プロローグ
快晴の空に飛行機が飛んでいた。
青空に真っ直ぐに引かれた飛行機雲を見ながら、無意識に「はぁ…」と溜息をついた。
昨日も帰宅後に書類作成の持ち帰り仕事をして、結局寝たのは午前4時だった。
今朝は朝からミーティングがあるため遅出にもできず、2時間ほど寝てから、シャワーを浴び、朝食は食わずに家を出た。
主任に昇進してから、こんな生活が断続的に3年くらい続いている。
(やっぱり転職したほうがいいかなぁ・・・いや、もう少し頑張れば係長になれるかもしれないんだ。もうちょっと続けた方がいいよな。・・・それに今の会社を辞めても次が見つかるかわかんないしな・・・)
満員電車に揺られながら、いつもの自問自答を延々と繰り返す。
そして結局、いつもと変わらない結論に達した頃、いつも通りに会社の最寄りである京急品川駅に電車が到着した。
電車に詰まっていた会社員たちが、一斉に降車口から吐き出される。
俺自身も押し出されるように、ホームに出ると足早にエスカレーターへ向かう。奇妙なまでの整然さでエスカレーターに並ぶ会社員たちはまるで訓練された軍隊のように見えた。
改札を出て、足早に歩く。
ふと、開店準備をしているファンシーショップを見ると、『St. Valentine's day』と書いた大きな赤いハート型のPOPが至る所に貼り付けられていた。
「げ、そういえば来週バレンタインデーかよ・・・」
たちまちネガティブな気分に囚われる。
生まれてから36年間、純潔を守り通している俺に良い思い出があるわけもないイベントだ。
毎年毎年「バレンタインなんて興味ないんだからね!」風を装うのが異常に疲れるし、とはいえ、やっぱりちょっと「貰えるかもしれない」という淡い期待を持ちながら一日を過ごすことの精神的負担。そして結局「本命チョコなんて貰えない」という現実を突きつけられるやるせなさ。30年以上この苦行に耐えてきたものの、いまだ悟りの境地には辿り着けない。
昨年、たまたま仕事で渋谷に行ったときに見た『バレンタインデー粉砕デモ』に拍手喝さいを(心の中で)送ったほどだ。バレンタインデー粉砕デモはぜひ今年も決行して欲しい。自分は参加しないけど。
「吉田さん!おはようございます」
バレンタインデーに心をかき乱されている最中、後ろから誰かに呼びかけられた。振り向くと会社の後輩だった。
「おー。おはよ…」
「!!」
短く返事を返した瞬間、突然、心臓を突き刺すような痛みが走った。
反射的に両手で胸を押さえる。痛すぎて声が出ない。「ヒューヒュー」という自分の呼吸音だけがやけに耳に付く。段々と目の前が真っ白になっていく感覚。
…そしてそのまま俺は意識を失った。