37話 根源的な疑問
俺はそのまましばらく座り込んでいた…。
情けない事に、緊張が解けたのと額の痛みで足に力が入らず、立ち上がれなかったのだ。
左目に血が入ってきて片目しか開けられないし、床にボトボト落ちている血を見ているだけで貧血になりそうだ。ぼーっと痛みを我慢しているところに、部屋に残った若者の一人が血止めの唐辛子粉末を持ってきてくれた。
「!!」
唐辛子はメチャクチャ傷口にしみた。傷口の激しい痛みでのたうち回りたい所だったが、若者達が心配そうに見ているのでカッコつけてグッと我慢する。お陰で意識は鮮明になった。
しばらくするとちゃんと出血が治まってきたので手ぬぐいを包帯代わりに巻いて貰い、なんとか痛みも我慢できるようになってきた。
「さてと…」
とりあえず、林佐渡守を捕らえたことを早く信長に報告したほうがいいだろう。おそらく今はまだ戦闘中だろうから、清洲よりも名塚砦に直接使者を送る方が早いかな。
そう考え、戻ってきた彦二郎に相談する。
「稲生の砦にいる上総介様に、林佐渡守様を捕らえたことを連絡したいんだが、誰か馬に乗れて胆力のある奴はいないか?恐らく戦の真っただ中を通って行かないといけないと思うんだが…」
彦二郎はしばらく考え込んでいたが、決心したように口を開いた。
「…俺が行く!」
俺は彦二郎の目を見て再度確認する。
「頼めるか?」
「ああ、任せておけ。お前も一若も頑張ってるんだ。俺だって命を掛けて上総介様にお仕えするぞ!」
彦二郎はそう言って頷いた。
俺はすぐに部屋に置いてあった紙と筆を取り、信長宛の書状をしたためた。
彦二郎に書状と短刀を手渡す。短刀はさっき敵を刺した短刀だ。そして長年信長に返し忘れていた短刀でもあった。
「上総介様に書状を渡す時にこの短刀を一緒に持って行けば、俺からの伝言だという証明になるだろうから…よろしく頼むぞ」
彦二郎は緊張した面持ちで城を後にした。俺は信じて待つしかない。
気持ちを切り替え、次の仕事に取り掛かる。
林佐渡守に話を聞きたい…そう考え、今度は座敷牢へ向かった。
林佐渡守は座敷牢の中でおとなしく座っていた。
「…林様」
俺が呼びかけると、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
「なんじゃ」
陰鬱な声で返事をする。
「一つお伺いしとうございます。…今も上総介様をうつけと思われていますか?」
この人が何を思い、何を考えて、幼い頃から後見人として見続けてきた信長に敵対したのか知りたかった。
本当に又左衞門が言っていたようなことが理由なのだろうか…。それともやっぱり俺が考えたプライドが高い故の暴走だったのか。
ここに来る途中も色々と考えた。しかし、どの理由もどうも感覚的にしっくりこないのだ…。
少なくともこの戦国の世で、知略に優れた織田弾正忠家の筆頭家老まで上り詰めたほどの人物が、子供の頃から見ていた信長を見誤って敵対するなんてことがあるだろうか?
「…足軽組頭ごときの者が、なぜそのような質問をする?」
うお!!…まあ、そう思うよな。
よく考えたら、俺が話しかけるのもおこがましい身分の人だったのに普通に話しかけちゃった…。信長といるとこの辺の感覚がずれちゃうな。
「そうですよね…そう思われますよね。すみません…ただ、どうしても不思議でして…。林様ともあろうお方が、上総介様の本質を見抜けぬ訳がないと思いましたので…」
しばらくの沈黙の後、林佐渡守が呟く。
「…本質か」
また沈黙…。
「…おぬしは三郎様に足りぬものに気がつかぬか?」
静かに林佐渡守は俺に問う。
「上総介様に足りないもの…」
信長に足りないもの??何だろう?
頭も良いし、腕っぷしも強いし、カリスマ性もあるし、良い所の坊っちゃんだし。かなり恵まれてると思うけど。
「すみません。わかりません…」
あっさりギブアップする。
「まあ、そうだろうな。若い内は武勇にばかり目が行くからな」
林佐渡守は初めから俺が答えられないと思っていたのだろう。ふむと頷いて言った。
「…三郎様は…『仁』に欠けるのじゃ…」
『仁』
ってなんだっけ?
「し、のたまわく…」ってやつに良く出てくる言葉だよな。他人を思いやる心とかそんな感じのことだったような…。
考え込んでいる俺をしり目に林佐渡守は語り続ける。
「君子となるには致命的なことだ…。このまま走り続ければ確かに天下には近付くであろうな…しかし、辿り着けるとは思えぬ。近しい者にほど恨まれ、上り詰める前にいずれ破滅するであろう…」
林佐渡守の言葉を聞いて、反射的に『本能寺の変』が頭をよぎる。
そうだ…。なんだか実感が湧かなくてあまり考えてなかったけど、歴史上では信長は『本能寺の変』で『明智光秀』に殺されるんだった。
そういえば『本能寺の変』って信長が何歳の時に起きるんだ?
まだ『桶狭間の戦い』も起こってないし、まだまだ先の話だよな?…ちょっと不安になる。
急に黙り込んだ俺を見て、林佐渡守は更に言葉を継いだ。
「案外、おぬしの様に取り立てて育てた者の誰かに最終的には斬られるやもしれんな…」
「そんなこと…」
否定しようとする俺の言葉を切って、林佐渡守は断言した。
「『仁』を持たぬとはそういうことじゃ」
林佐渡守の人を見る目は正確なのだと思った。やはり筆頭家老まで上り詰めたなりの見識はあるのだろう
…。
だが、それ故に信長のことを思うとやるせない気持ちになり、つい感情のままに非難の言葉を口に出してしまった。
「…であれば、上総介様にその『仁』とやらを身につけさせるのがあなたの役目だったのではないですか?敵対するのではなく、教え諭すのが正道だったのではないでしょうか?」
驚いた顔で林佐渡守が俺を見る。しまった…と思ったが、もう後の祭りだ。怒らせてしまったかもしれない…。
しかし、思いの外静かな声で林佐渡守が言葉を発した。
「…そうかもしれんな」
もう、話すことは何もなかった。…座敷牢に静寂が満ちる。
どこで林佐渡守と信長はすれ違ってしまったのだろう。自刃したという平手五郎左衛門も同じように信長とすれ違ってしまったのだろうか。二人の家老とすれ違って、信長は何を思ったのだろうか。
『案外、おぬしの様に取り立てて育てた者の誰かに最終的には斬られるやもしれんな…』
先ほどの林佐渡守の言葉が重く圧し掛かる。
色々な思いがぐるぐる交錯し、取りとめも無く様々な考えが現れては消えていき、徐々にいくつかの問いが心を縛り始める。
『本能寺の変』を防ぐことは出来るのだろうか?
『本能寺の変』を防げた場合、豊臣秀吉はどうなるのだろうか?
その後の日本の歴史は大きく変わるのだろうか?
これまであまり考えないようにしてきた根源的な疑問が遂に表だって現れてきてしまった。
考え始めた途端、頭が割れるように痛んできた…。
一体、俺はどこに向かえば良いのだろう…。