16話 藤の花
元服の儀は滞りなく終わり、俺は今日から『木下藤吉郎秀吉』となった。
で、俺は豊臣秀吉なのだろうか?
元服の儀の最中からずーっと考えていたが、結局確信できる答えは出なかった。同姓同名という可能性はどのくらいあるのか?木下藤吉郎秀吉って名前が被る事はあるのだろうか?うう…グーグ●先生で検索したい!!!Ya●oo!知恵袋で質問したい!!!
というか、そもそもそんなに見た目も猿っぽくないと思うんですけど…たぶん。これまで言われたことないし。
そんな感じで何日か悩んでいたが、数日経つと考えるのにも疲れてしまい「まあ時が来れば分かるだろ」と開き直ることができた。とりあえずもし俺が豊臣秀吉だからって、今のところどうしようもないし、どうすればいいかもわからないし、これまで通り普通に生活するしかないよな。
そうして、またいつもの生活に戻って行った。
・・・かに思えたが、実は俺が悩んでいる間に、松下屋敷内では俺に対するあまり良くないことが起こっていたのであった。
最初に異変に気付いたのは、ほんの些細なことであった。
土間に荷物を取りに行った時だった。土間の中から話し声がしていた。
「それであいつがよー。殿と一緒に居るときによー」
誰か居るみたいだな、と思いながらガラッと引き戸を開ける。すると俺が入ってきたのを見て、急に会話が止まったのだ。土間で立ち話をしていたのは、古参の中元の男達であった。
「おっと、じゃあ俺は馬の世話に行かなきゃならなかったわ」
「俺もだ。植木の剪定をしなきゃならなかった」
そそくさと土間から出ていく男たちを見ながら、嫌な気持ちになる。
・・・今、絶対俺の悪口言ってた感じじゃね?あいつら。
なんだか嫌な予感がして、その日から少し注意して周りの奉公人達の様子を見る様にしてみた。するとどうやら俺が他の奉公人達から嫌われているらしいことが明らかになってきた。
裏を取るために、出入りの職人などを見かける度に飲みに誘い、さりげなく俺が他の奉公人達からなんて言われているか探ってみたりもした。
結論としては、『卑しい身分の出のくせに、殿に過剰にゴマをすって取り入って、挙句に若様にまでへつらって元服の儀までやらせやがった猪口才な野郎』ってな感じで、既にかなり嫌われていて、悪口が広まっているらしい。
信じたくなかったけど、マジか…戦国時代にもいじめってあるの?もっとこうさっぱりした風潮かと思ってたけどなぁ…。まぁ気にいらんから切る!とかされても困るんだけどさ。
…うーん。でも、そっか。確かによくよく考えてみれば俺みたいなポッと出が、殿に可愛がられて若様付きにさせられて、元服の儀までやってもらったら、昔から仕えている人達は心中穏やかじゃなくなるよな。下手したら自分の役職が奪われるかもしれないって思うのかもな。
難しいのはいつの時代も人の心ということか。
その辺はなるべく気をつけていたつもりだったけど、最初に殿に気にいって貰ったおかげもあって、奉公人達との付き合いもあまり深くはしていなかったなー。
そりゃあ、人とナリも分からない奴がいきなり会社で取り立てられたら反発するに決まってるってところか。はー、新しい会社では良好な人間関係を早く構築することが大切だって、前世で買って結局使わなかった転職本にも書いてあったじゃないか。しくったなぁ。
結局、その後も俺に対する風当たりは強まる一方で、それどころか陰湿なイジメみたいなこともされるようになってきた。草履を隠されたり、俺の私物が外に捨てられてたり、とか。
さすがにかなりしんどくなってきたので、長則様と之綱様に暇を頂きたいと伝えた。二人は大変残念だと言ってくれたが、屋敷内での俺の立場も既に知っていたので無理に止めるようなことはしなかった。
之綱は
「私の力不足で家中の不満を藤吉郎に背負わせてしまい、すまないと思っている…」
とまで言ってくれた。
長則は急に職にあぶれて困るだろうからと、退職金みたいなものを渡してくれた。
うーん、やっぱり…良い人達だなぁ。目頭が熱くなる。
「こちらでお世話になった恩は忘れません。…本当にありがとうございました」
深々と頭を下げ、退去する。
3年間色々あったけど、2人に出会えたのはとても幸運だったと思う。
屋敷の門を出る時に名残惜しさを感じて振り返ると、そこには3年前と変わらずに美しい藤の花が咲き乱れていた。
こうして俺の3年間の松下屋敷奉公は幕を閉じたのだった。
・・・・・・・・
さてと、これからどうしよっかな。
急に辞めることにしたので、次のことなんて全然考えてなかった。前世の俺とは大違いだな、と苦笑する。なんてったって、2年間も転職を迷い続けた挙句に、結局最後までしがみついてたもんなぁ。
ま、とりあえず尾張の実家に顔出しにでも行くか。松下屋敷で働き始めてからは一度も帰省しなかったからな。一度帰ってから先のことは考えよっと。
念のため尾張の連雀商人が市に来ていないか、確認しに行く。いや、一人で旅するのは寂しいじゃん。一緒に尾張に連れてってくれないかなーっと期待を込めて、頭陀寺の定宿を訪ねる。
「ありゃー、一歩遅かったねぇ。藤吉郎さん。つい先日、尾張の方々は旅立っちゃいましたよ」
顔見知りの宿の主人が気の毒そうに教えてくれた。
「ああ、そうでしたか。…お忙しい所お声掛けしてすみませんでした」
居ないならば仕方ないな、と諦めて宿を出る。
「あ、藤吉郎さん!!ちょっと待って」
「はい?」
宿の主人が慌てて俺を呼びとめる。
「いやいや。七郎左衛門さんが、自分達が出立した後にもしあんたがここに来たら、渡して欲しいものがあるって頼まれていたんですよ」
「え?」
七郎左衛門というのは弥七郎の事だ。あいつも実家が貧乏ながら武家だったということで数年前に元服を行っていたのだ。
宿の主人が一旦奥に入っていく。そして中から抱えてきたのは一振りの打刀であった。
「無銘だそうですが良い刀だとおっしゃってました。お代は後でいいから、尾張までのお守りにするようにって言ってましたよ。七郎左衛門さんはあなたが訪ねて来るって分かってたんですねぇ」
感心しながらそう言って宿の主人が刀を手渡してくれた。
あいつ、俺が松下屋敷で立場が悪くなってるの知ってやがったな。ちきしょー、七郎左衛門の野郎。粋なことしやがる…。旧友の優しさに触れて、不覚にもまた目頭が熱くなる。
宿の主人にお礼を言い、そのまま思い出深い頭陀寺の町をあとにする。
さあ、急いで尾張に帰ろう。そして、かーちゃんと智と小竹と旭に元気な顔を見せて、七郎左衛門にお礼を言わなきゃな。
頭陀寺の満開の藤の花房が風に吹かれて、大きく揺れていた。まるで足早に歩み始めた俺を見送ってくれているかのようだった。