チンアナゴの巣穴
将来に迷う係長・岩井は、巣穴から動かないチンアナゴのような課長・大松に不満を抱いていた。
だが、取引先トラブルで落ち込む岩井のために、大松は静かに巣穴を出て動き出す。
見えなかった努力と責任感に触れ、岩井の大松への見方は変わった。
いつか大松のように巣穴にどっしりと立つ存在になりたいと思うようになるというお話を書きました。
岩井は、自分の働き方に迷いを感じ始めていた。
係長という立場で事業推進を任され、責任ある業務をいくつも抱えてはいたが、どこか充実感に欠けていた。
仕事は真面目に取り組んでいる。誰よりも早く出社し、夜遅くまで残って資料を整える。けれど、そこにあるのは達成感ではなく、漠然とした不安だった。
そんな彼の視界の隅に、いつもぼんやり映っていたのが課長の大松だった。
何を考えているのかよく分からない。会議でも大して発言せず、現場にもほとんど顔を出さない。ただ椅子に座って、じっと周囲を見ているだけ。
まるで水槽の中で、揺れながら突っ立っているだけのチンアナゴのようだ、と岩井は内心で揶揄していた。
「……俺もいずれ、ああなるのか?」
そんな思いが頭をよぎるたびに、転職サイトを開いてみたり、キャリア相談の予約を取ってはキャンセルしたりする日々が続いた。
ある日、岩井の部下が大きな発注ミスを起こした。
取引先への納品が大幅に遅れ、相手は激怒。次の取引を打ち切る可能性すら口にした。
岩井は責任を感じ、部下を連れて謝罪に向かった。心から頭を下げ、再発防止を約束したが、担当者の表情は固いままだった。
会社に戻った岩井は、自席で黙り込んだ。深く落ち込み、自分の管理能力にすら疑問を抱き始めていた。
そのときだった。
静かに立ち上がる音がして、顔を上げると、大松が上着を手にしていた。
「……行ってくるわ」
そうだけ言い残して、大松は部屋を出て行った。
数時間後、大松は何事もなかったように戻ってきた。
手には数枚のメモ用紙があり、そのまま岩井の席に来て、淡々と話し出した。
「話してきた。担当者、まだ怒ってたけどな、なんとか話は続けてもらえるって。これ、再発防止案のたたき台。仕上げは任せた」
岩井は思わず立ち上がりかけたが、言葉が出てこなかった。
いつも静かに席に座り、何もしないように見えていた大松が、ちゃんと動いていた。誰にも見せていなかっただけで、自分なりに責任を取っていたのだ。
「……ありがとうございます」
小さな声でそう言ったとき、自分の中で何かが少し動いた気がした。
その日を境に、岩井と大松の距離はほんの少しだけ縮まった。
業務の相談をしながら、ふとした拍子に大松が語り始めたことがある。
「俺もな、昔はキャリアのことばっかり考えて焦ってたよ。何が正解かも分からなくてな。……でも、いつの間にか、ここが自分の居場所だって思えるようになったんだ」
そう言って、大松は手にしていたコーヒーをすすった。
岩井には、まだそう思える場所はない。
けれど、焦らなくてもいいのかもしれない。
大松のように、自分の立ち位置に静かに身を置きながら、必要なときにしっかり動ける人間に。
いつか自分も、あの水槽の中にどっしりと立つチンアナゴのようになりたい。
そんなふうに、初めて思った。