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7.黄泉の香り

(お願い……逃げ延びて……)

 

 マホロが飛び去った空を見上げ、馨花(けいか)はギュッと眉根を寄せた。


 やはり、マホロを巻き込むべきではなかった、と今更ながら後悔の念が押し寄せてくる。マホロの優しさについ甘えてしまったのだ。その結果、マホロは男達に追われ、命が危険にさらされている。


「知らせを受けて戻ってみれば、まさかあんな獣と一緒とはな」


 空から視線を弓削(ゆげ)に移すと、いつにも増して暗くて冷たい瞳がこちらを睨み付けていた。


「自由になれるとでも思ったか? 生憎、俺はお前を手放す気はない。さぁ来るんだ」

「嫌よ!」


 馨花は伸びてきた弓削の手を思いっきり振り払った。挑むように弓削を睨み付ける。


「人を傷つけるような呪香(じゅこう)を作るなんて――」

「俺に逆らうつもりか?」

 

 突然、頭にガツンという衝撃があって馨花は地面に倒れ込んだ。目の奥がチカチカと点滅し、息が詰まる。どうやら弓削に頭部を強打されたようだ。


「おい。こいつを運べ」


 痛みに堪えて薄く目を開けると、誰かの足が近づいてくるところだった。そろそろと視線を上げると、弓削の何倍もありそうな厳めしい男がこちらを見下ろしていた。その男が、ぬっと丸太のような腕を伸ばしてくるので、馨花はゾッとして身をよじった。


「な、何⁉ いやっ!」


 男の手を逃れようと手を突っぱねたが無駄だった。男は馨花の腰に手を回すと、荷物を運ぶように馨花の身体を肩に担ぎ上げた。両足を片手で支えられ、動かせない。


「嫌っ、離しなさい!」


 ドンドンッと男の背中を思いっきり叩くがびくともしない。男は馨花が拳で背中を殴っても気にするそぶりも見せず、馨花が囚われていた小屋に向かって歩いて行く。馨花は必死に両手で男の背中を叩き、頭の毛を引っ張り、何とか男の足を止めようと動きまくった。しかし、そんな抵抗虚しく、男は階段を上って室内に入ると、乱暴に馨花を床に投げ出した。


「っ!」


 背中から放り出され、受け身を取る間もなかった。後頭部を強く床に打ち付け、衝撃で息が詰まった。頭の中がぐわんぐわんと激しく揺れる。


「愚かだな」


 頭を抑えながら何とか起き上がると、弓削が男とすれ違いに室内に入ってきたところだった。弓削はつまらなそうに室内の薬棚を見回し、感情の籠もらない声で言う。


「大人しく俺に従っていれば幸せになれたのに」

「幸せ?」


 馨花は憎しみを込めて弓削を睨み上げた。


「馬鹿言わないで。あなたにこき使われることのどこが幸せだっていうの?」

「お前の望みは、自分の力を最大限活かすことだっただろう? 俺に従ってさえいれば、それを叶えてやれたんだ」


 淡々と言う弓削に馨花は言葉を失った。


(私の望みを?)


 弓削は哀れみを含んだ眼差しで馨花を見た。


「俺の言う通りに呪香を作っていれば、今頃は目障りな安部を退け、我が弓削家は再び帝の寵愛を受けられたのものを」

「……それのどこが私の望みを叶えることになるの?」

 

 固い声で問うと、弓削は呆気にとられたような顔をした。


「我が弓削家のためにお前の呪香を使ってやるんだぞ? これほど名誉なことはないだろう?」


 目の前にいる男が何を言っているのか分からなかった。言葉は通じるはずなのに、得体の知れないモノと会話をしているような気持ち悪さが纏わり付く。


 馨花は怒りが沸々と湧いてくるの感じた。


「私の望みは、呪香で多くの人を救うことよ。あなたの欲のために誰かを傷つけるなんてまっぴらだわ!」

 

 この力は亡き父から受け継いだものだ。父が存命の時は、村々を巡り、貧富に関係なく、様々な悩みを(こう)の力で解決してきた。この力が人の役に立つことが誇らしくて、もっと多くの人を救いたいと思っていた。それができると言われたから弓削に従ったのに、それは真っ赤な嘘だった。


「もうあなたのために呪香は作らない」

「いいや、作るさ」


 弓削は無造作に薬棚を開けると、中から薬包(やくほう)を一つ取り出して、指の先でつまらなそうにいじった。


「お前の呪香で市井の人々が傷つくのを見たくないのならな」

 

 弓削の言葉に馨花は身体を強張らせた。


(もしかして……)


 弓削はチラリ、と馨花に視線を投げる。


「お前に作らせた呪香をすべて使っていたと思うか?」

「やっぱり……隠し持っていたのね」


 弓削は、にたりとした笑みを浮かべた。それがすべてを物語っていた。

 

 馨花が予想していた通り、今まで弓削に言われて作らされて呪香は実際に使われることなくどこかに保管されていたのだ。霊香(れいこう)だけではなく、口無ノ香(くちなしのこう)調伏ノ香(ちょうぶくのこう)も含まれているだろう。弓削の様子からすると、もっと他の呪香もたくさんあるのかもしれない。


 弓削はゆったりと屈み込み、柔らかく笑って馨花の瞳をのぞき込んだ。


「安心しろ。お前が呪香を作るなら、俺も無関係な人間を傷つけるようなことはしない」

 

 湿った手で頬を撫で上げられ、ゾワリと背筋に悪寒が走った。しかし、弓削はそのまま続ける。


「俺の望みは、我が弓削家の復興だ。安部家さえ没落してくれればそれでいい」


 反意を込めて顔を逸らすと、弓削は愉快そうに笑って立ち上がった。


「さぁ、手始めに口無ノ香(くちなしのこう)を作ってもらおうか。今までとは比べものにならない、強力なやつをな」


 弓削は持っていた薬包を馨花に投げつけた。


 馨花は腸が煮えくりかえる思いで薬包を握りしめると、膝行(いざ)って薬棚に近づいた。


(もう弓削の言いなりになんかならない……!)


 弓削が呪香を隠し持っていることが分かった以上、馨花に残された選択肢は一つしかなかった。


 馨花は抽斗の一つを開けると、弓削を振り返った。


「じゃあ、庭から霊菫(たますみれ)を摘んできて」

「何?」


 弓削の顔が不機嫌そうに歪むが、馨花は構うことなく厨子棚(ずしだな)に収められた乳鉢と乳棒を準備しながら言葉を紡ぐ。


「強い呪香が必要なんでしょう? だったら新鮮な霊菫(たますみれ)を使った方が効力の強い呪香が作れるわ。それに、使用者が手ずから摘み取ったものなら、なお良いの」


 言葉を切って、試すような瞳で弓削を見る。


「もっとも、あなたがそれほど些細な労力さえ惜しむなら、随分前に収穫して乾燥した霊菫を使うけれど……力は弱くなるわよ」


 弓削は目を細め、馨花を値踏みするような、迷うようなそぶりを見せたが、不愉快そうに鼻を鳴らすと荒々しい足取りで庭に向かった。


(よし! 今のうちに……!)


 馨花は抽斗を乱暴に開けると、薬包を掴めるだけ掴んで取り出し、中身を乳鉢の中にぶち込んだ。乾燥した赤黒い花びらが乳鉢の中で山となる。


 途端に、妖芥子(ようけし)の気分の悪くなるような重たい甘ったるい香りが立ち上り、馨花は息を殺した。まだまじないを掛けていないが、それでもこの花に含まれる成分は吸わないに越したことはない。


 乳棒を使って花をすり潰し、混ぜ合わせていく。


(もっと早くこうしているべきだった)


 馨花はギュッと唇を噛みしめた。


 弓削の注文に違和感を覚えた時点で手を打つべきだったのだ。しかし、それまでに作った呪香が悪用されていたかもしれないとは考えたくなくて、自分を誤魔化してきた。それが今の状況を招いたのだ。そして関係のないマホロまで巻き込んでしまった。


(私一人でやるべきだったのに……)


 罪悪感と共に後悔の念が湧き上がり、同時に決意も固まった。


「おい、摘んできたぞ」


 気が付くと、弓削が庭から戻ってきていた。その手には、根っこが付いた霊菫(たますみれ)が束になっていた。庭に咲いていた霊菫をすべて引き抜いてきたらしい。


「じゃあそれはあなたが持っておいて」

「その中に入れないのか?」

 

 弓削が向かいに腰を下ろし、怪訝そうな目で乳鉢を見る。


「えぇ」

(ただの時間稼ぎに言っただけで必要ないもの)


 心の中で答えて、馨花は手を止めて乳鉢を両手で包み込んだ。本当は、蜂蜜を入れてさらに練ってから丸く形を整えなければいけないのだが、その時間はなさそうだ。急ごしらえだが、近距離であれば効くはずだ。


 馨花は乳鉢の中に視線を落とし、口の中でまじないを唱える。


「我が力、香りに宿れ。宿りて揺蕩(たゆた)え、妖芥子(ようけし)よ……」


 乳鉢の中で砕かれて粉になった妖芥子の花びらが、ふんわりとした光を帯び始める。


妖芥子(ようけし)、だと……?」

 

 弓削のつぶやきが聞こえ、馨花はほくそ笑んだ。


(気が付いてももう遅い)


 馨花は立ち上がりかけた弓削の手首を素早く掴み、口早にまじないを続けた。


「……我らをいざなえ、眠りの宮に。深く(くら)い、とこしえの眠りに」


 ちらりと視線を上げると、目の前に座った弓削は、当惑した表情の中に恐怖の色を滲ませていた。


「お前、何の呪香を作っている……⁉ それは口無ノ香(くちなしのこう)ではないな⁉」

「さすがに落ちぶれた陰陽師でもそれくらいは分かるのね」

 

 馨花は鼻で笑って、弓削の手首を掴む手に力を込めた。


妖芥子(ようけし)は強い催眠効果があるの。それにまじないを掛けたのよ。といっても」

 

 馨花はニッコリと晴れやかに微笑んだ。


「これだけ大量だと、永遠の眠りになると思うけど」


 弓削の顔が目に見えて引きつった。


「こ、ここで使うつもりか⁉ そんなことをしたらお前も――」

「害悪の塊であるあなたを滅ぼせるなら、喜んで身を差し出すわ」


 弓削は舌打ちして馨花の手を振り払った。摘んできた霊菫(たますみれ)を放り出し、転がるようにして逃げ出そうとする。


 馨花は大きく息を吸い込むと、乳鉢の中身に素早く息を吹きかけた。


 乳鉢に入っていた妖芥子(ようけし)の粉が、さぁぁと室内に流れだし、重たく甘ったるい香りが広がっていく。キラキラと輝く光の粒は、波のようにうねり、膨らみ、弓削の後を追いかける。

 

 あと一歩で弓削に覆い被さるという、ちょうどその時だった。


 突風が室内に吹き込み、妖芥子の粒の波は崩れ、波しぶきを上げるように辺り一面に飛び散った。


「っ!」


 思わず目を瞑った馨花の耳に、弓削の悲鳴と何かが倒れる音が聞こえた。それと同時に、辺りに漂っていた妖芥子の胸が悪くなるような甘い香りがスッと引いていき、代わりに草原に吹く風のような軽やかな香りが鼻腔をくすぐった。


(何……?)


 そろそろ、と目を開けた馨花は驚いて息を呑んだ。


「遅くなって悪い」

「マホロ!」


 濡れ縁に、銀色の毛をたなびかせたマホロが立っていた。


「なんでここにいるの……⁉ 早く逃げないと――」

「あぁ、心配ない。もう闘う気力はないだろうから」


 マホロはサラリと言うと馨花に近づいてきた。その後ろに、濡れ縁に伸びている弓削の姿がチラリと見えた。おそらくマホロが突き飛ばしたのだろう。完全に気を失っているようだ。


「お前は、大丈夫か? ……怪我は?」

「私は平気だけど……マホロ、何したの?」


 室内に入ってきたマホロの様子に馨花は目を見張った。


 美しかった琥珀色の目は白っぽい膜に覆われ、息は荒く、何かを押さえつけるように喉の奥で唸り声を上げている。


「平気だ。あいつの、持ってた呪香は……ぐっ、……、全部、洗い流した……」

「マホロ⁉」


 ドサリ、とマホロが床に倒れ込んだ。慌ててにじり寄り、荒い息を繰り返すマホロに顔を近づけると、だらしなく開いた口から重たく甘い香りが漂ってきた。


「もしかして、今使った妖芥子(ようけし)の香りを食べたの……⁉」

 

 マホロは薄らと目を開けて、焦点の合わない目で馨花を見た。


「あんな奴のために、お前が犠牲になる必要はない」

 

 マホロの顔が苦痛に歪み、ビクン、ビクンと痙攣するように身体が跳ねる。


「そんな……マホロ‼」


 手を伸ばすと、マホロは鼻先を馨花の手に擦り付けた。


「……俺みたいなヤツでも、ちょっとは役に立てたかな」

 ささやくように言うと、ふっと身体の力が抜けたように動かなくなった。


「やだ、だめ! マホロっ‼」


 マホロの身体を揺するが、ピクリとも動かない。胸に耳を寄せると、かすかに心音が聞こえた。


(まだ眠りに入っただけだけど、時間の問題だわ)


 まじないを掛けた妖芥子(ようけし)の力は絶大だ。刻々と眠りは深くなり、やがて目覚めることができないほどの眠りに落ち込む。最後には、夢の世界から黄泉の世界へと迷い込み、肉体的な死が訪れるのだ。


(早く何かしないと……!)


 馨花はサッと辺りを見回した。


 マホロを助けるためには、強い解毒作用のある呪香が必要だ。しかし、この薬棚の中には解毒効果のある呪香は入っていない。

 

 今ある材料に考えを巡らしていると、ふと視界の隅に紫色の何かが飛び込んできた。部屋の隅に固まっている物を見て、馨花はあっと声を上げた。


霊菫(たますみれ)!」


 それは、弓削を外に出す口実に取ってこさせた霊菫だった。浄化作用のある霊菫が、根に泥が付いた状態で、束になって固まっている。


「これなら……!」


 馨花は急いでにじり寄ると霊菫を手にしてマホロの元に戻った。

 

 霊菫を両手に握り込み、胸の前で合わせて目を瞑り、唱える。


「我が力、香りに宿れ。宿りて揺蕩(たゆた)え、霊菫(たますみれ)


 ギュッと手を強く握り、マホロが目覚めることをただ祈る。


「まどろむものを導きて、うたかた浮世(うきよ)に舞い戻せ。眠りを祓え、清めたまえ」

 

 目を開け、マホロの顔の前で手のひらを広げると、ふっと息を吹きかけた。

 

 手の中の霊菫が星のように煌めいたかと思うと、解けるように形を崩し、光る粉雪となってマホロに降りかかった。銀色の毛の上に、まじないが掛かった霊菫の粒がハラハラと積もり、全身を覆うと、すぅっとマホロの体内に消えていった。

 

 しかし、マホロはピクリとも動かない。


(間に合わなかったの……?)


 胸の中がざわめく。馨花は震える手でマホロの額を撫でた。ふわりと柔らかい毛が手のひらをくすぐり、じんわりとした温かさが伝わってくる。このまま目を開けないなんて、信じたくなかった。


「マホロ」


 自分でも驚くほど情けない、小さな声が口から漏れた。そのとき、マホロの耳がピクッと動いた。


「マホロ!」

「げほっ、ごほっっ‼」


 激しく咳き込みながら、マホロはパチパチと目を瞬いた。


「あれ? 馨花?」


 涙が浮かぶ金色の瞳で、不思議そうにこちらを見つめてくる。


「どうしたんだ? そんな泣きそうな顔で――」

「良かった……‼」


 ゆるゆると起き上がったマホロの首に馨花はギュッと抱き付いた。その瞬間、草原の香りと霊菫の香りがふわりと馨花を包み込んだ。あの重たく甘い臭いはすっかりなくなっている。


「な、なんだ……⁉」


 マホロが驚いたように身体を硬くしたのを感じたが、馨花は構わず抱きしめ続けた。マホロの体温が伝わってきて、重たかった心がふわりと浮き上がる感じがした。


「良かった……マホロが私の呪香で死ななくて……」

「お前が助けてくれたのか」


 マホロがつぶやくように言ったので、馨花はゆっくりと身を離して首を振った。


「ううん、マホロが私を助けてくれたの」


 マホロが妖芥子(ようけし)の香りを食べなければ、おそらく今頃、弓削も馨花も永遠の眠りについていただろう。


「ありがとう」


 マホロに頭を下げると、少しの沈黙のあと、ふわりとした感触が頬を撫でた。マホロが頬ずりをするように、顔を寄せていた。


「俺の方こそ、ありがとう」


 耳元で柔らかい声がして、馨花は自然に微笑んでいた。心の奥がふわふわと心地良くも、くすぐったい。ずっとこのままでいたい、と思ったその時だった。


「なんだ⁉」


 マホロがパッと馨花から身を離すと、唸り声を上げて前に躍り出た。背中に馨花を庇うようにして立ち塞がる。


 マホロの背中越しに外を見た馨花は息を呑んだ。


 気が付くと、濡れ縁で倒れていた弓削は姿を消し、夕日に赤く染まった庭にはいくつもの黒い影が立ち並んでいた。

死の淵から生還したマホロ達に襲いかかるのは――?

次回、最終回「8.香狐と呪香師の娘」につづく。

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