ビスクドールの彼女
彼女を初めて見たのは、図書室だった。
真っ直ぐで艶のあるたっぷりとした黒髪が彼女の白い肌を一層目立たせている。自分が受け持っているクラスでは見かけたことがないので、一年生だろうか。
その華奢な手に収まっている、彼女の年頃にしては渋い小説はこの間名誉ある文学賞を受賞したばかりのものだった。図書館特有のラベルは外装からは見受けられないので恐らく自分で購入したものなのだろう。
国語の教師として、活字離れが叫ばれるこの時代に電子書籍などではなく紙の本で読書に親しんでいる生徒が身近にいることは、喜ばしいことだと思う。
それに、彼女が読んでいる著作はちょうど次の授業で話題に挙げようとしていた作品であった。高校生には少々難しいとはいえそれを恐らく購入し真剣に読み進めている彼女は、普段から好んで読書をしているのだろうことが窺える。
そして未読のページ、それに読むペースを見る限りではあと三十分もすれば読み終わりそうな勢いであった。
自分もこれから小テスト採点の仕事があるものの、あの作品を読破した生徒の意見は授業の参考になるかもしれない。
彼女が読み終わった後で感想を聞こうと決めた。
「その本、どうだった」
そう声をかければ、彼女は突然のことに驚いたようではっと顔を上げた。
———綺麗だ。
読書中に俯きがちであった時でさえ端正な顔立ちだとは思ったが、こうしてはっきりと正面から見ると予想以上に大人っぽく、綺麗な少女だと思う。それこそ小説にでも出てきてもおかしくないかもしれない———さしずめ上品でいて知的さも漂う深窓の令嬢、だろうか。
「これですか、」
黒髪の彼女は手元の本をぱらぱらと弄る。
「今度それを授業で扱うんだけど、高校生がどう感じたか知りたいんだ」
自分の姿は恐らく校内ですれ違うくらいでしか見たことはないだろう。
話したことのない教師に声を掛けられて戸惑うかと思いきや、彼女はうーんと少し考えた後こちらを真っ直ぐに見つめて言った。
「綺麗な作品だと思いました」
それは少し意外な答えだ。
この作品は、一言で言えば主人公が回想する独白形式の物語だ。
主人公は過去に犯した重大な過ちを苛み続け、終いには精神を病み施設へ収容される。病んでいる主人公の回想は妄想と現実が入り混じった独特の世界で、その綻びが所々読者にも分かるように描かれている。
最終的に主人公は自らの妄想に気が付いたことを匂わせるが、はっきりしないまま物語は締めくくられる———
これを読んで「綺麗な作品」という感想が出てくるとは思いもしなかった。
「何故そう思ったか教えてくれる、」
そう尋ねると、彼女は少し複雑な顔をした。
「わたしには、主人公はわざと妄想者を『演じていた』ように思えたんです。そうすれば彼は現実に直面することはなく、傷付かずに済むから。
それを匂わせる描写が終盤にあったし———
わたしたちから見たら精神を病んだ彼は異常に見えるけれど、彼にとっては現実の世界こそが狂っていたんだと感じました。
だから妄想の世界を選んだんだと思います」
「そうだな」
ここまでは自分の見解と同じである。
「その彼の選択は、ある意味で滅びの美学に通じる部分があると思って———
彼の永遠に過去を見て生きているその姿は耽美だし、何となく大正の文豪にも似たような感じを受けて、そこが綺麗だと思いました」
思わず笑みがこぼれた。
彼女の感性は読書家らしく豊かで、予想通り、いやそれ以上に素晴らしい感想だ。高校生にしてはしっかりとした批評かもしれない。
もっと単純な『高校生らしい』返答は、彼女に求めるべきではなかったのかもしれないなと思う。
「こんな感じでいいですか、」
「ああ、ありがとう。其れにしてもしっかり読んでるんだな」
しかし彼女は逆に不安そうな顔で「語っちゃってすみません。もしかして先生は、もっと軽めの意見が知りたかったんでしょうか」とこちらを窺ってきた。
本だけでなく場の空気を見ることが出来るとは。それとも偶々だろうか。どっちにしても利発な少女だ。
「いや、確かにしっかりした感想でびっくりはしたけど、これも高校生の感覚なんだなと思って勉強になったよ」
彼女は安心したようににこりと笑った。
「———わたし、本が好きなんです」
「だろうと思った」
「でも、この人の作品はこれが初めてで。話題になってたからつい買っちゃいました」
「あ、凛子、やっぱりここに居たの、」
ひと気がないとはいえ図書館に似つかわしくない大きめな声が響き、彼女が声のする入口あたりを振り返った。
そこにははっきりとした表情の、彼女とは対照的に『高校生らしい』少女が立っていた。
「探したんだよ、」
「悠里、ごめん」
入口に仁王立ちしている少女を彼女———凛子は悠里と呼び、慌てた様子で椅子を引いて立ち上がった。それから彼女は出されていた例の本と筆記用具をさっと学生鞄に仕舞った。
「もう凛子ったら、ふらっとどこか行ったら困るよ。早く行こう、わたしね駅前の新しいカフェのフルーツパフェが食べたくてね、」
「うんうん、そう言ってたよね」
悠里と呼ばれた少女はこちらの読書スペースまで歩いてくると、自分を一瞥したものの有無を言わさず彼女をぐいぐいと連れて行ってしまった。彼女はいつものことなのか慣れた様子で相槌を打っている。
そんな状態であったので、さて仕事に戻るかと自分が元いた席へ戻ろうとしたとき、
「先生」
小さな声が聞こえたので、振り返ると彼女が入口でこちらを見ていた。
艶やかな黒髪に縁取られた表情は恥ずかしげに見える。
「あの、ありがとうございました。
来年、先生の授業受けるのが楽しみになりました」
「失礼します」と、さらさらと黒髪が流れ落ちるような一礼をして、彼女は風のように図書室を出て行った。
きっとあの少女と、曰く駅前のフルーツパフェを食べに行くのだろう。彼女の『高校生らしい』部分を唯一垣間見た気がする。
埃っぽい図書室での談話は、不思議と久々に自分をあたたかい気持ちにさせた。
現代国語の授業では彼女の感想を取り入れたプリントを使った。