第1話 「責任、とってよね」
『退学届』
そんな不穏な言葉が仰々しく刻まれた封筒らしき物を手にしている女子生徒の姿が僕の目に飛び込んできた。
あんな時代遅れの果し状みたいな雰囲気を纏った退学届は今日日見たことがない。
しかし、目を疑うほど堂々と握りしめられたそれは間違いなく退学届だった。
高校に入学して最初の期末テストで成績が悪かったせいで放課後に補習を受けていた僕は、補修が終わってから屋上に行き、寝転がって十分ほど空を見上げていた。
そんな穏やかな日常の中に、突然目に入ってきた穏やかでは無い光景。
あまりにも衝撃的な光景に、僕の口は無意識に開いていた。
「佐倉川さん」
彼女の名前は佐倉川唯花。
僕とは全く関わりがないが、佐倉川さんの評判はよく耳に入ってくる。
入学してから二度行われたテストの学年順位はどちらも一位で、部活には入っていないものの運動神経が良く様々な部活の助っ人をしており、性格は外交的で誰とでも分け隔てなくコミュニケーションを取ることができる。
要するに、佐倉川さんはなんでもできる完璧な人間だった。
そんな中で特筆すべきはその得も言われぬ容姿だ。
成績優秀で運動神経抜群、性格良好というだけなら、そこまでチヤホヤされることはないかもしれないが、その得も言われぬ容姿こそが、佐倉川さんを一躍有名にしている所以だった。
佐倉川さんとすれ違えば、男子は誰しもが目を奪われ佐倉川さんの行方を目で追ってしまうし、なんなら男子だけではなく、女子の視線さえも奪ってしまう。
佐倉川さんは規格外の美少女なのだ。
そんな佐倉川さんが、退学届なんて不穏な物を持ち歩いているとなれば、一度も関わったことがない僕でさえ声をかけるのは避けられなかった。
「……君は確か……四季屋彩理君?」
……驚いたな。
まさか佐倉川さんが無能で陰キャの僕の名前を記憶しているなんて。
同じクラスとはいえ、まだこの学校に入学してから三ヶ月も経過していないし、佐倉川さんとは対照的に何をやっても上手くいかない無能で、クラスの中で一番目立たない僕の名前を覚えているとは思っていなかった。
そういうところが、佐倉川さんに人が集まる所以なのだろう。
「えーっと、訊いていいのかどうかわかんないけど、何でそんな物持ってるんだ?」
「……学校、やめようと思って」
それは流石に分かるわ、と思ったが、そう口にはせず退学しようとしている理由を訊いた。
「何でやめようと思ってるのかって訊いてもいいか?」
「……疲れたの。人に合わせるのが。本当は楽しくないときもみんなが楽しそうなら楽しそうにしないといけないし、自分は違うと思っていることも、自分がいるコミュニティに正しいと思う人がいたら正しいって言わなきゃいけない。そういうのに疲れちゃって」
そう話す佐倉川さんは哀愁を漂わせており、本気で退学をしようとしていることを理解してしまった。
完璧な人間で人気者の佐倉川さんにも、佐倉川さんなりの悩みがあるんだな。
取り繕ったような笑顔や目の下にある大きなクマ、覇気のない声から佐倉川さんがどれだけ真剣に悩み苦労をしているのか計り知ることができたが、僕は思ってしまった。
(--それ学校を辞めるほどの理由か?)
佐倉川さんのような悩みを抱えている人間は、世界中を探せば数えきれないほどいる。
しかし、それが原因で退学する人間の話なんて聞いたことがない。
成績が悪かったり、悪事を働いたり、いじめに耐えきれなくなり退学していく生徒の話は聞いたことがあるが、いじめにも発展していない--むしろ人間関係には恵まれているはずの状況で、退学しようと考える人間なんて過去に存在するのだろうか。
「……わかる。面倒臭いよな。そういうの。まさかあの佐倉川さんがそんな悩みを抱えてるなんて思ってなかった」
「そうでしょ? でも私に対するそういう評価こそが、私を苦しめて、私が退学しようと思った原因の一つなのよ」
…………もしかすると、僕は今言ってはいけないことを言ってしまったのかもしれない。
退学に対してまだ一パーセント程度は踏ん切りがついていない状態の佐倉川さんに、退学を決意させてしまう最後の一言を放ってしまったような気がした。
ここで僕が佐倉川さんを引き止めなければ、佐倉川さんはこのまま退学してしまう。
あの退学届を先生に提出して、明日から学校に来なくなってしまう。
別に僕には佐倉川さんを引き留める義理も理由も無いが、僕の放った言葉が佐倉川さんに退学を決意させる最後の一押しになってしまったのだとしたら、それだけで僕が佐倉川さんを引き留める理由にはなる。
それだけではない。
佐倉川さんを引き留める義理も理由もないけれど、なぜか僕は今、この場で、絶対に、佐倉川さんを引き留めなければならないと思った。
「……踏みとどまったらどうだ? 人間関係なんて気持ち次第でなんとでもなるだろ」
「……四季屋君、今もしかして私が退学するのを止めようとしてる?」
「……ああ」
「私の大変さもろくに理解しないで?」
自分でも、今の引き止め方が正解だとは思っていない。
今の発言のせいで、引き留めるどころか逆に退学をしたいと思わせてしまったような気さえする。
しかし、どれだけ今の発言を後悔したところで、無能の僕に佐倉川さんの退学をやめさせるだけの上手い言葉が思いつくはずはないのだから、どれだけ下手くそでも、拙くても、正解じゃなくても、引き留めようとしている気持ちを佐倉川さんに伝えるのが先決だと思った。
「……ああ。君の大変さを推し量ることはできない。でも、佐倉川さんみたいな人間に学校を辞めさせるわけにはいかないと思って」
「四季屋君みたいに、影が薄くて、友達も少なくて、人間関係に苦労してない人に、気持ち次第でなんとかなるだなんて言われたくない。そんなんだから友達ができないんじゃない?」
「--っ」
佐倉川さんから放たれた佐倉川さんのイメージとはかけ離れた言葉に、僕は面食らってしまった。
佐倉川さんでも人を貶すような発言をすることがあるのか。
いや、というか周囲が勝手に佐倉川さんのことを神格化しているだけで、今のが本当の佐倉川さんなのかもしれない。
先程の、『私に対するそういう評価こそが、私を苦しめて、私が退学しようと思った原因の一つなのよ』という発言から察するに、佐倉川さんは本当の自分を隠して生活するのに苦労し、疲弊し、嫌気がさしていたと推測できる。
しかし、本気で退学をすると決めた佐倉川さんはもう本性を隠す必要が無く、本性を剥き出しにして僕を罵倒してきたというところか。
--それにしたって、今の発言はあまりにも失礼なのではないだろうか。
佐倉川さんの言うとおり、確かに僕は人間関係には苦労していない。
でもそれは、苦労したくないから誰とも関わらないことを選択した結果であって、人間関係に苦労せずに済んでいるのは僕自身の功績なのだ。
それに、僕にだって人間関係以外の部分で苦労していることは数えきれないほどあるわけで--。
流石に今の発言には腹が立ちそうになったが、今は堪えるしかない。
佐倉川さんを引き留めると決めたのは僕自身なのだから。
「……そうかもしれないな」
「まあでも四季屋君みたいに、友達がいない人の方が気楽に生きられて良いのかもね。私も四季屋君みたいになりたかったわ」
……何様なんだこいつ。話せば話すほど、普段の佐倉川さんのイメージとはかけ離れた佐倉川さんの姿を目にしてしまう。
とにかく、今は耐えろ、耐えるんだ僕。
「……」
「ちょっとキツく言われたからってもう何も言えないわけ? その程度の覚悟で私を引き止めようだなんて、失礼だと思わなかったの?」
「……」
「何もできないくせに自分に私の退学を辞めさせるだけの力量があるとでも思ったわけ?」
「……」
「どうせ私を引き止めたら私と良い感じになれるとでも思ったんでしょうけど、そんな下心見え見えで近づいてこられたって私は--」
「--調子に乗んなよこの貧乳野郎が!」
「----ひっ、貧乳!?」
僕が声を荒らげることなんて、これまでの人生で一度も無かった。
何を言われても耐えられる性分だし、人間というのは陰口こそたたけどその陰口を面と向かって言葉にする生き物ではなく、佐倉川さんのように僕を目の前にして口汚く罵ってきた人間に出会ったのは初めてだから。
それでも、なんとか佐倉川さんを退学させないようにと我慢していた僕だったが、もう我慢の限界だった。
元も子もないことを言うが、僕に佐倉川さんの退学を引き止める理由なんて無い。
このままでは僕が放った言葉が最後の一押しとなって佐倉川さんが退学してしまうと考えていたが、それが何だって言うんだ。
元々退学するつもりだった佐倉川さんがこのまま退学してしまったところで、それは僕のせいではなく佐倉川さん自身が決めたことなので気に病む必要は無い。
そう考えた僕の口からは、佐倉川さんと同じように遠慮の無い言葉が溢れ出した。
「そんな性悪だからいつまで経っても貧乳なんだよ!」
「--なっ!? それとこれとは関係ないでしょ!?」
「いーやあるね、性悪女に神様が豊満で柔らかな胸を与えるわけがないんだからな!」
「最っ低! もう絶対退学してやるんだから!」
「ああ構わないね。佐倉川さんが退学しようがしまいが僕の知ったこっちゃないからな。----でも本当にそれで良いのかよ!」
このまま佐倉川さんに退学されたって構わない。
そのはずなのに、僕はまだ、佐倉川さんを引き留めようとしていた。
「なっ、何よ、まだ引き留める気?」
「君にないのは胸だけじゃないか……胸以外ならなんでもあるじゃないか! 僕を見ろよ! 僕には何もないんだぞ!? 勉強もできない、運動もできない、人望も無い----。何もない僕からしてみれば胸以外なんでも持ってる君が羨ましくてたまらないんだ! そんな人間が簡単に退学するなんて言うなよ! 僕みたいな無能で何もできない人間でも必死に学校に来てるんだぞ!? いいのか!? 僕みたいな無能に負けても!!」
きっと僕は佐倉川さんを引き留めたいと思ったわけではない。
ここで引き留めなければ僕の負けのような気がしただけだ。
僕が放った遠慮の無い言葉の数々に、佐倉川さんはしばらく言葉を詰まらせてから話し始めた。
「……胸が無いわけじゃない。小さいだけ」
「……は?」
「だから、胸が無いわけじゃない。小さくったって、ちゃんと立派な胸があるんだから。訂正しなさい」
小さい胸を立派とは呼ばないような気がするんだが……。
そんな思いを言葉にしそうになるが、頭が冷え我に帰った僕は流石に酷い発言だったと謝罪をした。
「……ごめん。ちょっと熱くなった。君は胸がないわけじゃない。ただ小さいだけだ」
ちゃんと訂正したはずなのになんかめっちゃ煽ってる感じになってないかこれ?
佐倉川さんの要望通りの言葉を返したはずだが、佐倉川さんはこんな失礼な言葉で満足してくれるのだろうか。
「……そこまでいうなら責任取りなさいよ」
「…………へ? 責任?」
これまで興奮していたはずの佐倉川さんは、一変して冷静な様子で話し始めた。
「退学、やめてやるわよ。その代わり--」
そして、佐倉川さんはまっすぐ僕の瞳を見つめた。
「--責任、とってよね」
僕の耳元でそう言葉を残し、佐倉川さんは踵を返して走り始めた。
「ちょっ、佐倉川さん!?」
佐倉川さんを引き留めようとしたものの、佐倉川さんは僕の呼びかけを無視してそのまま走り去ってしまった。
「責任とるってどういうことだよ……」
取り残された僕は、力の無い声でそう呟くことしかできず、しばらくその場から動くことができなかった。
このときの僕はまだ知らない。
まさか陰キャの僕が退学しようとしていたS級美少女の心の拠り所になるなんて----。
◆◇
「--うぉっと!?」
佐倉川さんが退学するのをなんとか踏みとどまらせた翌日、学校からの帰り道に曲がり角から飛び出してきた何者かに突然腕を掴まれた。
「なっ、なんだよ突然っ--って……佐倉川さん!? 何でこんなところに!?」
「昨日言ったでしょ。ちゃんと"責任"、とってもらうから」
昨日の発言は軽い冗談で、このまま佐倉川さんと関わることはなく何事もなかったかのように時間が過ぎていくのではないか、でも責任をとれと発言したからには何かしら行動をとってくるのではないか--。
そんなことを考え佐倉川さんのことが頭から離れなかった僕だが、佐倉川さんは大して気にも止めていないのだろうと、そう思っていた。
--しかし、それは間違いだった。
彼女は、佐倉川さんは昨日のあの瞬間のことを僕以上に考え、そしてどう責任をとらせるか、本気で考えていたのだ。