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6.鈍る嗅覚

 弓削邸(ゆげてい)は都の西側――洛西(らくせい)に位置する。アヤカシ山に程近く、官庁が集まる大内裏からは距離があるため、好んで住み続ける者はいない。こんな土地に居続けるのは下級官吏か没落貴族くらいだ。廃墟同然の建物群の中で、当然弓削邸も例外ではない。上級貴族の屋敷とは異なる板葺き屋根は、所々傷みが見え、敷地を囲う築地はボロボロに崩れかけている。


 そんな弓削邸を上空から眺め、マホロは顔をゆがめた。


「うわぁ、何だあれ」


 敷地の真ん中にある母家(おもや)の南側に、何年も手入れがされていないような荒れ果てた庭がある。その庭の、乱雑に植わっている伸び放題の木々の枝葉の隙間から、何人もの武装した男達の姿が垣間見えた。こんな荒ら屋には全く似つかわしくない警備体制だ。


「きっと私を探してるのよ」

 馨花(けいか)が指さす方に視線を向けると、板垣に囲われた質素な小屋が見えた。馨花が囚われていた所だ。その板垣の外にも、武装した男達が何かを探すようにうろついていた。


「こんなに人がいたんじゃ、呪香(じゅこう)探しなんて無理だわ」

 

 馨花の悔しげなつぶやきが耳の後ろで聞こえ、マホロは首を捻った。


「何でだ? 俺らの姿は普通の人間には見えないんだから平気だろ?」


 当然のことだと言い放つと、背中で馨花がムッとしたのが感じられた。


「それは、アヤカシならそうでしょうけどね」


 いささか声が尖っている。


「生憎私は普通の人間だもの。一緒に降りていっても私の姿は丸見えで、すぐに見つかってしまうわ」

「それが平気なんだって」


 マホロはニヤリとすると、下に向かって直進した。前置きもなしの急降下に馨花が声にならない悲鳴を上げて、背中にしがみついてくる。


「っ……‼ ま、マホロっっ⁉」

「俺の霊力は強いからな。俺に触れてれば、その影響で馨花の姿も消えるんだ」

「私も……?」

「あぁ。その証拠に、ほら」


 マホロはトスンと母屋の屋根の上に舞い降りて、下を見るように鼻先で示した。


「だぁれも気が付いてないだろ?」

「ほ、ほんとだ……」


 庭の男達は、辺りを警戒するように空を見上げてキョロキョロしているが、誰も屋根の棟にいるマホロ達には気が付いていなかった。その目はマホロ達を素通りし、空の雲を捕らえている。


 馨花が脱力したようにマホロの背に伏せる。


「良かったぁ……それならそうと、降りる前に言ってよ! 魂が身体から抜け出るかと思ったわ……!」

「ははっ、それは悪かったな」


 悪びれもせず詫びの言葉を述べてから、気を取り直して馨花に尋ねる。


「それで、口無ノ香(くちなしのこう)って何を原料に使ってるんだ? 山梔子(くちなし)か?」

 

 探そうとしている呪香(じゅこう)の性質は聞いていたが、肝心の原料を聞いていなかった。材料が分かった方が探しやすい。


 マホロの問い掛けに馨花は身体を起こした。


「えぇ。でも、呪香に使うから、もっと霊力の高い、霊山に生息してる山梔子鬼(くちなしおに)っていうのを使っているの」

「それなら探しやすそうだな」

 

 馨花の説明にマホロはニンマリした。


 山梔子(くちなし)は芳醇な甘い香りが特徴だ。霊力の強い山梔子鬼(くちなしおに)であれば、そこに苦み走った緑の香りが混ざる。さらに、呪香を作ったのが馨花なので、馨花の魂の香り――夏の夕暮れを思わせるもの悲しい橘の香りも合わさっているはずだ。マホロにとって、探すのは造作もないことだ。


 マホロは目を瞑り、鼻を天に向けてヒクヒクと動かした。男達の汗の臭い、木々の緑の匂い、それに……


「あった。山梔子鬼(くちなしおに)の香り……これの出所は……」

「お、おい! そこで何をしている⁉」

 

 突然、裏返った間抜けな声が響いたかと思うと、頬の横を何かがかすめていった。

 

 パチッと目を開け、地上を見やると、真っ青な顔の男が弓を構えたままこちらを見上げていた。視線が交差した瞬間、男は再び矢をつがえて放ってきた。しかし、手が震えているのか、矢はあらぬ方向に飛び去った。

 

 馨花がギクリと身体を揺らす。


「え、な、何?」

「ちっ、伏せてろ馨花!」


 どうやら予想外に眼の良い者がいたらしい。マホロはヒラリと屋根から飛び降りると、宙を蹴り、板垣を飛び越して馨花が囚われていた家屋の庭に降り立った。先程までうろついていた男達は、探索場所を変えたのか姿を消していた。庭の隅の草が茂っているところを選んで腹ばいになると、馨花を背中から降ろす。


「どうしたの? もしかして見つかったの……?」

「あぁ、でも心配いらない」


 不安げに眉根を寄せている馨花の額を、鼻先でチョンッと突く。


「たぶんあの様子じゃ、()えてるのは一人だけだ」


 それなら、そいつを黙らせれば問題ない。

 

 庭を見回し、一輪だけ咲いている色鮮やかな赤い花に目を留めた。


「これ、使っても良いか?」

妖芥子(ようけし)を? 何するの?」

 

 馨花が固い声で咎めるような視線を向けてくるので、マホロは安心させるように軽く笑い飛ばした。


「大丈夫だ。お前の呪香の材料で人を傷つけたりしないから」

 

 ちゃんと約束してから、マホロは花に近寄ると、鼻を花弁に近づけた。すぅっと香りを吸い込む。


 ドロリとした甘い香りに続いて、ふかふかの寝床を連想させるような心惹かれる香りが鼻孔を駆け抜けた。香りに誘われるままに、咀嚼して力を取り込みたい欲求を抑え込み、体内に香りをため込むと、マホロはトンッと地面を蹴って飛び上がった。


 板垣を飛び越した途端、先程の男と鉢合わせた。男が目を剥き、矢に手を伸ばす。


「っ! こいつっ‼」


 とっさにマホロは男の顔めがけて、ふぅっと息を吐き出した。

 

 次の瞬間、男の瞼はトロンと下がり、そのままフラフラと千鳥足で数歩歩いたかと思うと、パタンと地面に突っ伏した。


「ぐぉ~……すぴぃぃぃぃ……」

「いっちょ上がり」


 盛大なイビキをかき始めた男を見下ろし、 マホロは満足げに顎を逸らした。


 妖芥子(ようけし)には強い催眠作用がある。加減を間違えれば一生目覚めないが、馨花の気持ちを慮って、ぐっすり丸一日眠りこむくらいの濃度を吹きかけておくに留めてある。


「これで邪魔者は――」

「いやぁっ!」


 突然、鋭い悲鳴が辺りに響き渡った。マホロはハッと息を呑む。馨花の声だ。

 

 マホロは慌てて空に飛び上がると、叫び声の方に向かって走った。


(しまった……!)


 板垣の向こう側に見えた光景にマホロは歯噛みした。


 草の中に座り込む馨花の腕を男が捕まえている。死臭を放つ縹色(はなだいろ)の狩衣姿の男――間違えようもない、弓削(ゆげ)だ。


(あんな所に一人にするんじゃなかった……!)


 自分の考えの甘さにマホロは低く唸った。


 馨花の姿が人に見えないのは自分と共にあったからだ。触れていなければマホロの霊力の力は及ばず、顕現してしまうのに、敵地の真ん中で一人きりにしてしまった。


(どうする? このまま突っ込んで行って、馨花を奪い去るか……?)


 ジリジリと間合いを計っていると、弓削が何かに気が付いたかのように顔を巡らせた。くるりとこちらを振り仰ぎ、マホロの目を真っ直ぐに視て、ニヤリと笑った。


「え……?」


 ぞくり、としたものがマホロの全身を貫いた時、弓削が片手を上げた。


「捕まえろ」


 弓削がパッと手を振り下ろしたのを合図に、家屋の陰に隠れていた幾人もの武人が現れ、マホロに向かって矢を放ってきた。


「うわっ!」


 顔の横ギリギリを矢が通り過ぎ、マホロは慌てて退いた。肉球が汗でジットリと湿ってくる。鼓動が一気に跳ね上がり、バクバク音を立てた。


(なんで……なんで俺の姿が視えてるんだ⁉)


「逃げてマホロ!」


 馨花が叫んだ。


「弓削が、霊香(れいこう)を――」

「黙れ!」

 

 弓削は声を荒げると、馨花の頬を殴った。馨花はドサッと地面に倒れ、動かなくなる。


「貴様……!」


 かぁっと頭に血が上り、マホロは牙を剥きだした。弓削に飛び掛かろうと身構えたマホロだったが、再び矢を射かけられ、後退する。


「くそっ!」


 矢の射程半以外ギリギリの上空に浮かんだまま庭を見下ろしたマホロは、あっと声を上げた。庭の四方に香炉(こうろ)が置かれ、煙が立ち上っている。


(なんで気が付かなかったんだ、俺は……!)


 山梔子鬼(くちなしおに)の香りにばかり気を取られ、近くに迫っている危険な香りを見落としていた。辺りには山梔子鬼とは異なる爽やかな甘さ――霊香(れいこう)の香りが立ちこめていた。そのせいで、弓削も含め、この場にいる者にマホロの姿が視えていたのだ。


「おい! 何をしている。早くこいつを打ち落とせ!」

 

 弓削が怒鳴ると、母家(おもや)の方にいたより屈強な男達が一斉にこちらに向かってくるのが見えた。


(うわっ、まずい!)


 ヒョイッとさらに一歩、上空に駆け上がると、男達が放った矢の数本が今までマホロがいた場所を素通りした。


(あっぶな! これじゃ、無闇に馨花に近寄れないじゃないか……!)


 ジリジリとした思いで下を見ると、殴られた馨花は気を取り戻したのか、ヨロヨロと上体を起こし、マホロを見上げていた。かすかに唇が動く。


 マホロはピンと耳をそばだて、馨花の方に向けた。


「マ……ホロ……逃げて………!」


 血の気の失せた唇から漏れ出た言葉にマホロは歯噛みした。


 馨花を置いて逃げるわけにはいかない。しかし、このままここにいても馨花を取り返すこともできないばかりか、弓削の目論見も阻止できない。


(くそっ……!)


 マホロは馨花に背を向けると、母家の南側の庭に駆け下りた。


「こっちに来たぞ!」

「仕留めろ!」


 男達の怒号をすり抜け、木の根元に置かれていた香炉を目指す。まずはこの厄介な状況を片付けることが先決だ。


(うわぁ、嫌な匂い)


 霊力を無理矢理増幅させる霊香(れいこう)は、爽やかな(ひのき)柚子(ゆず)が合わさった良い香りのはずなのに、どこか嘘くさくてマホロは好きになれなかった。しかも、今回は霊香を焚いた弓削の臭いが混ざっているので、なおのことだった。


 マホロは勢いよく地面を蹴って、走った速度を維持したまま、思いっきり香炉を蹴倒した。その時だった。


「うおぉぉぉぉ!」


 背後から男の雄叫びが上がり、マホロはピョンッと大きく飛び上がった。先程までマホロがいた場所に刀が振り下ろされる。


(危なっ!)


 マホロは空中で身体を反転させると、自分を襲ってきた男の頭にトンッと飛び乗った。


「背後から襲うなんて、その辺の妖狐より卑怯なんじゃないか?」

「うぉっ⁉」


 マホロの重みで男の身体がグラリと後ろに傾く。仕方がないので、マホロは男の頭を踏み台代わりに、地面に着地する。


「いたぞ! 放て!」

 

 さらに追っ手がやって来て矢が飛んできた。


「しつこいな、こいつら」


 矢を(かわ)しながら、庭のあちこちに置かれた香炉目指して全速力で突っ走る。一つ、二つと香炉を蹴り倒すのに比例して、武装した男達の数はどんどん膨れ上がり、徐々にマホロとの距離を詰めつつあった。


「もう逃げられないぞ、化け狐め!」


 最後の香炉を蹴り倒した時、ハッと気がつくとマホロは庭の隅に追い立てられていた。背後は築地塀に阻まれ、前方は刀と矢でマホロを狙う男達に囲まれている。弓がキリキリと引き絞られる。


「終わりだ、化け狐」


 言葉と共に矢が放たれる。それと同時にマホロも動いた。


 パッと身をかがめて矢を避けると、足元に咲いていた紫色の(すみれ)の香りを思いっきり吸い込んだ。そして自分を囲んでいた男達に向かって細く長く吹きかける。さぁっと辺りに、優しくて甘い花の香りが広がった。

 

 すべては束の間の出来事だった。大きく刀を振りかぶっていた男の手から刀が滑り落ち、ガシャンッと大きな音を立てた。それが合図だったかのように、次々と男達の手から得物が滑り落ち、気迫が削がれたかのようにその場に座り込んでしまった。どの男の目からも殺気は消えている。


 マホロはホッと息を吐いた。思いつきで、生えていた霊菫(たますみれ)の香りの作用――鎮静作用を使ってみたのだが、追っ手の闘争心を沈める効果は十分だったらしい。


(よし、今のうちに……!)

 

 マホロは男達の間をすり抜け、母家の濡れ縁に駆け上がると、御簾(みす)を跳ね上げ、室内に入って行った。おそらく弓削が呪香を隠しているならここだろう。馨花を弓削の手から救うには、当初の目的である馨花の呪香を奪還することが必須だ。


(うわっ、クッサ……!)


 室内に足を踏み入れたマホロは息を詰めた。人の気配もなく、調度品もほとんどない室内は空き家と言っても良いほどだったが、それでも中は弓削の匂いがムッとするほど籠もっていた。弓削が傍にいるような感覚にマホロは身震いした。


「早く探し出して外に出よう」


 意を決して、鼻をうごめかして空気中の匂いを分析する。


(屋根の上にいた時、確かあっちの方から香ってたよな)

 

 山梔子鬼(くちなしおに)のかすかな香りを頼りに進んで行く。がらんとした(ひさし)()を抜け、母家(おもや)の隅にある部屋の前でマホロは足を止めた。この中から漂ってくる。


(いくぞ……!)


 マホロは気合いを入れると、白木(しらき)妻戸(つまど)を鼻で押し開き、中に身を滑り込ませた。その瞬間、くらり、と目が回った。


「うっ……気持ち悪……」


 呪香の香りが一気に押し寄せてきた。鼻に皺を寄せながら戸をキッチリ閉めて室内を振り返り、マホロはますます鼻の皺を深くした。


 板張りの天井から太陽の光が漏れ、薄暗い室内をわずかに照らしている。そのかすかな光と香りを頼りに、マホロは奥の壁に設えられた薬棚に近寄ると、抽斗の一つを開けてみた。


 中には折り畳まれた紙が数個入っている。鼻を近づけて嗅いでみると、深みのある芳醇な甘さと苦み走った特徴的な香りがした。山梔子鬼(くちなしおに)の香りだ。それに橘の香りも合わさっている。間違いない。馨花の作った口無ノ香(くちなしのこう)だ。しかし、抽斗を閉めたマホロの心は重かった。


「参ったなぁ」

 

 マホロは耳を伏せて部屋の中を顧みた。入ってきた扉以外、壁は四面すべて天井まで抽斗で埋まっている。押し寄せてくる香りから察するに、この抽斗すべてに何かの呪香が入っているだろうことは明らかだ。


 ムッとするような草の香りや、少し酸味のある果実のような香り、様々な草花と霊力の香りがプンプンしている。


(あの野郎、どれだけ馨花に呪香を作らせていたんだ……!)


 これを見るだけでも、どれほど馨花が虐げられていたのかが分かり、弓削を食いちぎりたくなる。


(馨花は弓削が依頼してきた三つの呪香だけを気にしてたけど、全部回収しないとマズいよなぁ)


 マホロは曲がりそうな鼻先をクシクシと前足で掻きながら思考を巡らせる。


 呪香には詳しくないマホロだが、これだけ様々な呪香をいっぺんに使ったらどうなるかくらい想像が付く。多種多様な作用が絡み合い、きっと大勢のものが傷つくだろう。人に限らず、アヤカシも。弓削なら自分の思いを遂げるためにやりかねない。


(少量なら回収もできるし、破壊のしようもあったけど、この量だとなぁ……)


 マホロは耳を伏せて棚を睨んだ。一人で持ち去るには限界がある。


(食べるって手もあるが……)


 香狐(こうこ)である自分が香りを食べれば、その効力は失われる。だから呪香を使えないようにするにはそれが最善策だが、壁四面分の多様な呪香ともなると話は別だ。これだけの量を一度に摂取すれば、さすがのマホロも狂化してしまう。香りの性質を取り込むと言うことは、多少なりとも自分の内部がその性質に侵されるということなのだ。

 

 マホロはうぅむと考える。


「……それでもこのままってわけにはいかないし……狂う一歩手前まで食べておくべきか……?」

「馬鹿だねぇ、あんた」


 独り言を突然遮られ、マホロは驚いて耳をピンと立てて振り返った。


 いつの間に入り込んだのか、妻戸(つまど)の前にとぐろを巻いた白蛇がいた。ゆらゆらと鎌首をもたげ、赤い瞳でこちらを愉快そうに見ている。アヤカシ山で助けてやった、あの白蛇だった。


「な、なんでお前がここに⁉」

「うるさいねぇ、キャンキャン喚くんじゃないよ。鬱陶しい」


 マホロの驚愕を一蹴すると、白蛇はシュルシュルと床を這ってマホロの傍にやって来た。


「あたしがどこで何をしようと、あんたには関係ないだろ?」

「そ、そりゃそうだけど……」

「あんたこそ、こんなとこで何してんだい? まさかあんた、腹が減ったからって呪香を狙ってんのかい?」


 呆れたような視線を向けられ、マホロは耳を伏せた。


「んなわけないだろ! 俺は呪香を無効化しようとしてたんだ!」

「へぇ、それで食べようとしてたってわけかい。馬鹿だねぇ~」


 再び馬鹿呼ばわりされ、マホロは半眼で白蛇を睨み付ける。


「呪香を使えなくするには、俺が食べるのが一番手っ取り早いだろ?」

「こんなに食べたら、あんたは腹が弾けて死んじまうよ」

「うっ……」


 冷ややかに言われ、マホロは言い返すことができなかった。ごもっともである。


 白蛇はチロチロと真っ赤な舌を出した。


「あんたが食べなくても、もっと簡単に呪香をダメにする方法があるよ」

「そうなのか⁉」


 噛みつかんばかりに聞き返すと、白蛇はくぐもった笑い声を漏らした。


「そうさ。呪香の弱点は湿気。水に濡れると、匂いがなくなって効力を失うのさ」

「ってことはつまり……」

「水を掛ければ、おしまいさね」

 

 白蛇は何かを企むかのように、真っ赤な目を糸のように細め、ふいに天井を見上げた。

 

 その瞬間、天井の板目から閃光が走った。バリバリっと続けて全身の毛が逆立つような耳をつんざく音が響いた。


(ま、まさか……)


 嫌な予感がする。マホロは白蛇を見据えた。


 白蛇は、ただの白蛇ではない。歴としたアヤカシだ。そして、その姿が仮の姿でしかないことをマホロは知っている。


「おい、嘘だろ。もしかして……」


 マホロがつぶやいたのと同時に、白蛇がニヤリと笑った。次の瞬間、腹の底に響くような大きな破裂音がしたかと思うと、目の前がピカッと白くなった。


「っ!」


 反射的に目を閉じる。


 次に目を開けた時には白蛇の姿はなく、代わりに床には真っ黒な焦げ痕ができていた。

 

 見上げると、天井には部屋と同じくらいの大きな穴が空いていて、そこから青空に浮かぶ真っ黒な雲が見えた。雲の周りにピカピカと稲光が走っている。


 その雲を背に、大きな白い竜が浮かんでいた。白竜の真っ赤な瞳が弓なりに弧を描く。


「あたしなら、こうやって呪香を無効化するよ」

「ちょっ、ちょっと待――」

 

 マホロの制止も虚しく、黒い雲から八岐大蛇(やまたのおろち)のように何本もの水の頭がにょきにょきと生え、こちらに狙いを定めた。


「う、嘘だろ……⁉」


 マホロはジリジリと身を低くすると、後ろ足を引いて飛び上がろうと身構えた。しかし、一歩遅かった。


 ドドドッと地鳴りのような音を響かせて、水の鎌首が競うように天井の穴に向かって落ちてきた。


「うわっ!」


 滝のような水が室内に流れ込み、マホロは水圧で押し流された。荒れ狂う蛇のように水は室内で暴れ回り、薬棚の抽斗を次々と破壊し、中の呪香を呑み込んでいく。


(このままじゃ俺も水に呑まれる……!)


 マホロは必死に水を掻き、辛うじて顔だけは水の上に出そうとする。止めどなく流れ込む水は、すでに室内の半分以上溜まり、マホロの脚は床に付かなくなっていた。


「ぐっ、ごふっ、くそっ……!」

 

 マホロの巨体が水圧に負けて妻戸(つまど)の方へ流される。ドンッと背中が扉にぶつかり、衝撃で大量の水と共に外に押し流された。


「げほっ、げほっ……!」

 

 庭に掃き出されたマホロは、地面に投げ出され、むせつつもヨロヨロ立ち上がった。

 

 上空で優雅に漂う白竜を睨み上げる。


「おい、白蛇! 俺を殺す気かっ!」

「でも、呪香はすべて無効化できたろう?」


 白竜は、クイっと顎で庭を示した。


 見ると辺り一面、雨が上がった後のように地面はぬかるみ、大きな水たまりができていた。その水たまりの中に溶けかかった紙と溶け出した呪香が浮いていた。開け放たれた妻戸から垣間見えた室内もめちゃくちゃで、薬棚は完膚なきまでに破壊されていた。無事な呪香は一つもないだろう。

 

 気が付けば、あの部屋に充満していた呪香の香りもすっきり洗い流され、マホロ自身の鼻も鋭敏さを取り戻しつつあった。辺りに漂っているのは、清純な水の香りとほのかに甘い、かすかな香りだけだ。

 

 白竜は機嫌良さそうにその場で八の字にクルクルと飛んでいる。


「あんたが香りを食べるよりもずっと簡単だったろう?」

「俺は死にかけたけどな。俺に謝罪はないのか?」


 身を低くして唸りながら抗議すると、白竜は動きを止め、ふいに顔を横に向けた。


「おやまぁ」

「話を逸らすな!」

「いいのかい? あの娘を助けなくっても」


 白竜がクイッと顎でしゃくった方を見て、マホロはハッとした。


「馨花!」


 母家を挟んだ向こう側から、橙の香りとピリピリするような危険な香りが立ち上っていた。早く行かないと、弓削に何をされるか分からない。


 マホロはブルルッと身体を震わせて水気を飛ばすと、空に駆け上がった。


「あたしにお礼の一つもあって良いと思うんだけどねぇ?」


 通りすがりざま、白竜がブツブツと文句を言っていたようだが、聞こえなかったフリをしてマホロは空を駆けた。

馨花を助けにマホロは向かうが――?

次回「7.黄泉の香り」につづく。

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