序章 カーテンコールと劇の幕開け
……仄暗い地の底へ意識が遠のいていく感触を感じた。
体は岩山に閉じ込められた猿のように身動き一つ取れず、自分が呼吸しているのかどうかすらも朧気で生の実感が全く無い。一体なぜこうなっているのか皆目見当もつかない。取り囲む岩の重みが単純な思考すらも阻害しているのかと身も蓋も無い事を思い浮かべた。
やがて岩山は蓮池へと姿を変える。
周囲を水が取り囲み、水面に浮かぶはずの花弁が水中に浮かんでいる様は水の檻に閉じ込められた観賞魚達と造花に自分がなったように錯覚、いや自覚させられる。
そうして時を過ごすうちに徐々に先程まで感じられなかった呼吸という概念が私へその体を寄せてくる。脳が、臓器が、指先に至るまで空気を渇望しているのが解ってしまう。
私の変化と声にならぬ悲鳴と共に水中花達も変わっていく。
直視すれば酩酊してしまいそうな極彩色に塗れた蓮が急速に枯れ萎み、褪せた単一色の芥へと変貌する。永遠を象徴とする蓮が枯れるのは死の暗示に相違無いだろう。
その時やっと自覚する。私は間もなく死ぬのだろう。恐らくこの風景は死の直喩、避けようの無い運命だと何者かが耳元で囁いている。
確信に至ったこの時私はまだ平然としていた。もとより死とは万物に訪れるものであり哲学や心理学でも命題として扱われるほど普遍的な物だ。それが私の運命をすりつぶし終焉にたどり着いた、それだけだろう……私は良くやったじゃないか、ここで終わることは寧ろ最良だと言えるじゃないか……もう息も続かない……
「おいおい、死の間際だぜ?後悔したくないのなら抑えている感情をもっと表に出すべきなんじゃないか?」
ああ、惜しむらくはここまでに至る過程も、苛烈なまでの情熱を持って積み重ねただろう武術や教養への研鑽も死の前には等しく理不尽な程に平等だということだろうか。
「死を前にして正気になるなんてそっちの方が余程狂気だろう?思いの丈を真っ直ぐ投げ込め、そうしなければならないだろう」
――惜しい……――
投げ交わされた我が妻と子供への愛慕も深淵まで届く所まで伸ばしたはずの我が掌も……
「そうだ!お前にはやり残した事が山程あるはずだ!神に祈り弾かれたなら、家畜にすら救いを乞うような、生き汚さを見せてみろ!」
――手離したくない……――
研究と修行に没頭し、私は充実していた。しかし妻子には?友人には?放り出したのは他ならぬ私だ、別れの言葉も何も言えないのは仕方がない……
だが、このまま終わって良いのか?!まだ、まだ終われぬはず……!私の全てを擲ってでも達成せねばならぬ目標が眼前に鎮座ましまして居ると言うのに!
「覚悟を決めたか?自覚と器量と技量はあるか?この世を救えなかったならば、他の世界に慈しみを広げる覚悟は?」
――私は……!――
一生とは一度きりのもの、もう一度なんてあり得ない。それは世界の摂理を歪め、他の魂を徒に蚕食するだけだ。なればこそ、輪廻転生の輪は廻され世界は正常に機能する。ならば……!
「私はまだ死ねぬ!生きて行きねばならぬのだ!神でも悪魔でも何でも良い、私の願いを聞き届けよ!身勝手だろうが何だろうが関係無い!我が悲願達成の為に御主の力が必要なのだ……」
「すがる、すがるか!何者にでもとも!宜しい、ならば聞き届けてやろう。お前の望み、企みは理解している。そうしてやろうじゃないか」
先程から聞こえていた声の主が神か悪魔か全く別のものかそんなものは最早考察する意味の無い事象だ。垂らされた蜘蛛の糸の絡めとられぬよう、たわみ千切れぬよう祈りを捧げるより他にあるまい。
「最後にもう一度聞いてやるよ、本当に覚悟は出来ているか?あまねく全てを敵にしても構わない、正義と義侠との狭間に見いだすものが巨悪と策謀に浸された汚泥の中の産物だとしても目を背けず、受け止め抱きしめ磨かれた輝石へ変えられると信じられる信念がお前にあるのか?」
「あるともさ、その為にわしは短い生を駆けずり回ったのだからな」
「ならばいいさ、刻んでやるよ。どういう結果に行きつこうがそれはお前の選択だ。運命の祝詞を与えてやろうじゃないか」
――私は遍く全てに平和を齎すと決めたのだ!!!!――
『今此処に紡ぐは原初の力持ちし世界に語る神意の言、彼方に在りし数多の守り手へ繋ぐ光輝の糸を束ねる者よ願わくば聞き届け給え』
光が見える……暗きこの水底を干上がらせるほどの……
『万象全ての輝きは生命の煌めき、幻魔の一裂きに穿たれようと、静かな森の賢人として余生を過ごせど皆すべからく唯一であり同一である』
たちまち水が乾く、渇いてしまう。陽は火となって猛烈にこの身を焦がしていく。
『生命の理、精神の理、外法の理、化外の理、この世に顕在するものは光無くして生きては行けぬ。輝《ひかり》に焼かれ光を喪い、それでもなお追い縋り。星《ひかり》を求め陽《ひかり》を得る。未来永劫その精朽ちぬ、その覚悟があるのならば』
「……!…ァ…ガァ…!…アァア……!!!」
最初から気づいていた。これは呪文ではないと。これは私にとっての最後の試練であり、旅立ちのための準備事項。精神の選定、魂の浄化。
「……グゥ……!!それでも越えねば、超えねばならん!我が渇望、力に屈するほど繊細でも愚かでもないわ!例えそれがかくも険しい道程になろうとも、道半ばで地に、海に倒れ伏す事になろうとも一片の揺るぎも無い!私は世界を救うために生まれてきたのだ――!!!!」
瞬間、微笑みが声の主に表れた気がした。ああ、世界は今強い白色に包まれている。祝福の輝きだ。
『彼の者の魂は壮烈であり美しい。無尽に輝くこの原初の煌めきがその信念と覚悟すらも焼き切る前に救いを齎す幸いの掌を与え給え』
『遺伝子分析変換構築式 輪廻転生五十弐型不合理肆式 鳴動――』
瞬間、意識が溶けていく。炎天下に置きざりにされた氷菓よりも早く、早く、早く、ハヤク、ハヤク、ハヤク、はやく、はやく、はやく、早ク、、はヤ――
混濁する意識の中で私は、愉悦に塗れた不快な瞳と吊り上がった口角、鼻につく甲高い笑い声。そして……
「お前に与えた力でどれだけ足掻けるか、見物するのが今から楽しみで楽しみで仕方がないよ。分不相応な望みに屈して犬死することだけは止めてくれよ?落胆するよりも先に怒りで総てを壊しかねん。玩具は頑丈でなくては困るからな。では、精々頑張り給え、救済者見習いのご老人?」
――イシキハ溶解シタ――
……そうしてローレンス・オウル・アッフェンバッハの七十四年という人生は幕を降ろした。
だがこれはそう、序章。果てにある平和を探して奔走する少年と少女たちの物語のほんの一ページにすぎないのだ。彼の老人は何だったのか、力を与えた者は悪魔なのか神なのか?紐解いていくにはあまりにもピースが足りていない。
開演のブザーが鳴り響く。この物語において幕間は瞬きほどの時間しか与えられない。既に舞台は整っている。これは用意される演劇ではない。数々の人生を入り雑じらせた即興劇とでも言おうか。
万雷の喝采と共に幕が開く。ここから先はもう止まれない。そして彼と彼女たちの、彼の冒険が始まっていく……