の前方に回り込み、大声で呼びかける。
「日頃は音にも聞きつらん、今は目にも見給へ!! 我こそは尾張の住人、木下藤吉郎と申す者!! 槍の名手、松下加兵衛殿とお見受けする! いざ、尋常に勝負!!」
冒頭のこっ恥ずかしい口上は、昔、之綱と一緒に学んだ平家物語に書いてあったものだ。今の立場の俺が言うとギャグにしかならない。それに二人でふざけてやっていた一騎打ちごっこの時によく使っていたセリフでもある。…敵意は無いってことに気付いてくれよ!之綱!!
突然の一騎打ちの申し出に松下軍がざわつく。…が、すぐに人垣が割れ、之綱が前に進み出てきた。困惑したような顔で俺に尋ねる。
「…藤吉郎か? なぜこのような場所に…」
俺は無言で頷き、之綱の目を真っ直ぐに見つめて、槍を構える。その様子に之綱はハッとして、更に前方へ歩み出て来てくれた。そして、俺を見据えて槍を構える。
…懐かしいな、この感じ…。之綱も同じくそう思っているのであろう、少し嬉しそうな顔をしている。
一瞬の間を置いて、お互い攻め寄った。
「ガチン!!」
と槍と具足のぶつかる音がする。
俺が之綱の槍を左手で押さえつけ、之綱が俺の槍を左手で押さえつける。
お互い至近距離で向かい合った。
「ご無沙汰しておりました…」
俺が最初に話しかけた。
「はは! 藤吉郎。驚いたぞ?一騎討ち遊びとはどういうつもりだ?」
之綱が楽しそうに聞いてくる。
「申し訳ございません。ここは危険ですのでお逃げ下さるようにお伝えしたく、あのような戯れ事をいたしました」
それを聞いて之綱が真剣な顔をする。
「どういうことだ?」
「今、攻めてきているのは織田家の撹乱部隊です。この後、主力部隊が今川本陣を狙って攻めてきます。今川義元は織田家の精鋭に討たれるでしょう…」
「なにっ!? なぜその様な事をお前が知っている?」
松下家は今川家の家臣の寄子になっているだけで、それほどの恩義は無いはずだ。今川家に忠誠を尽くす義理もあるまい…。そう睨んで、ありのままを告げる。あとは之綱の判断に任せよう。
「私は今は織田家に仕えています。しかし、貴方には無事でいて欲しい…それだけです!」
そう言って、之綱の槍を打ち上げ、之綱から距離を取る。一礼して、踵を返す。
急がないと又左衞門が松下家の軍勢にも攻撃を仕掛けてきてしまう。俺はそのまま前線に向けて走り出した。
之綱、無事にこの戦から脱出してくれよ!!
戦の開始を告げているように、さっきまで晴れていた空に俄かに黒雲が広がっていた。
遂に桶狭間の戦いが始まってしまったようだ――。