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episode 1 ルーベンス村


第一章 ルーベンス村

大陸暦一〇二三年・芽吹き月(春)。


南部の辺境──風と緑に囲まれた小さな村、ルーベンス村王都から遠く離れ、地図にすら正確な位置が記されていないこの地に、かつて王宮にその名を連ねた一人の男が姿を隠すように暮らしていた。


レオン=イグレイン


その名はもう、ここでは使われていない。代わりに村人たちは親しみを込めてこう呼ぶ。「館の旦那様」と。

灰銀色の髪と穏やかな瞳を持つ男は、村の外れにある小さな館に住み、作物の収穫を手伝い、時に病を診て、時に子どもたちの読み書きを教える。その姿に、かつての王都の喧騒や、剣と陰謀が交差した日々を想像する者など、この村にはいない。


――旅をしていたのは、もう七年も前になる。


継承権を辞し、都を離れて四年。この村に根を下ろして三年。本当は今年で“静かなる四年目”を迎えるはずだった。

春を告げる風が、若葉を揺らす。大地に根を張る農家たちの笑い声が、どこか懐かしく、遠い夢のように聞こえる。


「旦那様、おはようございます!」


畑仕事帰りの少年が、手を振ってくる。レオンは微笑みを返し、そっと館の門を開いた。

ここでは、彼はただの一人の「領主」であり、「村人」であり、そして「誰でもない者」だった。

それが、どれほど平穏で、どれほど贅沢な日々だったのか。彼自身すら、まだ気づいていなかった。


――しかし、それは長くは続かない。

風が変わろうとしていた。過去が、再び“彼の名”を呼ぼうとしていた。



朝。館の広間に差し込む陽光の中で、クラリスは帳簿を広げていた。彼女は元貴族令嬢らしく整った所作で羽根ペンを走らせ、村の収穫や備蓄の数字を確認している。


「レオン様。薪の残りが少なくなってきました。次の市場で買い足すべきかと」


「わかった。だが買い過ぎや畑の木を切りすぎないようにな」


クラリスは頷き、整った微笑を浮かべた。理知的な彼女は、村の生活を支える頭脳でもあった。


厨房ではリリアが竈に火を入れている。元孤児の彼女は働き者で、毎朝欠かさずパンを焼き、スープを煮ていた。火の粉を浴びても気にせず、鼻歌まじりで鍋をかき混ぜる。


「今日は畑の人参と豆で煮込みにしますね!」


その声は明るく、館の空気を柔らかくしていた。


庭ではソフィアが黙々と剣を振るっている。彼女は元暗殺者であり、警護役でもある。鋭い眼光と静かな呼吸は、まるで影そのもののようだった。


「ソフィア、そんなに毎朝剣を振って疲れないのか?」


「……習慣だ」


短い返事にレオンは苦笑する。だがその姿は、彼にとって心強いものでもあった。


館の礼拝室の片隅では、マリアンヌが小さな祭壇に祈りを捧げていた。元修道女の彼女は、時に相談役となり、時に皆の心を癒す。


「今日も一日、平穏でありますように」


静かな声が館に満ちるたび、不思議と空気が澄んでいく。


昼下がり。裏庭ではエレナが笛を吹き、村の子供たちがその周りを駆け回っていた。彼女は元楽団員であり、明るい性格で子供好きでもあった。


「もう少し優しく息を流して――そう、そうよ!」


音色は柔らかく、笑い声と混ざって村に広がっていく。


そして最年少のティナは、木登りをしてクラリスに叱られていた。


「ティナ! また危ないことを!」


「えへへ……落ちなかったから大丈夫!」


その愛嬌と無邪気さは、館の空気を和ませる潤滑油のような存在だった。


そんな彼女たちを見守りながら、レオンは静かに息をついた。


「こうして過ごす日々は……悪くない。」と思うようになっていた。


戦場を離れ、権力を捨て、ただ人として暮らす。それが彼の選んだ道だった。


しかし――。


その穏やかな日常を破るように、村の高台部分から来訪者を告げる鐘が鳴り。慌てて駆け込んできた少年が声を張り上げた。


「旦那様! 王都からの馬車が!」


館の空気が一瞬で張り詰めた。クラリスは帳簿から顔を上げ、リリアは鍋を止め、ソフィアは剣を抜いた。外にいるエレナの笛が途切れ、マリアンヌの祈りの声が止む。ティナでさえ、はしゃぎをやめて固まっている。

レオンは窓辺に歩み寄り、遠くに見える馬車をじっと見据えた。


「……やはり、過去は追ってくるものか」


平穏を願った青年と六人のメイドの物語は、ここから大きく動き出そうとしていた。



レオンは館の正面扉を開放し馬車が到着するまで待つ。


村の入り口で馬車は止まる事なく、やがて石畳を叩く蹄の音が近づき、館の門前に黒塗りの馬車が止まった。二頭立ての馬はよく鍛えられ、装飾も質実剛健。車体の側面には――黄金の獅子と緋色の盾。アレストリア王国の王都カヴァレインを象徴する紋章が誇らしげに刻まれていた。


「王都の紋章……まさか」


クラリスが息を呑む。御者台から降り立ったのは、王宮付きの制服を纏った壮年の騎士。緋色の外套には銀の留め具、腰には礼装用の剣。一目でただの使者ではないことがわかる。


「第三王子、レオン=イグレイン殿であらせられるな」


「……今はただの村の館の主だし、元をつけてくれないと困るんだがな」


そんな事はお構いなしに騎士は膝をつき、厳かな声で告げる。


「王命により、お迎えに参上いたしました」


そう告げられた瞬間、館の空気がさらに重くなる。リリアが鍋を握る手を止め、ソフィアは無言で剣の柄に触れた。マリアンヌは胸に手を当てて祈りを捧げ、エレナは笛を抱えたまま固まる。みんなが作業を中断し、玄関に集まった中で、ティナだけが、まだ事態を飲み込めずにレオンの袖を掴んでいる。


「王命だと?」


レオンの声は低く、硬い。騎士は頷き、巻物を広げる。王都の封蝋が施された羊皮紙。その赤い封印は、確かに王家のものだった。


「国王陛下の容体が悪化され、王位継承をめぐり宮廷は揺れております。陛下の御意志により、あなた様を助言役として王都へお迎えしたい――これが正式な召集命令にございます」


重苦しい沈黙が広間を支配した。七年前に捨てたはずの王族としての立場。それが今になって再び、彼を引き戻そうとしている。レオンは巻物を見下ろし、低く息を吐いた。


「……逃げ切れるものではないか」


クラリスが一歩前に出る。


「レオン様。どうなさるおつもりですか?」


その問いに答える前に、レオンは村を見た。遠くで芽吹く若葉。村人たちの笑い声。そして背後には、共に生きてきた六人のメイドたち。選ばねばならない。


王都に戻るのか、それとも……。


――青年と六人のメイドの物語は、いま大きな岐路を迎えようとしていた。



数刻の沈黙の後、レオンは使者をまっすぐに見据えた。


「王命である以上、従わぬ理由はない。……だが、即座に出立はできぬ」


使者が眉をひそめる。


「どういう意味でございますか?」


「ここには私だけでなく、共に生きる者たちがいる。村のことも、館のことも、整えずには去れない。数日――準備の猶予をいただきたい」


クラリスが小さく頷き、リリアも安堵の息を漏らした。ソフィアの手はまだ剣にかかっていたが、その目には迷いが揺れている。他のメイドたちも、それぞれ複雑な表情でレオンを見守っていた。使者はしばし考え込み、やがて恭しく頭を垂れた。


「……承知いたしました。三日後、再び迎えに参ります」


蹄の音が遠ざかり、土煙が消えていく。館の広間には重苦しい沈黙が残った。

レオンは仲間たちを振り返り、静かに言葉を落とす。


「……準備を始めよう。七年前に背を向けた王都へ、もう一度向かうために」


その言葉は、六人の胸にそれぞれ異なる響きを残した。――こうして彼らの日常は終わりを告げ、次なる物語が動き出す。



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