8.香狐と呪香師の娘
(しまった!)
マホロは背後に馨花を庇いながら、全身の毛を逆立てた。庭には、刀や弓矢を構える男達が大挙している。
(普段なら囲まれる前に気が付けるのに)
マホロは牙を剥きだして内心で毒づいた。馨花を助けるために食べた妖芥子の香りのせいで、また嗅覚が馬鹿になっているらしい。
刀身が西日を跳ね返し、こちらを威嚇するようにチラチラと光り瞬く。濡れ縁に倒れていた弓削は、いつの間に救出されたのか、庭の真ん中で男に支えられていた。妖芥子の影響は受けていないはずなのに卒倒したままだ。
「ま、マホロ……」
背後の馨花が不安そうな声を出す。マホロは油断なく男達に目を走らせながら、馨花の方に身を寄せた。
「馨花、乗れ」
マホロがわずかに身をかがめると、馨花は素早く背に乗った。ギュッと首に腕が回される。
「マホロ、ここを突っ切るつもり?」
「あぁ、だから手を離すなよ」
マホロは低姿勢のまま、ジリジリと戸口に近づいた。
庭には武装した男が数十人はいる。霊香を焚いていた香炉はすべてひっくり返したはずだが、まだ周囲に霊香の香りの影響が残っているのか、男達の視線はバッチリこちらを捉えているようだ。
そいつらと正面切って戦うよりも、隙を突いて逃げる方が賢い選択と言えるだろう。
斜陽に目を眇め、いつでも飛び出せるように全身に力を入れ、浅く呼吸を繰り返す。
キリキリ、と弓が引き絞られる音を捉えたその時、辺りの空気が一変した。
生暖かい風が上空から流れ込み、囁き声のさざ波が地上に降り注いで 男達の意識がこちらから逸れた。
(今だ!)
マホロはダッと戸口から外に出て、飛び上がろうと空を見上げ、固まった。
「嘘だろ……」
マホロのつぶやきは、男達の絶叫にかき消された。男達は、外に出てきたマホロ達に目もくれず、上空を見上げて逃げ惑っている。
「な……なんだあれは!」
「ひぃぃぃ!」
得物を取り落とし、腰を抜かして地面に這いつくばっている者もいる。
「どうしたの?」
背中でつぶやいた馨花が、ギクリとしたように身体を揺らして動かなくなった。おそらく、マホロと同じように空を見上げているのだろう。
黒く大きな雲が、空の奥の方から徐々にこちらに近づいているのが見えた。
マホロはいつでも飛び上がれるように前足に力を入れたまま、目を細めてその雲を見た。雲は輪郭をゆらゆらと変え、大きくなったり細くなったりしている。どう見てもただの雲ではない。しかも、それが近づくにつれてザワザワと耳障りで不快な音も大きくなっていた。
(まさか……)
その姿が徐々にはっきりと見えてきて、マホロは戦慄した。もう見間違いようがない。頭上に到達した雲は、雲ではなく、幾千ものアヤカシの群れだった。アヤカシ山のアヤカシをすべて集めたような百鬼夜行で、それを率いているのは、あの白蛇、もとい白竜だ。
「うわぁぁぁぁっ‼」
突如上がった悲鳴に振り返ってみると、いつの間にか意識を取り戻したらしい弓削が空を見上げて絶叫していた。傍で弓削を支えていた男はすでに逃げ出したらしく姿が見えない。
「五月蠅いなぁ。仮にも陰陽師なんだから、アヤカシ見たぐらいで騒がないでよ。みっともない」
艶のある声が響いたかと思うと、上空の白竜の背から何かが飛び降り、音もなくマホロの目の前に降り立った。その瞬間、霊力の強い桃の香りが押し寄せる。
マホロは後ろ足を一歩引いて、目の前に立った人物を見つめた。
五芒星の模様を織りだした真っ白な狩衣姿は、大人の陰陽師顔負けだが、それにしては華奢な体格で、少年のような風貌だ。常人では有り得ない薄い桃色の髪は、烏帽子の下からはみ出して、ふわふわと左右に飛び跳ねている。
甘ったれた色を滲ませる大きな瞳が、マホロを通り過ぎ、背中に乗る馨花に向けられる。
「もしかして、安部家の……?」
背中で馨花が驚いたようにつぶやく。桃色の髪の少年は嬉しそうに微笑んだ。
「あ、僕のこと知ってるの? 僕、安部晴親。現、安部家の当主だよ~」
呑気にひらひらと手を振る安部を見て、マホロはさらに後退した。
(こいつ、油断ならない……!)
安部家の当主は弓削と同い年だと聞いていたが、見た目はかなり年下に見える。霊力の高い人間にしばしば見られる変異体質というものなのだろう。安部の桃色の髪も霊力がそうさせているのだろうと思われた。
安部は、警戒するマホロを見て楽しそうに声を上げた。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ! 僕の獲物はそいつだから」
細い指で示すのは、マホロ達の後ろで腰を抜かしている弓削だ。指さされた弓削は、池の鯉のように口をパクパクさせて地面に這いつくばっている。
その狼狽ぶりを見て、安部はますます楽しそうに笑った。
「まったく君も馬鹿だよね。この僕が、縄張りを侵されて黙っているとでも思ったの?」
「な、なんのことだ! おぉぉ俺はしらな――」
「アヤカシ山に無断で入ったでしょ?」
冷ややかな声が弓削の震える声を遮った。安部はマホロの横をゆったりと通り過ぎ、弓削に近寄った。
「君のことを見張らせてたんだよ。君は気が付いてなかったみたいだけど」
弓削の目の前で安部がスッと右手を挙げると、上空で留まっていた白竜が頭をもたげ、倒れ込むように落ちてきた。
「っ!」
馨花が身をすくめるように背中にしがみついてくる。マホロも身を低くした。
「ひ、ひやぁぁあああああっ⁉」
弓削がかすれた情けない悲鳴を上げた。白竜の頭が庭に突っ込むかと思った時、白竜はポンッと軽い音と共に煙を上げると、白蛇の姿に変身した。そして安部の右手にシュルシュルと絡みつく。
その姿にマホロはハッとした。白蛇を半眼で見る。
「お前、安部の式神だったのか!」
これで合点がいった。白蛇がいる時に時々感じた気になる甘い香りは、安部の魂の香りの移り香だったのだ。
「その言い方は好かないけどね」
白蛇は赤い舌をチラチラ出した。
弓削は死にかけた鯉のように口をパクパクしている。
「な、なんで……俺を監視……目を付けられるようなことは……」
「はぁ? 馬鹿じゃないの?」
安部はあえぎ喘ぎ言う弓削を冷ややかな目で見下ろした。
「見たこともない呪香が急に宮中に出回って、僕が不審に思われないとでも思ったの?」
弓削は口をポカンと開けて安部を呆然と見つめている。そんな弓削を安部は鼻でせせら笑った。
「まぁ、出所が君だって分かってびっくりはしたけどね。霊力がほとんどない君に、そんな物が作れるなんて思わなかったから」
ズバッとした物言いに、マホロは吹き出しそうになるのを堪えた。弓削は今度は顔を赤くして唇をワナワナと震えさせている。
安部はそれを満足げに見て、話を続けた。
「だから、君を泳がして、協力者もろとも捕まえようと思ったんだ」
ビクッと背中で馨花が強張ったのを感じ、マホロは耳を伏せた。
「おい、こいつはこんな奴に協力なんか――」
「わ、分かってるよ! お姉さんが脅されて作らされてただけってことは! だからそんな怖い顔しないでよ!」
安部はマホロを振り向くと、オロオロとしながら懐から紙を取り出した。手紙のようだ。
「この子が証拠を押さえてくれたし、檻に入れるのは弓削だけだよ」
よく見れば、安部が手にしているのは弓削が馨花に渡していた依頼書だった。
「いつの間に……」
背後でも驚いたように馨花がつぶやいている。馨花自身、手紙がなくなっていることに気が付いていなかったようだ。
「さてと、それで君は何を逃げようとしているんだい?」
振り向きざま、安部は右手をさっと前に出した。その勢いに乗って、右手に絡みついていた白蛇が風のように飛び、地面を這いつくばって逃走を試みていた弓削の進路を塞いだ。
「ひぃぃっ!」
「往生際の悪い男だねぇ」
白蛇はそう言って、ポンッと音を立てて再び竜の姿になると、弓削の狩衣の襟を鋭く長い爪で摘まみ上げた。
弓削の顔が恐怖で引きつり、何とか逃れようと両手両足を振り回し、ジタバタと暴れる。
「うわぁぁぁぁ‼ 化け物っ‼ 離せえぇぇぇぇ‼」
「こいつ、連れて行って良いのかい?」
白竜が安部にお伺いを立てると、安部はニッコリと子どもらしい無邪気な笑みを浮かべた。
「うん、よろしく~」
安部の言葉が終わるか終わらないかの素早さで、白竜は勢いよく上空に舞い上がった。黒々とした百鬼夜行の群れを率いて、夕日に向かって飛び去って行く。耳をつんざくような弓削の悲鳴が、段々と遠ざかる。
「いやぁ、五月蠅い男だったね」
「どこに連れて行くんだ?」
マホロはニコニコ笑っている安部に向かって尋ねた。白竜が先導する百鬼夜行の行く方向は、どう見ても都の中心部ではない。アヤカシ山の方だ。
マホロの警戒が伝わったのか、背後の馨花も身を固くした。安部は妙に大人びた笑みを口元に浮かべた。
「勝手にアヤカシ山に入った罪は、人だけが裁けるものではないからね。彼らにも彼らのやり方で裁く権利がある」
「それじゃあ、私も一緒に連れて行くべきだったわ」
震える声で馨花が言う。
「私もここに来る前、アヤカシ山に勝手に入ってしまったもの」
その言葉に、安部は一瞬、きょとんとしてから吹き出した。
「あはは、何をそんな深刻な顔をしているのかと思ったら、そんな心配してたの?」
安部は目元の涙を拭うと、こちらに近づいてきた。
「お姉さんはアヤカシ山を浄化してくれたでしょ? そんな人をアヤカシ達は裁かないよ」
安部の言葉にマホロも頷き、胸を反らせた。
「そうだぞ。それに、もしあいつらが馨花に牙を剥くようなことがあったら、先に俺があいつらを――」
「それよりも、お姉さん」
マホロの言葉を遮って、安部は目を輝かせて背中に乗っている馨花に近寄った。スッと慣れた手つきで馨花の手を取る。
「あ、おい!」
安部を振り払おうと小バエを追い払うように尻尾をブンブン振るが、目を輝かせた安部には効果がなかった。馨花を見つめて詰め寄っている。
「僕と一緒に働く気はない?」
「えっ?」
「はぁ⁉」
馨花の声とマホロの素っ頓狂な声が重なった。マホロは目を丸くして安部を見つめた。
(何言ってんだ、こいつ⁉)
安部は馨花の手を両手でしっかり包み込むと、ズイッと顔を寄せた。
「お姉さん、かなり優秀な呪香師だから、このままじゃもったいないなって」
馨花が戸惑ったように身じろぐのが背中越しに感じられる。
「おい、何のつもりだ? 困ってるだろ?」
マホロは安部から距離を取るように数歩分離れた。安部と手が離れ、馨花がホッとしたように息を吐く。
マホロは非難するようにじろりと安部を睨んだが、安部は気にした様子もなく勧誘を続ける。
「呪香って、雅な上流貴族に結構ウケがいいんだよ。お姉さんみたいに綺麗な人だったら、宮中ではかなり重宝され――」
「せっかくだけど、お断りするわ」
馨花は今度はきっぱりと言った。
「私は、必要とされるなら誰でも助けたいの。宮中とか貴族とか、関係なく」
その声には決然とした響きがあった。
「そっか。じゃ、仕方ないね」
安部は意外にもあっさり引き下がると、今度はニッコリとマホロを見てきた。嫌な予感に、マホロは一歩後退する。
「な、なんだよ」
「君は? 僕と一緒になる気はない?」
「はぁ?」
「君、香狐でしょ? 結構珍しいし、可愛いから大歓迎なんだけど」
いささか馨花の時よりも興奮したように言う安部に、マホロは顔をしかめる。
(可愛いって何だよ)
馬ほどもある巨体に鋭い牙を持つ姿を可愛いと形容する者はいないと思うマホロである。
しかし安部は浮かれたように迫ってくる。
「もし僕の式神になってくれたら、毎日好きな香りを食べさせてあげるよ!」
「悪いが俺も遠慮させてもらう」
マホロは伸びてきた安部の手をペシンと前足で振り払った。
「俺は二度と人には縛られたくない。自由に好きな時に好きな香りを食べるのが一番だからな」
ふん、と鼻を鳴らすと、安部は唇を尖らせてマホロ達に背を向けた。
「そっかー。残念だけど仕方ないね」
と、全く納得していなさそうに呟きながら、とぼとぼと離れていく。
(急に何なんだったんだ)
少々気疲れを感じながら、マホロは、はぁと息を吐く。馨花を勧誘したその舌先も乾かぬうちに、香狐のマホロを勧誘するなんて、やっぱり陰陽師は信用ならない、と思った時だった。
その鼻先に、かすかに悲しみの香りが漂ってきて、マホロは首を傾げた。
(安部のやつ、そんなに悲しかったのか?)
と思ったのも束の間、その香りが安部ではなく背後から漂ってくるものだと気が付いた。
(もしかして……)
マホロは自分の背に乗った馨花の香りを、肺いっぱいに吸い込んだ。
「馨花」
「え、な、何?」
「ちょっと降りてくれるか?」
スッと身をかがめると、馨花はひどく狼狽して慌てて背中から滑り降りた。
「ご、ごめんなさい、いつまでも乗っかってて……重かったよね……」
地面にペタンと座り込んだ馨花と向き合い、じっと見つめる。馨花はマホロの目を見ないようにして頭を下げた。
「助けてくれて本当にありがとう。巻き込んでしまってごめんなさい」
少し離れた場所から安部が興味深げな視線を投げかけてくるのを無視し、マホロは馨花の香りを嗅いだ。
どこかもの悲しくも心惹かれる橙の香りが漂う。その奥にかすかに見え隠れするのは、悲しみを滲ませる涙の香りだ。
マホロが何も反応しないので不安になったのか、馨花はソロソロと顔を上げた。瞳がゆらゆらと泳いでいる。
「マホロは、これからどうするの?」
「お前はどうするつもりなんだ?」
「え……? なんで?」
間髪を入れず、質問を質問で返したので馨花は驚いたように聞き返してきた。
「なんでって、お前の返答次第で俺の答えも変わるからさ」
気軽に言うと、ますます馨花は混乱したように目を瞬いた。馨花の動揺が手に取るように分かり、マホロは内心ほくそ笑んでサラリと言った。
「俺はお前と一緒に行こうと思ってる。その足じゃ、呪香でいろんな人を助けるなんて一人じゃ無理だろ?」
馨花はこれ以上ないほど目を大きく見開いた。
「で、でもマホロ、あなたは人に縛られたくないって……」
「あぁ、でも俺は俺の意志でお前と一緒に行きたいって思ったんだ。お前と一緒なら、香狐として役に立てることがあるかもしれないだろ?」
馨花のおかげで、初めて自分でも誰かの役に立てると思うことができた。馨花と一緒にいれば、もっとなりたい自分でいられる気がするのだ。
マホロは、呆然とする馨花の顔に鼻先を近づけた。
「一緒にいちゃダメか?」
その瞬間、弾けるような瑞々しい橙の香りがマホロを包み込んだ。馨花が細い腕をマホロの首に回し、ギュッと抱きしめていた。
「ダメじゃない……! ありがとう、マホロ」
囁き声に、マホロはくすぐったくて耳をピクピク動かした。もう、悲しみを含んだ香りは霧散している。
「じゃあ行くか」
マホロは地面に腹ばいになって、背に乗るように馨花をうながした。馨花が慣れた様子で背に跨がる。
「じゃ、しっかり掴まってろよ」
「うん」
首に腕が回る。マホロはグッと四肢に力を入れると、空に向かって駆け上がった。背中で小さな悲鳴が上がって、マホロは喉の奥で笑った。
「おーい、二人ともー」
地上から声が追いかけてくる。下を見ると、呪香用の植物が植わる庭の真ん中で安部が大きく手を振っていた。
「気が向いたら僕の所においでー。ふたりならいつでも大歓迎だからー!」
安部の熱烈な言葉に、マホロと馨花は軽やかに笑った。
眼下には、小さくなっていく弓削の屋敷と、遠くには都が見える。地平線に太陽が沈み、空が赤から濃い紫へと変わっていく。
「さてと、どこに向かおうか?」
「呪香を必要としているものがいる場所に」
馨花の言葉にマホロはニヤリとする。
「『もの』ってことは、人じゃなくても良いってことか?」
「うん。私の呪香で助けられるなら、誰にでも喜んで調香するつもりだから」
「了解」
マホロはさらに上昇すると、一番星目指して駆け出した。
ふわり、と風が舞い、ふたりの門出を祝うかのような晴れやかな香りが鼻腔をくすぐった。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
香狐マホロと馨花の物語、楽しんでいただけましたでしょうか……?
どこか一箇所でも「いいな」と思ってもらえるシーンがあったら幸いです。