第一話
目を開けた時、辺りがあまりにも暗く、しかも体が宙に浮いているかのような不思議な感覚を受けすべては夢の中ではないかと錯覚した。
(ここは...)
口を開こうにも動かすことができなかった。
それだけではない。頭が重い。筋肉が動かない。心臓が止まり、肺が空気を入れるのを拒む。
今が何時なのか、どこにいるのか、なぜここにいるのか。
頭に浮かぶ疑問が一つひとつ増えるたびに全身がずっしりと重くなっていき、そこに鈍い痛みが加えられていく。
「うぅ、あがぁ」
苦痛に顔が歪む。口を無理やり開くと中から乾きかすれた声が出てきた。それが自分の声だと一瞬では気づかなかった。
寒い。痛い。冷たい。痛い。
震えることすらできない体がだんだんと消えていく。神経細胞が途絶えていくのはまさに体が消失していくのと同じだった。
目の前が暗くなっていく。彼女にはあるはずのないかすかな足音にも気づくことは無かった。
再び目を開けた時、最初に映ったのは巨大な月だ。
その見事なほどに神々しい光を放つ月は、青白い光のカーテンを大地に、私自身に照らしていく。
まるで月側から地表を見ているような、のぞかれているかのように感じたのは精神的なダメージが原因なのだろうか。
(月ってあんなに...)
しばらく見惚れていた。時間なんて関係なく。目を奪われていたのは今の現状を理解しなくて済むからかもしれない。
「きれい...」
それはかすれた声だった。絞り出した、誰にも聞こえない声だったが、彼女自身の脳細胞を刺激させるのには十分だった。
声を発した瞬間、全身を激痛がかけめくった。
「ゔうぅ、くふふふ」
しかしその激痛はどこか心地の良いものを感じ、思わず笑みが出る。全身が息を吹き返すような感覚。たとえるなら一日中丸まっていた状態から思いっきり背伸びをしたような感覚だろうか
私は生きている。
生きているからこそ痛いのだと思えばこの激痛は快楽に等しいものだった。
そろそろここから動かないといけないと思ったとき、ふと気づく。
(どこに行けばいいんだ)
「...私は...誰」
目をはっと開き、痛みに耐え無理やり上半身を起こす。痛みのことなど考えてられない。
(どうして、何も思い出せない)
辺りは静まり返っており、何の音も聞こえない。
風の音や木々が揺れる音、動物たちの鳴き声。ここ一帯の時が止まってしまったかのように彼女は一人となってしまった。
孤独。その言葉が頭の中に浮かぶ。
まるでその場に取り残されたかのような感覚を受け、少しづつ不安があふれ出てくる。
(また一人)
空を見上げると先ほどまで照らしていた月の光がなくなっていた。あたりを見回しても光源となるものが無く、空が雲で覆われてしまった今自分の手先ですら見えなくなっている。
『思考を止めるな』
頭の中でそう誰かが叫んだような気がした。
「そうだ、考えなくちゃ」
真っ白だった頭の中に無理やりなにか色を付ける。脳細胞にしみるようなじわっとする痛みを感じた。
(まず、ここはどこなの)
真っ暗な空間に目を細めると何も見えなかったところが徐々に見え始める。この暗い中で目が順応し始めたのだ。
暗闇の中最初に目に見えて来たのは土。そして草。茂み。木々。多くの木が重なっている。
どれほどの規模かはわからないが深い森のようだ。道と呼べるような道は見当たらず、人が入るようなところではないのだろう。
今度は背後を確認する。そこには壁のように垂直にそそり立った岩肌がある。かなりの高さだ。
「もしかして...」
ここから落ちてしまったのか。最後の方まで言葉に出すことができなかった。
ふらつきながらもなんとか立ち上がると、ゆっくり壁の方に歩き出した。
壁に手をつき上を見る。岩肌は所々で出っ張った部分が見えるが、ここを昇っていくのは不可能に近かった。
(こんなに高くはジャンプできないな)
再び森の方を見る。
左右は木々で囲まれている。倒れていた場所は崖の近くで木が生えない空き地のような小さな空間だった。
とにかく今動くのは無理だった。全身の痛みは不思議と引いてきているが、力がうまく出せない。
岩肌を背にしゃがみ込む。
再び静かな時間ができる。相変わらず月は雲に隠れたまま顔をのぞかせようとしない。
「そうだ」
ぽつりと小さな声が出る。
自分は今何を持っているのだろうか。
先ほどまで周りの状況を把握することだけに意識が行ってしまったが、自分が何を持っているのかわからない。
今身に着けている服から何か見つかるか探してみる。
目が慣れてきたといっても真っ暗の状態なので手探りでポケットや体を探る。
腰にベルトがあり何かを取り付けているようだ。とりあえず腰のものを外し手に取ってみる。
ベルトに括り付けられたそれを抜き取ると手にずしっときた重みがあり、手に取った感じから金属でできたものだとわかった。
形はかなり独特でくの字型に曲がっており、くの字の真ん中の部分にでこぼこだが、なにか丸みのある形がくっついている。左右の長さも違う。くの字の片方の方は長いが細くなっていて、探っていくと先っぽの方に穴が開いていた。もう一方は短いが太さがあり、波だった形を感じる。波に合わせて握ると少しサイズが合わない。握り少し広げるとしっくりとした感じがした。
「なんだろこれ」
空に見上げてみると、雲の隙間から再び光が指してきた。
そしてそれも照らしてくれた。
「ああ、これは」
それはこの時代では最新技術の結晶ともいえるほどの武器。筒状の形をした部位から火薬を用いることで鉛の弾を打ち出すそれは、後に天才と呼ばれる科学者が生み出したこの時代最強の武器の一つ。回転式の短銃だ。
グリップは滑らかに削られた木で作られ、銃身は月の明かりに照らされ銀色に光っている。右手でグリップを握り親指でロックを外すと左下にシリンダーが出される。装填する穴は六つ。弾丸が入っているのは二発だけだ。
なんでこんなものが入っているかはわからない。でも使い方は知っている。そしてこれを見ていると急に何とも言えない気持ちが込み上げてきた。
後悔。懺悔。そして憎しみ。
ふと、自分の顔を触ってみた。頬が濡れている。
「うぅ、うぅぅ」
いろいろな気持ちがあふれ出てくる。そしてそれはたやすく彼女の心を一杯にした。目の前が見えない。先ほどのような真っ暗な世界というわけではない。
周りの景色が歪んでいく。際限なくほほを熱いものが流れていく。
しばらく経ってようやく彼女は重々しく口を開いた。
「死にたい...」
そう呟いた瞬間、森の中から視線を感じた。
はっと顔を上げ前方の森を見る。そして左右にも目を配る。
何かがいる。緊張で身が凍る。一瞬体を丸くし壁を背にゆっくりと立ち上がる。
右手にはまるでお守りを持つかのように短銃をぐっと握りしめる。
月明かりのおかげで視線の正体はすぐにわかった。茂みの中から二匹の魔獣が飛び出す。それは茶色い毛並みをした四足歩行の魔獣であった。狼属種の魔獣だ。
二匹は鼻を鳴らし、地面のにおいを探るかのように歩いている。
ちょうど森と自分の真ん中あたりで足を止める。そこは先ほどまで自分が倒れていたところだった。魔獣は地面に舌をたらし何かを舐めている。
今まで全く気付かなかった。
そこにはおびただしいほどの血が広がっている。
二匹は少し舐めると今度は自分の方に視線を向ける。その敵意に満ちた瞳に思わず壁に力強く体を押し付ける。
(まずい。こっちを見てる)
ゆっくりとこちらに歩みを進める。
(銃弾は二発だけ)
敵も二匹。自然と体が銃を魔獣に向ける。
『当たるか当たらないかは考えない』
『銃を向け近づいてくるものから打ち抜くだけ』
頭の中で声がする。
(そう、私は生きなくちゃならない。絶対に)
右手の握る力が強くなる。歯を食いしばり二匹をにらみつける。
殺意があふれ出てくる。先ほどまでの緊張はすぐに消え、今は魔獣に対して憎しみすら向けている。
(今近づいたら殺す)
その強い意志は空気中に伝染し、その辺り一帯の空気を一変させる。
絶対に手を出してはいけないもの。世の中にはそういうものが必ずあると認識させるように。
二匹はすぐにそれを感じ取ったようだ。野生の勘か、それとも経験したことがあるのか。
先ほどまで前に動かしていた足はいつの間にか後ろに下がっている。
魔獣を見ながら銃口を上に向ける。そして一発弾を撃ち放った。
火薬に着火したときの大きな発砲音が周囲に響く。弾丸が打ち放たれた衝撃が右肩から全身に走る。魔獣は大きな音に驚いたのかきびすを返し森に去っていく。
「つうぅ~~~」
衝撃に全身が痛かったが魔獣はいなくなり再び静かになった。
「はぁぁ~~」
脅威が去ったためか、痛みがなくなったためか、全身の力が抜けていきその場にしゃがみ込む。
(頭がズキズキする)
頭に手を置き考え込む。弾丸を撃ち放った衝撃は脳にまで到達し、霞かかった記憶が今にも蘇りそうだった。
(そうだ、今すぐ追わなくちゃ)
追わなくてはならないと感じたのは先ほどの二匹の魔獣に対してだ。あの二匹は確実に仕留めなくてはならない。
なぜかはわからないがよくないことが起きてしまうということだけはわかる。それも先ほどの脳への衝撃が影響しているのだろう。
(魔獣は森の中へ入っていた。だけどもし今考えていることが正しいかったなら、そう遠くには行っていないはず)
今度は力強く立ち上がり森の方を見る。
月の光が再び雲に阻まれ、森には静かな恐怖感とも威圧感ともとれる空気が溢れてくる。
しかし変わったのは森の空気だけでない。彼女もまた先ほどまでのこわばった緊張はなくなっている。
「よし」
小さく声を出すことで決意を固め、先ほどの魔獣を逃がさないことだけを考える。
右手が握る銃に弾丸は一発分。だが尽きても後のことは何とかできるだろうと感じた。この自信は今までにこのような経験を何回もしているからだろうか。
暗い森にゆっくりと近づく。少し背を丸め銃身を低くし、握りしめた銃はすでに何が起きてもいいよう撃鉄に親指をかけている。
森の中は思った以上に木の葉が生い茂り日中でも日の光は入りそうになかった。
(暗い。というか全く見えない)
やみくもに動いても意味が無いと思いつつも足を前に進める。ほとんど手探りの状態だが進むことはできる。
しばらく暗い森を歩くと不思議な現象に会う。
(明るい。木が光っている)
それは青白い光を放つ木であった。光は木の成長方向に沿うように細い線となって一本の枝の方まで通っている。
それがいくつも生えており多少なりとも周囲を明るくしていた。
(とりあえず足元は見れる)
そのまま森を歩いていく。胸がざわめく。少なくともこのざわめきのある方向に魔獣がいる気がした。
しばらくして開けた場所に出た。木が4,5本なくなった程度の広さだ。
そしてちょうど中央あたりに魔獣がいた。距離は10メートル弱。
(間違いないあの二匹だ)
少しずつ近づいていく。魔獣が眠りについているなら今が好機だ。
残り5メートル。
(おかしい。なんで気づかない)
残り3メートル。
(もしかして)
魔獣とはもう手が届く距離だ。
二匹とも気づいていた。しかし動かない。それは動かないのではなく動けなかっただけだとわかる。
全身が震えている。恐怖によるものだろうか。
(そんなに怖かったかな)
そう思うと少し切ない気持ちになる。先ほどまでに見せていた獰猛な獣の姿はどこに消え、今は親の守りが届かない子犬のように震えている。
「そんな目で見ないで」
殺しづらくなるがこの子たちには死んでもらわないといけない。
「アイリス」
男の人の声。突然か細い声が聞こえてきて驚く。声は魔獣からではない。自分が来た方向とは反対側の木の方から聞こえた。
頭にズキズキとした鈍い痛みが走る。
「お前アイリスだったよな」
よく見ると人の形をしたものが木にもたれかかっている。
「よかった...生きていたのか」
再び月明かりが差し込む。そこにいたのは普通の布の服に胸当てをあて、腰にショートソードを差した男だった。年齢25そこそこといったところだろうか。
「探したぞ」
声からは安堵したかのような感じが伝わる。しかしどこか苦しそうだ。
魔獣のことは意識から消え今は人の声に意識が向く。
男性をよく見ると体のあっちこっちに血の跡がついている。男自身の血だけなら相当な出血量だ。
「大丈夫なの」
体の具合を見てそう問いかけながら、ゆっくりと近づく。
「驚いたな...人の心配ができるのか」
少し笑みを浮かべながら木にもたれるようにしゃがみ込む。
「どういうこと」
自分に名前で声をかけてきた男がどういう意味で言っているのかわからなかったが少なくとも敵意を感じない。
先ほどから頭に鈍い痛みを感じる。
一刻も早く自分のことを聞きたいものだがこの男に余裕はなさそうだ。多分もう手遅れだろう。
「この森から...早く逃げろ」
呼吸をするのもつらいのだろう。口から乾いた咳を吐き出す。それには血が混じっている。ごほごほと体全身で咳込んでいる。眼の奥の光が消えていくのがわかる。
「まって、なんとか手当を...」
しかし都合よく手当てができるわけない。とにかく何とかしなければならないと気持ちだけが先走る。
(もう何もできない)
できることと言えば同じ目線に合わせ最後の時を一緒に過ごすことぐらい...
(あれこれもどこかで)
頭の奥深くで何か引っかかる。
「ここには...化け物が」
彼が最後の言葉を言い終わると同時に化け物という言葉で先ほどの魔獣を思い出す。
(しまった。彼の方に気が回ってしまった)
彼の最後を看取ると同時にすぐ後ろを振り向く。
先ほどまで怯え動けなくなっていた魔獣はもういなくなっていた。
(いったいどこに)
魔獣の姿は見えない。この森の中を走っていったのではいくら気配がわかるといっても絶対に見つけ出せるほど確かではない。ほぼ当てずっぽうで探すようなものだ。見つかる気がしない。
そもそもなぜ追いかけなくてはならないかもわからない。少なくとも逃げてしまうほどの相手が脅威になるとは思わなかった。
なのにざわついた胸が収まらない。
「早く追いかけないと」
魔獣のいる方向を何となく見つけようとする。方向は右の方角。以外に遠くないかもしれない。
「ごめんなさい。私もう行くわ」
後ろで横たわった名も知らない男性に話す。聞くことはできないとわかっているが、自分が言葉をかけないといけない気がした。
振り向くことなく、魔獣の向かった方向に向かう。
その時、後ろから異常な気配を感じる。
全身の毛穴から汗が噴き出だした瞬間、自分の背中を冷たく鋭利な何かが斜めに通る気がした。
その瞬間、頭よりも先に反応したのは体だった。
後ろは振り返らず前に転がるように一回転した後で姿勢を整え、素早く立ち上がりながら振り返る。
直後、先ほどいたところに一線の光が走った。何が起きたのか理解が追い付かなかったがもし普通に後ろを振り返っていたら間違いなく切られていただろう。
一線の光は剣の刀身を月の光が反射したことによるものだった。
「どうして」
声は自然に出たが今度のは相手にも聞こえるほどの音量だった。
そこにいたのは先ほど息を引き取ったはずの男だった。
「ぐるああぁ」
男は人の声とは思えぬ声を上げ、右手で持っている剣を引きずりながら距離を詰めてくる
先ほどまで瀕死の状態だった人間が体を左右に揺らしながら歩いてくる時点でまともな状況ではない。
右手の銃を素早く男に向ける。
その動きはとても訓練された動きだ。すぐさま目の前の人間だったものの額に照準を合わせる。
「これ以上近づかないで」
こちらも大きい声で威嚇するが動じる様子はない。それどころか興奮しまったのか奇声を上げ、剣を振り回してくる。
再び振り上げた剣をすんでのところで横にかわし、持っていた銃の照準を死人の頭に合わせる。
死人はこちらに合わせ横に剣を振りまわしながらこちらに体を向ける。
刹那、死人と目が合った。自分を心配してくれた男。もしかしたら自分を探す最中に深手を負ってしまったのかもしれない。
そう思うと心にズキっとした痛みが走る。
しかし自分の右手は意識と切り離されたかのように機械的に動き、なんのためらいもなく引き金を引いた。
タン。再び乾いた音が響く。銃の衝撃は再び脳を揺らした。
頭がズキズキと痛みだしたまらずさする。先ほどよりも痛みがひどくなっている。
記憶が蘇る前触れだろうか。目をつぶり自分の中の自分に問いかける。
この時意識が内側に向いてしまったがために周りの状況を把握するのが一瞬遅れた。気づいた時には無意識に反応した両手でガードの姿勢をとろうとするが構えが甘く、腕に直撃した瞬間全身に衝撃が伝わる。
そのまま後方に突き飛ばされ仰向けに倒される。
地面に思いっきりたたきつけられた衝撃で頭の中に気味の悪い残響音が響きわたり、目の前がチカチカと光った。
何が起きたのかわからず体が硬直して体を起こすのに遅れをとる。
突如体に圧し掛かるような重圧を感じ、全身で何とか拘束を振りほどこうとする。
「ヘェアアァ」
銃で頭を撃ち抜いたはずなのに死人は平然と生きていた。
「この操り人形がぁぁ」
何とか開いた口から憎しみを込めた言葉が出てくる。先ほどの衝撃で断片的だが記憶が蘇ってきていた。
(こいつ寄生型か)
まだ完全ではないがこの死人の正体がわかってきていた。寄生型。その意識はすでになく、本体の不死者によって操られ人形となった哀れな不死者のなりそこない。
力は生前の男性そのままで、もともと訓練されていたためかかなりの腕力がある。
「くそぉぉ」
先ほどとは口調が一変し、殺意がむき出しとなった恨めしい気持ちになる。
だがどんなに目の前の不死者に殺意を向けても恐れることはない。こちらの息の根を止めるまで力は緩まない。
力の入らない体勢では必死に耐えるしかなかった。
(なにか。なにかないのか)
突き飛ばされた時に銃は手放してしまっている。弾丸もすでに使い切ってしまった状態では殴る程度の価値しかない。たとえ殴れたとしても効果が無いだろう。
しかし、希望は捨てていない。
『希望を捨てたら人間として産まれた意味が無い』
頭の中で誰かの言葉が繰り返される。
「私は人間だぁぁ」
必死に叫んだ言葉は心の奥底から出た真の言葉だった。
一瞬体が軽くなった。瞬時に体を起こしその場所から2歩ほど後ずさる。
何が起きたのかは見てすぐにわかった。
不死者に二匹の魔獣が食らいついている。魔獣が体当たりで突き飛ばしたのだ。
直感でわかる。この二匹は自分が殺そうとしていた魔獣で間違いなかった。
魔獣はそれぞれ右足と首元に食らいついている。
しかし不死者もただやられてはいない。両腕で首元に噛みついている魔獣を力の限り引きちぎろうとしてジタバタと動いている。もう一匹の魔獣にも左足が何度も当たり振り切られそうになっている。
魔獣は何度も首元に食らいつき、ついに首を切り落としてしまう。しかし、それでも不死者は動くのを止めなかった。魔獣の両目には両指が突き刺さり、頭蓋を締め壊そうとしていた。もう一体も下顎がちぎれた状態になっている。それでも右足を切断するまでに至り、今度は前足の爪で引っ掻いている。その三体のいたるところから血が噴き出し、すぐさま周りには血の池ができていた。
目の前の光景に思わず目を背ける。こうなることはわかっていたとしてもあまりの惨状に体は力を失っていた。
あまりにも非現実的すぎる。しかしこの理が崩壊した世界ではそれは意味を持たなくなっているのだろう。
永遠に続くかに思われた殺し合いはお互いが構造上動けない状態になるまで続いた。
人間だったものは人体の関節のほとんどがちぎれており体はピクピクと唸っているだけだ。魔獣は頭が半分くらいつぶされており、もう一体も下顎、鼻が削れ、右前足は皮膚がかろうじてつながっていた。
魔獣は二匹ともこちらを見ている。まるで次の命令を待つ兵士のように。
「もう...いいよ。楽になっていいよ」
眼を合わせることができない。涙が溢れていた。少し前に流した涙とは明らかに違う。
今度のは罪悪感からくるものだった。この魔獣たちの異変は自分が引き起こしたものだ。
目が覚めた時。地面にはおびただしい量の血が広がっていた。その血を舐めてしまった魔獣にはしばらくの間は異変が無かった。その後発見したときに二匹が細かく震えていたのはすでに急激な変態が起きており、それに肉体がついていけなかったからだ。
そして今二匹は死ぬこともなく、痛がるそぶりも見せず、傷が修復することもなくそのガラス玉のような瞳でこちらを見ている。
「目をつぶり、眠りなさい」
自分がこの二匹にできることは一つだけ。まだ不完全な不死の力を持っている二体を今すぐ土に還すことだ。
二匹とも言葉に従う。
方法ならある。記憶が完全に元に戻った今ではどうすればいいかわかる。
二匹の魔獣のそばに行く。そこには操られていた不死者いる。そこに向けて右手を突き出し巻いていた包帯を外す。記憶を失っていた時まで気づかなかったがこれが彼らを殺すための武器だった。
包帯の下には魔法刻印が記されていた。
それは炎を生み出す魔法。不死となった者たちを殺すためにその身に刻んだものだ
「燃やせ。ここにあるすべてを。彼らが来世で幸福に生きるために」
それは祈りに近いものだった。彼らの来世が善きものであると信じての願い。責任が自分にあると感じながらも祈りをせずにはいられなかった。
二匹の魔獣の辺りに環ができ、直後赤い火が周りを包み徐々に業火となっていく。次第に炎は青白く輝きだす。
その光景をただ黙って見ている。自分でも気づかないうちに手が震えていた。
後悔と懺悔。自分がもっとうまく戦えていたならこんな結末はなかったはずだ。
燃え尽きた時には灰すらも残っていなかった。炎が細胞の一片まで燃やし尽くし、そこにはもう何も残らなかった。
すべてを思い出した。
私が誰なのか
彼が何なのか
どうしてこうなったのか
「私の名前はエアリス」
記憶を確かめるよう自身の名前をつぶやく。
大切な人からもらった名前だった。
絶望してはいられない。うつむいていた顔を上げる
「私は帰らなくちゃ。あの美しかった世界に」
空にはこれでもかというほどの存在感を放つ、大きく丸い月が地上に光を差していた。