episode 5 それぞれの密やかな裁可
翌朝、王宮の一角。
昨日の大広間とは異なり、今日の会議は小さな円卓を囲む静謐な場で開かれた。
出席を許されたのは、わずか四名――。
宰相が最初に口を開く。
「本日は必要最低限の顔ぶれに絞りました。王国の行く末を左右する議題ゆえ、無用な言葉は不要です。それと、レオン殿下にお伝えしなければならぬ報告があります」
「……何だ?」
「第一王子殿下と近衛騎士団長率いる軍は、現在、北境の前線にて指揮を執っておられます。その為、昨日の殿下のご帰還には間に合わず、本日の会議にも出席されません。代わりに、第一王子殿下の代理として――グローヴァー卿をお招きいたしました」
静かな言葉の裏に鋭い意志が滲む。現れたのは壮年の武人。灰色の髪を後ろで束ね、胸甲には王家の紋章が刻まれている。無骨な動作で一礼すると、重々しく椅子に腰を下ろした。
宰相は一息置き、わずかに目を伏せる。
「本来であれば昨日のうちにお伝えすべきことでした。前線からの報告が遅れ、殿下にご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます」
レオンは視線を宰相に向け、淡々と応じた。
「構わない。どうせ、そういうことだろうと思っていた。知らせが遅れたくらいで、事の本質が変わるわけでもない」
宰相の表情に一瞬だけ影が差したが、すぐに平静を取り戻す。
「ご寛容に感謝いたします、殿下」
そのやり取りの後、宰相は改めて言葉を継いだ。
「グローヴァー卿は長年、第一王子殿下の軍務を補佐してこられた方です。本日は第一王子派の意見を代弁していただきます」
宰相の説明に続いて、もう一つの椅子に目を向ける。そこには絹の外套をまとい、冷ややかな笑みを浮かべる青年――第二王子アルヴィンの姿があった。
「兄上がいない席とは、ずいぶんと珍しいな」
軽い口調ながら、瞳には油断のない光が宿る。
「もっとも、北境で戦に明け暮れるのは彼の性分らしいが」
その言葉に、グローヴァー卿の眉がわずかに動く。しかしアルヴィンは気にも留めず、ゆったりと椅子に身を預けた。レオンは沈黙を保ち、場の流れを観察していた。
(……第一王子も近衛騎士団長も前線。不在の今、王都を実質的に動かしているのは――宰相、王妃、そしてアルヴィンか)
胸の内でその構図を思い描くが、表情には出さない。今日の議題が、より政治色を帯びることを悟っていたからだ。
宰相が再び、冷ややかに声を響かせた。
「では――本日の議題に入りましょう。王都の統治と、市民生活の安定についてでございます」
静まり返った円卓に、重く張りつめた空気が落ちた。宰相は円卓の中央に置かれた資料束を開き、静かに言葉を継いだ。
「まず王都の現状についてご説明いたします。北境の戦況が長期化する中で、兵糧および資材の輸送負担が増大しております。これに伴い、王都南部では一部の市民生活に影響が出始めており――特に、流通を担う商会との調整が急務となっております」
彼は紙をめくりながら淡々と報告を続ける。声の調子は穏やかだが、その一語一語に、権力を握る者特有の“余裕”があった。
「王妃陛下のご意向により、すでに宮内会計の一部を民間への支援へと転用しております。この判断は混乱を防ぐための臨時措置として――陛下の名において正式に承認されました」
(……王妃の名、か)
レオンは目を伏せ、思考を巡らせた。宰相がこうして“報告”の体裁を取りながら、王妃の権限を政治的に拡大していることを見抜いていた。それを咎めても無駄だと分かっているからこそ、彼は黙して聴く。
「また、治安面については第二王子殿下の監督のもと、警邏隊の再編を進めております」
宰相の視線が、わずかにアルヴィンへと流れる。
「……ほう」
アルヴィンは口の端を上げ、無造作に脚を組んだ。
「俺に押しつける形ではなく、正式に任を委ねた、というわけだな?」
宰相は恭しく一礼する。
「あくまで“御裁可を仰ぐ形”にございます」
「ふむ……ならば、遠慮なく働かせてもらうとしよう」
アルヴィンの笑みには、王都を自分の支配下に置く計算が見え隠れしているのをレオンはそれをただ見ていた。
(――王妃の財政、宰相の政策、そしてアルヴィンの治安。それぞれが巧妙に手を伸ばし、王都の中枢を囲い込んでいる。第一王子が戻らぬ限り、この均衡は彼らの思うままだ)
静かに呼吸を整えながら、レオンは次の一手を測っていた。宰相の報告が一段落したところで、レオンはゆっくりと視線を上げた。円卓の上に置かれた資料を軽く指先で叩き、静かに言葉を発する。
「……つまり、財政は王妃陛下の管理下に。治安はアルヴィン殿下の管轄として再編中――そう理解してよろしいですか?」
宰相がうなずく。
「はい、レオン殿下。現状ではそのように運用されております」
「ふむ……」
レオンはわずかに間を置き、隣席の武人――グローヴァー卿へと視線を移した。
「では、軍は第一王子殿下が掌握しておられる状態、と見てよいのですか?」
グローヴァー卿は一瞬、姿勢を正した。鎧の継ぎ目がわずかに鳴る。その眼差しには、戦場で鍛えられた者特有の迷いのなさが宿っていた。
「はい。王国軍の中枢――近衛および北境遠征軍の指揮権は、すべて第一王子殿下の下にあります。我ら将兵は、その命を受けて北境防衛にあたっております」
「……そうですか」
レオンの声は穏やかだった。だが、その沈黙の裏に、場の全員が微かな圧を感じ取る。
宰相が慎重に言葉を継ぐ。
「殿下のご帰還にあたり、第一王子殿下にも伝令を送っております。ですが、戦線の通信が不安定でして――おそらく正式な報告は数日遅れるでしょう」
レオンは目を閉じ、わずかに息を吐いた。
「戦場での遅れならば、仕方ありません」
短くそう返すと、それ以上は何も言わなかった。しかし、彼の沈黙が意味するところを読み取れる者は、この場にほとんどいなかった。
(……軍の主導権は第一王子。王都の統治は宰相と王妃。そして治安はアルヴィン――)
三つの力が均衡するその中心で、レオンは一人、静かに駒の配置を見定めていた。
「……でもまあ、結局のところ、商会の貴族連中をどうにかしないと動かないし、市民も安心しないんだろう」
ふいに放たれた言葉に、宰相の指がわずかに止まった。その声音は穏やかだったが、円卓にいた誰もが、そこに潜む刃のような鋭さを感じ取っていた。宰相は一拍置いてから、ゆっくりと顔を上げる。
「……ご明察にございます、殿下。まさにそこが、いま我らが抱える最大の課題にございます」
レオンはわずかに頷いた。
「やはり、そうですか」
その一言で、会議の空気が静かに変わった。レオンが言葉を選びながらも、場の核心に指を差したことを、誰もが理解していた。
「――今、商会を取り仕切っている貴族は誰です?」
穏やかな問いだった。だが、その声音には、無視できない重みがあり、宰相は一瞬だけ視線を泳がせ、やがて淡々と答える。
「現在、王都の主要商会は三つ。北門の交易を押さえるのはエルヴァン伯爵家、中央市街の流通を管理しているのはレイノルド侯爵家、そして南部――港湾の権益を握っているのはマクシミリアン卿でございます」
宰相はわずかに間を置き、表情を引き締めた。
「いずれも古くから王家と繋がりのある家門ですが、戦時下の混乱に乗じて影響力を拡大しております。特に南部商会は、民への食糧供給を盾に、王室への協力を条件付きにしておりまして……」
レオンは軽く眉を動かした。
「つまり、“民を握っている”と」
「お言葉のとおりにございます」
レオンは小さく息を吐き、視線を宰相へと戻した。
「……ですが、南部商会を納得させるだけの資金は、もう流せないのでは?」
その穏やかな声音に、宰相の手が止まる。わずかな沈黙。やがて、彼は苦い笑みを浮かべた。
「殿下のご指摘、痛み入ります。確かに、王都の予備資金は北境への補給に回され、余剰はほとんど残っておりません。王妃陛下の私財を一部転用しておりますが、それも長くは続かぬ見込みです」
「つまり、民の安定は商会に握られ、商会の安定は、もはや王家の懐に依存している――そういう構図ですね」
宰相は深くうなずいた。
「はい。戦の影が長引くほど、その依存は強まる一方です。故に、いまこそ内部の均衡を保たねば、王都の秩序が揺らぎかねません」
レオンはしばし黙し、指先で円卓を一度軽く叩いた。
(……つまり、戦が続く限り、王都は“金”でしか動かない。ならば――その金を誰が回すか、か)
穏やかな顔のまま、レオンの思考はさらに先を見据えていた。
「宰相殿。北門の交易を押さえているのはエルヴァン伯爵家、中央市街の流通を管理しているのはレイノルド侯爵家――その二家との交渉の場を設けることは可能ですか?」
唐突な問いに、室内の空気がわずかに揺れた。宰相は驚いたように瞬きを一度だけし、すぐに表情を整える。
「……殿下が、直々に交渉の場をお持ちに?」
「ええ。彼らが何を考え、どこまでこの国の現状を理解しているのか――一度、直接確かめてみたい」
レオンの声音は穏やかだったが、そこに揺るぎはなかった。その時、無骨な鎧の音が微かに響く。グローヴァー卿が、わずかに体を前に乗り出したのだ。その表情には、抑えきれぬ警戒と興味が交じっている。
「……殿下が商会貴族と会われるとなれば、各派の均衡に動揺が走りましょうな」
「承知の上です」
レオンは短くそう返すと、視線を宰相に戻した。
「必要があれば、第一王子殿下にも文を送ります。こちらの動きを誤解されぬよう、報告という形で」
宰相は沈黙したまま、長く息を吐いた。
「……本来ならば軽々に設けられる場ではございません。ですが――殿下が王国の安定をお考えあってのことなら、手配いたしましょう」
レオンはわずかに頷いた。
「助かります」
静寂が円卓を包む。その中で、レオンの目だけが鋭く光を宿していた。
(まずは、話を聞く。戦場を知らぬ“商会の王たち”が、どんな顔をしてこの国を語るのか――)
宰相は深くうなずき、手元の資料を閉じた。
「殿下のお考え、よく理解いたしました。エルヴァン伯、レイノルド侯両家との交渉、こちらで段取りいたします」
そこまで言ってから、宰相はふと視線を細めた。
「――ただ、一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
レオンは小さく頷いた。
「何ですか」
「南部商会――マクシミリアン卿の一派についてでございます。王都の物流の半分を握る彼らを、今後どう扱われるおつもりでしょう?」
その言葉には、探るような響きがあった。レオンはすぐには答えず、わずかに顎に手を添えて考え込む。
「……難しい問題ですね」
静かな声が落ちる。
「彼らは民の生活を握っている。排除すれば混乱を招き、抱き込めば王家の威信が揺らぐ。どちらに傾いても、代償は大きいかと」
宰相は目を細めたまま、黙って聞いている。その沈黙を破るように、レオンが続けた。
「けれど――“交渉”の対象として見ている限り、まだ希望はあります。金で動く者は、理ではなく秤で動かせばいい。要は、その秤の片側に“恐れ”ではなく、“信”を載せられるかどうかです」
宰相の眉が、わずかに動いた。
「……“信”、と申されますか」
「ええ。この国の未来に、まだ投資する価値があると彼らに思わせること。それができれば、南部も動く」
室内の空気がわずかに沈む。宰相は腕を組み、長く息を吐いた。
「……興味深いお考えですな、レオン殿下」
「皮肉に聞こえますね」
「いえ、むしろ驚嘆しております。誰もが魔術や剣、金でしか語らぬこの時代に、“信”を口にされるとは――」
レオンは小さく微笑んだ。
「時代がどうあれ、人が動かすのは、結局、人ですから」
その穏やかな言葉の裏で、円卓の空気は静かに張りつめていった。宰相はゆっくりと姿勢を正し、静かに口を開いた。
「……殿下のお言葉、王妃陛下にもお伝えしてよろしいですか?」
その声音は柔らかかった。しかし、その一言が放たれた瞬間、室内の空気がわずかに変わった。
穏やかな表情の裏で、宰相の瞳には鋭い光が宿っていた。まるで、その問いそのものが“試し”であるかのように。
レオンは一瞬だけ視線を宰相に戻した。その目には動揺も怒りもない。ただ、静かに、冷たく澄んでいた。
「……勿論です。王妃陛下のお耳に入ることを、恐れる理由はありません」
そう答えながらも、胸の奥に冷たい波が静かに広がっていくのを感じていた。
(――やはり、すべては“そこ”に通じているか)
宰相は薄く微笑んだ。
「恐れ入ります、殿下。王妃陛下も、きっとお喜びになられることでしょう。……この国の未来を真に案じておられる方のお言葉ですから」
言葉の響きは柔らかい。だが、そこに潜む圧力は、まるで見えない刃のように鋭かった。レオンはその笑みを静かに受け止めながら、内心で冷ややかに息を整えた。
(――“喜ばれる”、ね。それは、“利用される”とも言えるだろう)
彼は表情を崩さず、ただ一言だけ返す。
「それなら、光栄です」
宰相の微笑がわずかに深くなった。一方で、レオンの胸の内には、目には見えぬ“王妃の影”が、ゆっくりと形を取り始めていた。宰相は時計台の音を一度だけ聞き取り、静かに口を開いた。
「……ひとまず、本日の会議はこのあたりでよろしいでしょう。殿下方もお疲れのことと思います」
それだけ告げると、椅子を引き、静かに立ち上がった。
誰も異を唱えなかった。宰相は深々と一礼し、足音をほとんど立てぬまま扉の向こうへと姿を消す。
残されたのは、レオンとアルヴィン――円卓の上には、まだ消えきらぬ緊張の余韻が漂っていた。
***
廊下に出た宰相は、歩みを緩め、深く息を吐いた。その顔に浮かんでいたのは、わずかな苦笑だった。
(……やはり、数年いなかったとはいえ、あの洞察力は侮れぬ)
記憶の中の少年――まだ王子としての自覚も曖昧だった頃のレオンを思い出す。理屈は立っていても、時に感情が先走り、己の意見を貫こうとして衝突した日々。
(確かに、あの頃の彼は鋭かったが……今のように“見透かす眼”ではなかったと記憶している)
宰相は歩きながら、ふと立ち止まる。背後の扉の向こうで、まだ兄弟が残っていることを思い出し、微かに唇の端を上げた。
(面白い。あの兄弟が今の王都でどう動くか――いずれにせよ、王妃陛下に報告せねばなるまい)
その思考を胸の奥に沈め、宰相は再び歩みを進めた。長い廊下を抜けるその足音が、王宮の静寂に溶けていった。
***
夜、王宮の奥。
重厚な扉の向こう、謁見の間には静かな燭光が揺れていた。昼間の喧騒は遠く、今はただ、香のかすかな匂いと時計の針の音だけが響いている。宰相は膝をつき、頭を垂れていた。
高座に座るのは、王妃――薄衣の上からでも威厳を隠せぬ姿で、静かに報告を待っていた。
「……つまり、レオン殿下は、商会との交渉に興味を示されたと」
王妃の声は、氷のように澄んでいた。宰相はうなずく。
「はい、王妃陛下。北門のエルヴァン伯、中央のレイノルド侯との会談を望まれました。更に南部商会――マクシミリアン卿についても、“排除ではなく交渉の余地を探る”とのお考えをお持ちのようです」
「……交渉、ね」
王妃はわずかに唇を動かした。その声音には、侮蔑とも愉悦ともつかぬ色が混じっていた。
「数年ぶりに戻った子が、ずいぶん立派に“王のような言葉”を使うようになったこと」
彼女はゆっくりと腰を上げ、玉座の横に置かれた窓辺へと歩み寄った。月光が薄いカーテン越しに流れ込み、白い肌を淡く照らす。
「……宰相、あなたはどう見るの?」
宰相は頭を下げたまま、静かに答える。
「殿下は理知的です。しかし、その冷静さが、やがて“障壁”となるやもしれません。民を見ておられる――それゆえに、王家の流儀からは逸れやすいお方でもあります」
「ふふ……やはり、あなたの目にもそう映るのね」
王妃の微笑は、夜気の中に溶けて消えた。
「けれど、それでいいのよ。王家にとって必要なのは、“駒”ではなく、“器”なのだから」
宰相は微かに顔を上げた。
「器……でございますか?」
王妃は振り返り、ゆるやかに首を傾げた。
「ええ。器はどんな色にも染まる。私の色でも、あなたの色でも。――ただし、もし誰かが“その器”を自分の意思で満たそうとするなら」
彼女は微笑んだ。それは美しく、同時に底知れぬ冷たさを湛えていた。
「……その時こそ、割れてしまうわね」
宰相は胸の奥に冷たいものが走るのを感じながら、深く頭を垂れた。
(――やはり、この方こそが、この国の中枢)
燭火が一度、ぱちりと鳴った。王妃は背を向け、再び月を見つめたまま静かに呟く。
「動かす駒は、一つでいいわ。――“北”が沈む前に、盤を整えてあげなさい」
「御意にございます」
宰相の声が、謁見の間に低く響いた。そして再び静寂が戻る。夜の王宮は、まるで眠っているかのように沈み返っていた。誰もいない広間に、月光だけが静かに流れ込んでいた。高窓から差す光が、王妃の銀糸のような髪を淡く照らしている。彼女は玉座の傍らに立ち、長い沈黙のあと、ゆっくりと息を吐いた。
「……前王妃の子」
その言葉を口にするたび、胸の奥に冷たい棘が刺さる。だがその棘を抜くことはもうしなかった。何年も前から、痛みもまた彼女の一部だったからだ。
「レオン……」
小さく呟く。その声には、愛情とも憎しみともつかぬ微妙な温度があった。
「あなたは前王妃の面影をそのままにしている。王の血を継ぎながら、私の血を引かずとも、私はあなたを“王家の子”として育てた。それが私の義務であり――罰でもあったのかもしれない」
王妃は視線を落とし、両手を胸の前で重ねる。指先が震えていた。
「不思議なものね。血の繋がらぬあなたを見守るうちに、私は本当の母のように感じていた。けれどその感情こそ、最も危ういのだと分かっていたのに」
窓の外で風が吹き、カーテンが揺れる。月光が一瞬翳り、王妃の表情も陰る。
「アルヴィンは私の子。この国に私の血を残す唯一の希望。あの子に王冠を戴かせること――それが、私のすべて」
わずかな沈黙の後、彼女は再び窓辺に視線を向けた。遠い月を見上げながら、ゆっくりと微笑む。
「けれど……もしも、第一王子やレオンが“王”に相応しい器を持っているなら。その時、私はどうするのかしら」
その問いに答える者はいない。ただ月だけが、静かに彼女を照らしていた。
「アルヴィンはまだ幼い。感情に流され、力で支配しようとする。けれど、レオンは違う。あの目は……まるで王そのもののように、すべてを見ている」
王妃は唇を噛み、苦笑を漏らした。
「前妃の子に、王の器を見てしまうなんて……皮肉ね。私が王の“妻”である限り、それを認めるわけにはいかないのに」
細く息を吐く。瞳の奥に、冷たくも脆い炎が灯っていた。
「――だからこそ、私は試す。アルヴィンが“血”の力で、第一王子やレオンが“理”の力で、どちらが真に王家を導くに値するのか」
月光が再び差し込み、玉座を白く照らした。王妃はゆっくりとその光に手をかざし、囁くように言葉を落とした。
「あなたたち三人が争わずに済む未来など、最初からこの王宮には存在しないのよ」
静寂が戻る。彼女の横顔は美しく、そして恐ろしいほど静かだった。
***
同刻、宰相が王妃に報告を入れていよう時刻。
夜更け。会談を終えた今夜は、用意されていた自室に戻る気力がなく、別室をあてがってもらった。
室内にはワインの香りが淡く漂っていた。レオンは半ば空になったグラスを揺らし、窓の外――満ちかけた月を眺めていた。
(……来るなら、今だろうな)
その瞬間、風がひとつ、逆に流れた。バルコニーのカーテンがふわりと舞い上がり、三つの影が、月光の中から音もなく現れた。黒衣の長衣に仮面。王宮の記録にその名を残さぬ組織――
《影の典礼オクルス》に名を連ねる三人である。
◆《影の典礼》上位階位 来訪者
第一席アダマス
男性。組織の実質的な指揮官格。
寡黙で、目的のために感情を切り捨てられる男。
王宮魔術機関の創設時から暗部を統べる存在。
七年前、レオンが王国を旅立った際、ある交渉事を交わした内の一人。
第四席セレナ
女性。情報と占術を司る参謀。
銀髪の理知的な女。
冷静沈着だが、かつて旅先でレオンと交わした言葉に、わずかな信頼と敬意を抱いている。
第七席リュミナ
若くして《典礼》に加わった実践担当。
陽気にも見えるが、内には強い忠誠と葛藤を秘める。
加入してまだ二年。今回の面会が、殿下との初対面。
「……ずいぶん早い接触だな」
レオンがグラスを置き、微かに笑った。アダマスはその声音に、皮肉を返すように低く言う。
「これでも、接触は遅らせたつもりだ」
その一言に、セレナとリュミナの間に、目に見えぬ空気が走った。――この二人には、互いにしか分からない“何か”がある。レオンは立ち上がり、カーテンの向こうの三人を手で招き入れた。
「どうぞ。王宮の風は、幾分か冷たいので」
三人は足音も立てず室内へ入る。その一挙手一投足が、長い訓練と静寂の年月を物語っていた。
「まず紹介を」
アダマスが一歩前に出て、背後の若い女を軽く示した。
「第七席、リュミナ。二年前に《典礼》に加わり、主に実践部門を担っている」
「はじめまして、殿下」
リュミナが深く頭を下げる。
「このような夜分に失礼いたします。お噂はずっと耳にしておりました」
「噂、ね」
レオンは笑みをこぼす。
「王都ではろくでもない噂しか残っていないだろう」
「それでも――」
リュミナは短く言葉を飲み込んだ。その仕草に、セレナが横目で静かに視線をやった。
アダマスは無駄な間を作らず、椅子の前に立つ。
「挨拶はこのくらいでいい。本題に入る」
レオンはグラスを回しながら、軽く頷いた。
「聞かせてもらおうか。こうして接触してきたのは、訳あってのことだろう?」
アダマスが手元の封書を机に置く。封蝋には、王宮魔術機関の紋章が刻まれていた。
「まずは報告だ。王都の魔力流が不自然に乱れている。《典礼》の観測では、導石の供給線が一部“内側”から上書きされている」
「内側から?」
レオンの声が低くなる。セレナが代わって言葉を継いだ。
「南区の結界層に周期的な歪みが生じています。外部干渉ではなく、配分命令そのものが書き換えられている。つまり、王宮の中に“手を入れている者”がいる」
「それは……誰だと?」
アダマスが即座に答える。
「まだ断定できない。しかし、我々は“均衡を保つ側”として、見過ごすわけにはいかない」
沈黙が流れた。ランプの灯が揺れ、グラスの中のワインが赤く光る。
「殿下に直接報告に上がったのは、もう一つ理由があります」
セレナが穏やかに言う。
「アダマス様の意向です。――“約束”を忘れぬうちにと」
レオンはその言葉に、小さく笑った。
「……あれから七年、か」
アダマスは微動だにせず、ただ視線だけをレオンへ向ける。その無言の圧力は、静かにして鋭い。
「安心しろ」
レオンが口を開いた。
「七年前の約束は、守る。それに、王都で起きていることに――俺が干渉するつもりもない」
アダマスはゆっくりと頷いた。
「それを聞ければ十分だ」
セレナが一歩下がり、リュミナもそれに倣う。
「殿下。いずれ“流れ”が動く時、我々はまた報せに参ります」
レオンは軽く手を振った。
「その時はワインをもう一本持ってきてくれ」
リュミナが思わず小さく笑い、アダマスの視線に慌てて口元を押さえた。
「……了解しました、殿下」
三人の影が再び月光の中へと溶けていく。最後に、セレナだけが一度だけ振り返った。
「七年前の夜と同じ月です。けれど、この国の“光”は少し変わりましたね」
扉が閉じられ、静寂が戻る。レオンはグラスを手に取り、残った赤を一口。
「……変わったのは、俺の方かもしれんな」
バルコニーに吹き込む風が、机の上のチェスのナイトを転がした。
その駒が止まった先には――王都を囲む、三つの印。
―― 王宮西棟・外回廊 ――
夜気は冷たく、石造りの廊下には月光が斜めに落ちていた。セレナとリュミナは、しばらく無言のまま歩いていた。
後ろを振り返れば、さっきの部屋の灯りだけが残っている。
リュミナが口を開いた。
「……あの方、本当に“何も驚かない”んですね」
セレナは横顔を向けず、静かに答える。
「殿下は常に“先を見ている”の。驚くより先に、もう結論を出してしまう人」
「七年前の約束って……」
「聞かない方がいいわ。《典礼》の中でも、あの件は一席と殿下、その場にいた数名しか知らないし、私も知らないの」
リュミナは唇を噛んだ。
「……正直、少し怖いです。笑っていらっしゃるのに、目だけがまったく笑っていなくて」
セレナが足を止め、振り返る。月明かりが銀髪を白く照らした。
「リュミナ。“均衡”を見守る者は、いつか“中心”の風に触れる。それは温かい風じゃない。――だからこそ、殿下は“距離”を保つの」
リュミナは小さく頷いた。その瞳に、尊敬と戸惑いが混ざる。
「……殿下は、本当に私たちの味方なんでしょうか」
「味方ではなく、“観察者”よ」
セレナは歩き出す。
「でも――その眼が見ている限り、この国はまだ沈まない」
二人の足音が遠ざかり、王宮の回廊には、夜の静寂だけが残った。
―― 同時刻・《影の典礼》本部 “沈黙の円環” ――
地上よりさらに深く。灯火すら届かぬ闇の底で、円環の間は静まり返っていた。
中央の石盤に、魔法陣が淡く浮かぶ。一足先に帰ったアダマスはその中心に立ち、掌を掲げた。
「……第一階層・通信封鎖、解除。第四監視班、報告を上げろ」
声に応じ、淡い光の霧が形を取り、報告官の影が立ち現れる。
『王都南区、導石流量の変化を確認。宰相府の印章コードによる命令が複数検出されました。すべて、魔術庁の公式記録には存在しません』
アダマスの眉が僅かに動いた。
「……やはり、内側か」
『どうされますか? 殿下は静観の構えを――』
「干渉は不要だ。ただし、流れを“読む”ための目は増やせ」
『増員の指示、承ります。標的は?』
「王宮の宰相。そして、王妃陛下。両名の動向を《影写》で追跡。情報は表層報告のみでいい。――真実は俺が見る」
報告の影が消え、再び静寂。アダマスはわずかに目を閉じ、独り言のように呟いた。
「殿下。七年前、あなたが望んだ“見守る立場”――……その覚悟が、再び試されようとしている」
天井の魔紋が淡く輝き、闇の底に小さな光が灯った。それはまるで、月明かりが地中に降りたかのようだった。




