貴方が私を愛しているのは、とっくにお見通しです!
# 蒼い風は君の名を運ぶ
シャンデリアは、夜の空を逆さに吊るしたみたいだった。
金の滴みたいな灯りが天蓋からこぼれて、磨き上げた床に波紋を描く。
私は席に背を寄せ、葡萄の香りが漂う食卓と、うすく笑う家族の輪郭を眺めていた。
「リーア、領地運営の報告書を見たが、なかなかの数字だな」
父はグラスを回し、赤い月を掌で揺らす人だった。
灰の混じる髪、にこやかな眼の奥に、いつも計算と祈りが併走している。
その眼差しに褒められると、私の胸は静かに熱を持つ。
「ありがとうございます、お父様。もっと精進します」
隣でナイフが肉を裂く音がした。
「報告書?」とサラが言う。
彼女の笑みは、磨かれたガラスの縁のように薄く冷たい。赤い唇だけが夜会の色をしている。
「そんなの、ただ数字を並べただけじゃない」
父はやわらかく笑った。「サラ、そんな風に言わないでおくれ。お前も積極的に関わってみたらどうだ?」
「あなた、サラは社交会が忙しいのよ」クラリスは香のように甘い声で射抜く。「そういう手間仕事はリーアさんの仕事でしょ?」
私は背筋を伸ばした。「お義母様。私に任せてください」
サラは片眉を上げる。「大袈裟に。そんなの私でもすぐ終わるわ」
父はため息をひとつ、卓上の燭台に薄い影を落とす。「お前達、頼むから仲良くしておくれ……」
そして世界は、唐突に傾いた。
「うっ……!」
椅子が床を蹴る音。
父の指先からグラスが落ち、赤い月が石床に砕けた。
私は立ち上がり、呼吸の仕方を忘れたまま走った。
「お父様!」
膝に冷たい床の感触。
脈を探し、名を呼ぶ。私の声は震え、祈りにも届かない。
ふと視線を上げたとき、壁際に立つ二人——クラリスとサラが、小さく口角を上げていた。灯の揺れが見間違いであればと願った。
「お父様、死なないで……お願い——」
その夜、バルサン家の当主は三十八歳で旅立った。
香の煙が天井に絡み、シャンデリアの光は、遠い星のように滲んだ。
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葬儀の鐘は、石の街に冷たく降った。
黒い衣が風に鳴り、銀糸の祈りが聖堂の天蓋に吸い込まれていく。
私は弔意の列を導きながら、歩幅を均すことだけに心を費やしていた。
「——遺言書!?」
私の声は思わず高く跳ね、聖歌の列に小さな波紋をつくった。
サラが羊皮紙をひらりと見せる。「ええ、そうよ。お父様から私への手紙。ここにはっきり、私にこの家を継がせたいと書いてあるわ」
クラリスが笑んだ。香水と黒曜石の光をまとって。「ということは今後はサラが当主ね」
「……今は葬儀中ですよ。不謹慎ではありませんか」
私は顔を上げ、列に戻る合図をした。
怒りは指先に集まり、冷たく痺れる。けれど——今は、鐘の数を数える方が先だ。
母の葬儀を思い出した。
白い花の匂い、冷たい額、きつく結んだリボン。
その後、すぐにやってきたのが——クラリスと、赤い笑みをもつ彼女の娘サラだった。
私は領地の帳簿と畑、堤防と倉庫を学んだ。
叱られ、覚え、また叱られた。
父はサラには甘かった。宝石、ドレス、舞踏会のカード。
それでも私は信じた——この地を継ぐのはいつか私だ、と。
父の墓標の前で、私は両手を組む。
石は黙っている。
私は、ただの作業員だったのだろうか。
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「——出ていけ、ですって?」
広間の絨毯に、別の家の匂いが混じっていた。
サラとクラリス、そして痩せた口髭の男が立つ。
「ええ」サラは扇子を鳴らした。
「この方は会計士のブリットさん。今後の領地経営は彼にお任せするわ。だから、あなたの仕事はもうないの」
「そんな……」言葉の形は崩れやすい。拾い上げる前に砂になる。
サラは瞳を細める。「私、子供の頃からあなたのことが嫌いなの。ちょっと人より賢いと思って人を見下してるところが」
「そんなつもりは——」
言い終わる前に、サラはもう次の矢をつがえていた。
「あなたにはコーン河沿いの屋敷に住んでもらうわ」
「あそこは昨年、川の氾濫で半水したでしょう?」
クラリスが肩を揺らす。「二階は大丈夫だって聞いてるから、大丈夫よ〜」
「とにかく当主の命令よ。——あそこに住みなさい!」
その瞬間、私は家を失い、記憶の置き場を失った。
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コーン河は、夏でも冷たい。
半分沈んだ屋敷の一階は、泥が乾く前の匂いで満ちていた。
私は袖をまくり、ブラシを握りしめる。白い花を胸ポケットに挿したまま、床を磨く。これは母に似た癖だ。
「お嬢様、次はいかがなさいましょう」
使用人たちは泥の斑点を頬につけ、まっすぐに立っていた。
「壁を拭き終わったら次の作業に入りましょう!」
「はい!」
汗の雫が顎から落ちる。
私は笑ってみせる。「あなたたちにも苦労をかけるわね」
「とんでもないことでございます」
「サラ様の下で働く方が大変です」
「気に入らない使用人はすぐに——」
私は手を止めた。「……噂は?」
「税を盗んだと。無論、我々は——」
「サラ達ね」
私は手紙を書いた。事情の説明、数字、印影、証人。
けれど良い返事は来ない。
先回りして道を塞ぐ影の足音が、紙の隙間にまで入り込んでいる。
どうしよう。
屋敷は片づいた。でも心の置き場はまだ泥の中だ。
そのとき、扉が叩かれた。
「ベルグランド家のサイモン様が——」
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風が入ってきた。
夏の石畳を走ってきた風だ。
そして、彼。
「やあ、リーア。ひさしぶりだね」
蒼い風をまとった人は、笑うと目尻にやわらかな皺が寄る。
陽の下で育った麦の色の髪、低い声にかすかな砂の音。
立っているだけで、部屋の埃が静まる。
「サイモン! あなた、なぜここに?」
「じいさんから聞いたんだ。バルサン領に変な噂があるって。調べてこいってさ」
彼は私の幼馴染。大叔父に連なる本家筋の人。
遠いと思っていた家系図が、今は一本の橋に見える。
「普通に考えたら、君が継ぐはずだろ? なのになぜここに?」
私は息を整えた。「……相談に乗ってくれるかしら」
「もちろん」
時間は、二人で積むと少しだけ軽くなる。
私は、紙の手触りや印影の重さを説明し、彼は黙って聞く。
ときどき視線が合い、そのたび距離が半歩ずつ縮む。
「手紙、ね」
「本物っぽくて」
「でも遺言書にはならないよ」
「え?」
「王立裁判所に正式に保管されたものだけが遺言になる。手紙はその時の気分でいくらでも変わるだろ?」
私は思わず笑ってしまった。「詳しいのね」
「僕は三男坊だからさ。手に職がないと食っていけない。だから勉強したんだよ」
彼は袖口を直し、真っ直ぐに言った。「この件、僕が解決してみせる」
蒼い風が、私の胸に新しい酸素を運び込んだ。
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王立裁判所は、石の冷気と紙の匂いがする。
石段を降りると、サイモンは馬車の扉に手を添えて言った。
「ほら。正式な遺言状は保管されていなかった」
「そうなの?」
「だからサラの相続は確定していない。基本は話し合い、だめなら裁判だ。——でも血筋的には、君が相続人になれる可能性が高い」
「裁判……大変そうね」
「気がかりが?」
私は一瞬、言葉を探した。
父の墓、サラの笑み、クラリスの香り、泥のついた床。
「とにかく、お義母様たちと話してみるわ」
「じゃあ僕も一緒に行く。だいたいあの後妻、前から気に食わなかった。君の居場所を奪うなんて——」
「どうして、そんなに私のために」
彼は一拍、目を逸らした。「そ、そりゃあ幼馴染だからさ」
窓の外、並木の葉が揺れる。
幼い私たちが、川辺で石を投げ合った日の光が、ふいに胸の底で反射した。
「ありがとう、サイモン」
言った瞬間、彼の頬に、わずかな紅が差した。
「……じ、準備してから行くよ」
私たちは翌日、バルサン邸の扉を叩いた。
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「は? 私が相続人じゃない?」
サラは扇子を閉じ、音で空気を切った。
「ベルグランド侯爵家の者です」サイモンは一礼する。「クラリスさん、お久しぶりです」
クラリスは、わずかに笑んだ。「本家筋の方よ、サラ」
「侯爵だろうが本家筋だろうが関係ないわ。こっちにはお父様の遺言があるんだから」
「それはただの手紙です。法的効力はない」
空気がひんやりと凪ぐ。サラの手が止まる。
「しかも古い。おそらくあなたが幼い頃に、子爵が戯れに書いたものじゃないか」
「いずれにせよ、正式な遺言がない以上、長女であるリーアが相続する権利がある」
サラは振り返り、ブリットの袖を掴む。「ブリット、助けて!」
ブリットは胸を張った。「現在、会計を調べておりますが——不正会計の証拠が見つかりました。これは既に裁判所に提出済み。通ればリーアさんは、よくて国外追放かと」
私の指先から、血が引いた。
サイモンが懐を探る音が、やけに近く聞こえる。
「——これは、あなたが提出した証拠の写しだ。明らかに偽造の跡がある」
「な、なぜあなたがそんなものを」
「僕は王立裁判所にも顔が利く。しかも、知り合いの有能な鑑定士に片っ端から調べさせた。使われたインクもバラバラ、書かれた年代もバラバラ。文字を似せただけでは、本物の目はだませない」
ブリットの喉が上下する。
「偽証は重い。死刑だってあり得る」
空気は凍らない。ただ、言葉が落ちる音がはっきり聞こえるようになる。
「……あんた、何者ですか」
「僕か? 王都の弁護士、サイモン・ベルグランド」
「——弁護士サイモン、王都一のやり手……」
ブリットの視線が泳ぎ、やがて崩れた。「許してくれ! この二人に頼まれたんだ。証拠を偽装して、リーアさんを国外追放できたら婿に迎えるって——」
「あなた、よくもそんな——!」クラリスは声を荒げ、サラは顔を背けた。
サイモンは片手を上げて制した。「どちらが嘘かは、すぐにわかる」
私はサラを見た。
目の奥に、小さな少女の泣き顔が一瞬だけ過ぎる。
「サラ。本当は、仲良くやりたかったのよ」
扇子が床に落ちた音が、広間に長く響いた。
「——でも、もうさよならね」
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その後の出来事は、別の物語のように速かった。
不正会計の捜査の一環で、父の死に毒の影が浮かび上がる。
司法取引に応じた会計士の供述。
私は席を外し、石廊下で深く深く息をついた。
「信じられない」
「彼女たちはよほど当主の座が欲しかったんだろう」サイモンの声は低く、けれど私の肩に羽織る外套のようにあたたかかった。
数日後、私は書類にサインをした。
墨は静かな夜の湖の色。
サイモンが確認し、頷く。
「というわけで、晴れて君はバルサン家の当主だ」
「ありがとう。サイモン、すべてあなたのおかげよ」
私は一歩、彼に近づく。
彼はわずかに息を呑み、視線を逸らし、それから戻した。
「でも、どうしてここまでしてくれたの?」
「だ、だから幼馴染だから——」
彼の耳まで赤くなる。
私は笑みをこぼす。「本当にそれだけ?」
沈黙は、風の溜まり場みたいだった。
サイモンは片手で額をかき、苦笑する。
「なんて君は意地悪なんだ」
そして、真正面から言った。
「そうだよ。君が昔からずっと好きだった」
蒼い風が、ひときわ強く吹いた気がした。
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「君が初恋の人だったんだ」
彼の声は、少年の日の川音を連れていた。
私は指先で髪を耳にかけ、深く息を吸う。
距離が一歩、縮まる。心音が、二つ分、近くなる。
「——ありがとう」
私は囁き、彼の手を取る。
掌は温かい。冬を越えた木の皮みたいに、しなやかな硬さがある。
「私も、あなたが初恋だったわ。
そして今も——」
言い切る前に、風がカーテンを揺らした。
彼は目を細め、私をそっと抱きしめる。
確かな体温が、言葉よりも先に意図を伝えてくる。
私たちは、長い抱擁を分かち合った。
唇が触れるとき、部屋の灯りがやわらかく滲む。
それは宣誓でも契約でもなく、ただ静かな合意——これから同じ方角へ歩く、という約束。
「一緒に、やっていこう」
「ええ。領地も、人の暮らしも、私たちのこれからも」
外では、並木がざわめき、蒼い風が窓辺を通り過ぎていく。
私は目を閉じ、肩に落ちたその風の気配を胸にしまった。
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それからの日々は、驚くほど早く、驚くほど丁寧に過ぎた。
堤の補修、倉の管理、税の見直し。
サイモンは書類に目を通し、私は現場へ足を運ぶ。
彼は法と人の間に橋を、私は人と土の間に橋をかけた。
二つの橋は真ん中で出会い、小さな市場が生まれる。
義母とサラには、重い刑が下った。
私は判決文を閉じ、その上に白い花を置いた。
憎悪は腕を掴んでくるけれど、未来は袖を引く。
私は袖に従うことにした。
コーン河沿いの屋敷は、もう泥の匂いをしない。
二階の掃き出し窓から、夏の雲が近い。
風が入ると、机上の紙がさざ波を立てる。
その音が好きになった。
私には、未来と、同じ風向きを選ぶ人がいる。
夜更け、サイモンは灯を落とし、窓を開ける。
「風の匂いが変わったね」
「収穫が近いから。麦の匂いよ」
彼は笑い、私の名を呼ぶ。
名は、風に乗せると遠くまで届く、と誰かが言っていた。
私は彼の名を呼び返す。
蒼い風は、それを何度も繰り返し、天蓋に溶かす。
——シャンデリアの光は、今も夜空を逆さに吊っている。
けれどもう、砕けた月は床で泣かない。
光は揺れ、風は祈り、名前だけが静かに残る。
私はその名を胸に置き、目を閉じた。
明日の朝、また同じ風が、私たちの扉を叩くだろう。
1年ほど前に書いた漫画読切用の原作を小説にしてみました。こちらを原案にした漫画も連載しております。
https://www.cmoa.jp/title/331677/




