どろちゃん番外編 フォーレンハイト セルシウス ケルビンのやりとり
――セルシウス、ファーレンハイト、ケルビン――
※これは『どろちゃんと、空から届いたタドポール君』の1703年本編にそのまま入る場面ではなく、
温度尺度について話していた内容を、三人の対話としてまとめた検討用テキストです。
1703年にはセルシウスはまだ幼児で、ケルビンは生まれていません。
現在の本編では、ファーレンハイトだけが17歳でライデン大学に入り、
温度計の再現性と校正体系の研究を始めています。
*
机の上に、三本の温度計が並んでいました。
一本には摂氏。
一本には華氏。
もう一本にはケルビン。
最初に口を開いたのはセルシウスでした。
「水が凍るところを0度、沸騰するところを100度。この方が分かりやすいでしょう。十進法ですし、百に分ければ計算もしやすい」
ファーレンハイトは、自分の温度計を持ち上げました。
「分かりやすい、というのは何に使うかによります。人が暮らしているところの気温なら、私の目盛も悪くありませんよ。寒い日から暑い日まで、だいたい0から100のあたりで話せます。しかも1度の幅が小さいので、日常の温度差を細かく数字にできます」
「でも、水は32度で凍るのでしょう?」
「ええ」
「沸騰は212度」
「ええ」
「やっぱり変ですよ」
「あなたは自分の0と100を見慣れているからそう思うんです」
「あなたも自分の三十二と二百十二を見慣れているだけでは?」
「それは否定しません」
二人とも、少し黙りました。
そこへケルビンが、二本の温度計を見比べながら言いました。
「ところで、その0とは何です?」
セルシウスが答えました。
「水が凍る温度です」
「では、それより低い温度は?」
「負になります」
「負の温度とは何です?」
「……0度より低い温度です」
「その0とは何です?」
セルシウスが止まりました。
ファーレンハイトが笑いかけて、途中でやめました。
ケルビンは今度はそちらを見ました。
「あなたも同じですよ」
「分かっています」
「あなたの0度も、温度そのものがなくなる場所ではありませんね」
「ええ。私の零点も基準として置いたものです。そちらについては、セルシウス君を笑えません」
「そういうことです」
ケルビンは紙を一枚出しました。
「摂氏も華氏も、日常の温度を表すには便利です。しかし、数字の0が温度そのものの〇ではない。だから、その数字をそのまま比として扱うことはできません」
セルシウスが首を傾げました。
「差ならいいでしょう?」
「ええ。温度差としてなら扱えます。20度から30度になれば、10度上がった。これはよい。しかし、20度は10度の2倍の温度だ、と言うことはできません」
「それはそうですね」
ファーレンハイトが自分の目盛を指しました。
「もちろん華氏でも同じです。60度が30度の2倍の温度、ということにはならない」
「そうです。摂氏だけの問題ではありません」
セルシウスが少し安心した顔をしました。
「では、二人とも怒られるわけですね」
「怒ってはいません」
「さっきから質問の仕方が怒っている人なんですよ」
ファーレンハイトが笑いました。
「それを世間では攻めていると言うのでは?」
ケルビンは答えず、紙へ式を書きました。
PV = nRT
「たとえば気体を扱うときです。この T に摂氏温度をそのまま入れてはいけません」
セルシウスが言いました。
「零下になるから?」
「それ以前の問題です。圧力や体積と比例関係を考えるためには、零点に物理的な意味が必要です。摂氏0度で気体の熱運動がなくなるわけではありません」
ファーレンハイトも式を見ました。
「華氏も、そのままではだめですね」
「はい」
「では科学では華氏は使えない、と」
「そうは言っていません。温度差を測る、気象を記録する、人体や工場の状態を監視する。そのような用途なら尺度として使えます。ただ、絶対温度が必要な式へ華氏の数字をそのまま入れてはいけない」
「摂氏も」
「摂氏もです」
セルシウスが言いました。
「そこは重要ですね。『華氏は科学的ではなくて、摂氏なら科学的』という話ではない」
「その通りです」
ファーレンハイトが机を指で軽く叩きました。
「それなら私も納得できます。私は温度計で同じ温度を同じ数字として読めるようにする方が大切だと思っています。一本だけ正しくても意味がない。同じように作った別の温度計でも同じ値を出す。基準器があって、そこから工場の標準へ移して、さらに実際に使う温度計へ移す」
「尺度以前の問題ですね」
「ええ。32という数字を決めても、温度計ごとに三十二の場所が違ったら何の役にも立ちません」
セルシウスは少し考えました。
「それは私も欲しいです。0度と100度を決めても、誰が作っても同じ0と100度にならなければ困る」
「でしょう?」
「でも32度は変です」
「またそこへ戻りますか」
ケルビンが二人の温度計を並べました。
「目盛幅にも違いがあります。摂氏1度とケルビン1は、温度差として同じ幅です」
「はい」
「華氏1度と、絶対温度を華氏と同じ刻み幅で表すランキン1度も同じ幅になります」
ファーレンハイトが言いました。
「つまり、私の1度という細かさを残したまま、絶対零度を0にする尺度も作れる」
「そうです」
「では私も科学計算から追放されなくて済みますね」
「誰も追放していません」
「さっきから言い方がそう聞こえるんですよ」
セルシウスが笑いました。
「ケルビンさんは、たぶん温度計より人間の方の校正が必要ですね」
「何を校正するんです?」
「話し方です」
また少し静かになりました。
セルシウスは、自分の目盛を見ました。
「でも、日常では摂氏は便利だと思いますよ。水が凍りそうなら0度の近く。沸騰なら100度の近く。十進法で扱いやすい」
ファーレンハイトも自分の温度計を見ました。
「華氏も日常には便利です。人が生活する普通の気温が、かなりの範囲で0から100くらいに収まる。整数だけでも摂氏より細かく読めます」
ケルビンはうなずきました。
「どちらも便利です。用途が違うだけです。私の尺度で今日の天気を話してもよいですが、295ケルビンです、と毎朝言いたい人は多くないでしょう」
「珍しく分かりやすいことを言いましたね」
「私はいつも分かりやすく話しているつもりですが」
「そこが問題です」
ファーレンハイトが言いました。
「結局、こうでしょう。日常の温度は、使いやすい尺度で測ればいい。温度差も、その尺度の刻み幅を理解して使えばいい。ただし、温度の比や、温度そのものを比例量として扱う計算では、絶対零度を基準にする」
「はい」
「そして、どの尺度を使うにしても、温度計そのものが再現できなければ話にならない」
「それも、はい」
セルシウスが言いました。
「では私たち、そんなに喧嘩する必要はないのでは?」
ケルビンが答えました。
「最初から喧嘩していません」
「『負の温度とは何です? その零とは何です?』と聞いてきた人が言いますか」
「必要な質問です」
「ほら、また始まった」
ファーレンハイトは、自分の温度計を机へ戻しました。
「まあ、測ってみましょう。3人とも同じものを測って、違う数字を出して、それでも同じ温度を示している。それで十分でしょう」
セルシウスがうなずきました。
「数字が違っても、温度は一つ」
ケルビンも言いました。
「そして計算するときには、数字が何を意味しているかを忘れない」
「最後だけは、やっぱり先生みたいですね」
「大切なことですから」
「はいはい」
三本の温度計は、同じ部屋の同じ温度を、3つの違う数字で示していました。
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小さな説明
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【摂氏と華氏】
摂氏(℃)も華氏(°F)も、零点が絶対零度ではない温度尺度です。
したがって、温度差として「10℃上がった」などと扱うことはできますが、
20℃を10℃の「2倍の温度」と考えることはできません。華氏も同じです。
【ケルビン】
ケルビン(K)は絶対零度を0とする絶対温度尺度です。
摂氏とケルビンは一目盛りの幅が同じなので、温度差1℃と1Kは同じ大きさです。
理想気体の状態方程式 PV=nRT など、温度を比例量として扱う式では絶対温度を使います。
【華氏とランキン】
華氏と同じ目盛幅を保ちながら絶対零度を0とする尺度がランキン尺度(°R)です。
温度差1°Fと1°Rは同じ大きさです。
【ファーレンハイトの位置づけ】
この物語では、ファーレンハイトの功績を「変わった数字の温度尺度を作ること」だけにはしません。
温度計を再現性よく作り、基準温度計、工場標準、現場用温度計へと値を受け渡せる校正体系を作る研究を重視します。
1703年の本編では、17歳のファーレンハイトがライデン大学でこの研究を始めています。
【史実のファーレンハイト】
ダニエル・ガブリエル・ファーレンハイト(1686~1736)は、ダンツィヒ(現在のグダニスク)生まれの物理学者・科学機器製作者です。1701年に両親を同時に失い、その後アムステルダムで商人修業をしましたが、科学機器、とくに温度計の製作へ進みました。水銀温度計の改良と、再現性の高い温度計の製作で知られ、1724年にはロンドン王立協会の会員になっています。
本編ではこの史実から早く分岐し、17歳の1703年に商人との徒弟契約を正規に清算して、本人の意思でライデン大学へ移っています。
【史実のセルシウス】
アンデルス・セルシウス(1701~1744)は、スウェーデンの天文学者です。1730年にウプサラ大学の天文学教授となり、天文観測だけでなく、気象観測、地球の形を調べる測地学、オーロラの研究などにも関わりました。ウプサラ天文台の設立にも尽力しています。
1742年に、水の沸点と凝固点の間を百等分する温度尺度を提案しました。ただしセルシウス本人の尺度は、現在とは逆に、水の沸点を0度、凝固点を100度としていました。現在のような向きの尺度はセルシウスの死後に使われるようになりました。
【史実のケルビン】
ケルビン卿ウィリアム・トムソン(1824~1907)は、ベルファスト生まれの物理学者・数学者・技術者です。1846年、22歳でグラスゴー大学の自然哲学教授となり、その職を53年間務めました。熱力学、電磁気学、電信技術など幅広い分野で研究し、1848年には絶対零度を基準とする絶対温度尺度を提案しました。これが後にケルビン尺度と呼ばれるようになります。
大西洋横断電信ケーブルの実用化にも深く関わり、1866年にナイト、1892年にケルビン男爵となりました。「ケルビン」という名は、グラスゴー大学の近くを流れるケルビン川に由来します。
【この対話について】
セルシウスは1701年生まれ、ケルビンは1824年生まれなので、3人が1703年に実際に会話することはできません。
この文章は、3つの温度尺度の性質と、これまでの検討内容を分かりやすく残すための概念対話です。




