5.無臭
朝露の香り漂う中を、マホロは馨花を背に乗せ、アヤカシ山の中程に降り立った。ちょうどマホロが白蛇を助けた辺りだ。それなのに割った甕の欠片がなくなっている。それだけではない。
(何かがおかしい……)
マホロは注意深く周りながら、鼻をクンクンと動かした。
「妙だな」
「どうしたの?」
背に乗っている馨花が訊いてくる。マホロは足を止めて琥珀色の目を細めた。
「アヤカシの匂いがしない。普段なら誰の臭いか判別できないくらいたくさん漂っているのに」
それが今は全く感じられなかった。
背中に乗った馨花がハッと身を固くする。
「もしかして、もう弓削が……?」
「いや。弓削の臭いも、呪香を使ったような残り香もないから、その心配はないと思うが……」
この静けさは、それ以上の何か異常事態を示しているようで気味が悪い。山からアヤカシが消えるなど、この山がアヤカシ山と呼ばれるようになってからはなかったことだ。
「もしかしたら、マホロが攻撃を受けたのを見て他のアヤカシ達は逃げたのかしら……?」
「それならいいけどな」
自ら危険を察知して避難してくれたのであればこの上ない。マホロは元々アヤカシを避難させるのではなく、馨花を弓削から救いたかったのだ。
マホロは足を止めると背後の馨花を窺った。
「なぁ、助けるアヤカシもいないなら、ここに長居は――」
「ごめんなさい、マホロ。ちょっと降ろしてもらえる?」
「は?」
言葉を遮られ、マホロはよく分からないながらも腹ばいになって馨花が降りやすいようにしてやった。
「ありがとう」
背から降りた馨花は、地面に座ると懐から二枚貝の香合を取り出した。マホロは地面に伏せたまま馨花に向き直って首を傾げた。
「馨花、何してるんだ?」
「呪香の準備よ」
馨花は取り出した香合をパカッと開ける。中には数粒の丸薬状の練り香が入っており、優しくて甘い花の香りと、スッとした清涼感のある香りがした。
「これは……霊菫と仙薄荷か?」
たゆたう香りの端っこをつまみ食いして分析すると馨花が頷いた。
「私が調香した浄化香なの。あらかじめこれを使っておけば、後で弓削がアヤカシに害を与えるような呪香を使っても効果を打ち消せるはずよ」
「でも、ここでそんなことしても無駄じゃないか? 守るべきアヤカシもいないのに」
弓削が万が一呪香を使ったとしても、傷つくアヤカシは一匹もいないのだ。効果を打ち消す呪香を焚いたとしても、もったいないだけな気がする。しかし、馨花は眉を下げた。
「でも、アヤカシ達がこの山に帰ってきた時に悪意のある呪香の香りが残っていたら嫌でしょ? もちろん、弓削がアヤカシのいないことに気が付いて、そのまま帰ってくれれば良いんだけど……」
念のため、と言いつつ、馨花は香合の中身を念入りに確かめている。
(驚いたなぁ)
これほどアヤカシに気を配る術師をマホロは今まで見たことがなかった。
まじまじと馨花の姿を見ていると、その視線に気が付いた馨花は急に慌て始めた。
「ご、ごめんなさい! すぐに済むから……!」
「あ?」
馨花はマホロの視線を急き立てられたと感じたらしい。香合から一粒呪香を取り出して手のひらに載せると、ギュッと目を閉じて小声で素早く唱え始めた。
「我が力、香りに宿れ。宿りて揺蕩え、祓えの香」
声に呼応するかのように、呪香の内側からキラキラと星のような瞬きが漏れ出す。
「この場を蝕む汚れの香を、清め、祓い、塞き止めたまえ」
すっと瞼を開いた馨花は、手のひらで輝く呪香に向けて、ふぅっと息を吹きかけた。すると、丸い粒だった呪香はサラサラと砂のように形を解き、煌めく砂粒となって霧散した。
(これは……)
マホロはうっとりと目を閉じて息を吸い込んだ。スッキリとした爽快感のある仙薄荷と霊菫の香りが全身を駆け巡り、後から瑞々しい橘のような香り――呪香の使用者である馨花の魂の香りが、一陣の風のようにマホロの中を通り過ぎる。
(あぁ……うまい)
体内の悪い物が一掃され、代わりに純粋で高い霊力が湧き上がってくるようだ。仙薄荷と霊菫をただ調合しただけでは、このような呪香は作れない。おそらく、調合をする際、自分の霊力を練り込んで作っているのだろう。
もっと香りを食べたいところだが、全部食い尽くしては元も子もない。何とか自分を制し、辺りの様子に意識を向けると、呪香を使う前よりも空気が澄んでいるのが分かった。元々悪い気が立ちこめている場ではなかったが、それでも一段と清らかになっている。
「すごいな、お前」
感嘆の声を上げると、馨花は驚いたようにマホロを見返した。
「馬鹿なことしてるって思ってるんじゃないの?」
その言葉に、マホロは苦笑いする。
「いいや、お前みたいな術師は初めて見たから驚いてただけだ」
「そうだったのね」
馨花はホッとしたようにつぶやくと、ほわほわっと柔らかくて温かみのある春の野原のような香りがした。しかし、その奥にどこかモヤモヤとしたはっきりしない、ぼやけた臭いもある。
(安心と不安が入り交じった匂いだな)
人間の感情は、時として香りを纏うことがある。それを感じ取れるのも香狐ならではの技だ。
(たぶん馨花は……)
マホロは馨花の前で腹ばいになると、チラリと馨花を見上げた。
「でも、これだけじゃアヤカシ山全体に呪香の効力は行き渡っていないだろ?」
「え……? えぇ、そうだけど……」
「じゃあ早く行こうぜ。アヤカシ山を廻ろう」
その瞬間、馨花から漂っていた不安な香りが消え、春の野原の香りが強くなった。思った通り、マホロがこれ以上協力するのを拒むことを懸念していたらしい。香りとは裏腹に、馨花は遠慮がちにマホロに手を伸ばす。
「ごめんなさい。またお願いできる……?」
「お安いご用だ」
背中に馨花が乗ったのを確認すると、マホロは再び空に舞い上がった。
●
そして、アヤカシ山全体を覆うように呪香を広げ終わったのは、正午をゆうに過ぎた頃だった。
「こんなに動き回ったの、久しぶりだわ……」
再び山の中腹に戻ってくると、馨花は疲れたように息を吐いた。マホロは手頃な場所に馨花を降ろすと、馨花の背中側に廻って伏せた。
「寄りかかって良いぞ」
「ありがとう」
馨花は遠慮がちにマホロの背にもたれ、薄く笑った。
「前は一日中動き回っても平気だったのに……」
そういう馨花の顔が木漏れ日に照らされる。不健康なほど青白い肌が、馨花があの部屋で過ごした日々の長さを物語るかのようだった。
馨花はおもむろに懐から懐紙を取り出すと、その拍子にはらりと何かが馨花の膝の上に落ちた。
「なんだこれ?」
「あ、弓削から押しつけられた依頼書だわ……」
懐紙で額を拭った馨花が紙を取り上げる。
マホロが鼻を近づけてみると、かすかに弓削が放つ汚れた魂の臭いがした。反射的に鼻に皺が寄る。しかし、それ以外の匂いも混ざっている。泉のほとりに実る若い桃のような瑞々しい甘い香りだ。なんとなく嗅ぎ覚えがあって気になる匂いだが、どこで嗅いだのか思い出せなかった。それよりも、依頼書の中身の方が気になる。
「あいつ、どんな呪香をほしがってるんだ?」
馨花に中を見るようにうながす。
「たぶん前と同じものだと思うけど……」
馨花は折り畳まれた紙を広げて目を通すと、次第に顔つきが曇ってきた。
「うぅん……」
難しい顔をしている。
「なんて書いてあったんだ?」
「それが……」
こちらに見せてくれた紙には、二つの呪香を所望する旨が書かれていた。
一つは「調伏ノ香」。もちろんアヤカシを祓うためのものだ。
(まぁこれは想定内だな)
隣に書かれた言葉に目を移す。
もう一つは、白蛇を甕に閉じ込めていた「捕縛香」……ではなく……
「口無ノ香?」
あまり聞き慣れない言葉にマホロは馨花を見上げた。馨花も不思議そうな顔をしている。
「この呪香は、声を奪う呪香なの」
「そんなの使い道あんのか?」
「それが、お貴族様のお子様には結構人気が高かったみたいで、何度か作らされたのよ」
馨花は考え込むように口元に手を当てて続ける。
「口げんかで言い負かされそうな時とか、お母さんに自分の話を聞いてもらいたい時に口無ノ香を焚けば、相手がしゃべれない間に自分は言いたいことが言えるってわけ」
もちろん、口無ノ香を焚いた本人には術が効かないように、事前に反対効果のある呪香を自分に焚きしめておく必要はあるが、それでも相手を簡単に黙らせることができるということで、それなりに需要があったらしい。
「そんなことに呪香って使って良いものなのか?」
すごい呪香なんだろうが、力の無駄遣い感が否めない。少し予想とは違った呪香の使い道に顔をしかめていると、馨花は笑って一蹴した。
「日常の困りごとを解決する手助けができるなら良いのよ」
「じゃあ、それを弓削が何に使うつもりなんだろうな?」
まさか口げんかで負けないためにご所望というわけではないだろう。
馨花も首を捻っている。
「そこなのよ。しかも、手紙の二枚目に、調伏ノ香は効力を弱めて、同封の物を練り込めって書いてあるの。どういう意図なのかしら?」
そう言って馨花は何かを摘まんでマホロの鼻先に差し出した。人の形に切り取られた紙で、陰陽師がよく術に使う人型だ。しわしわな上、何カ所も裂け目が入っていて使い古された物であることが一目で分かる。
「この匂い……」
鼻を近づけ、スンスンと嗅いでみると、この手紙から最初に感じた桃の香りが漂っていた。記憶の中に引っかかっている匂いだ。
(人型、陰陽師、桃……)
過去をたぐり寄せ、ハッと思い出した。
「この匂い、安部家の人間の匂いだ!」
「本当⁉」
驚く馨花にマホロは確信を持って頷いた。
「あぁ。あの一門のやつらは揃って桃の香りをさせてるんだ。霊力の強さがプンプンしてる」
だから間違いない。
「でも、なんでそんな物を調伏ノ香に混ぜる必要があるんだ?」
弓削にとって安部は蹴落としたい相手のはずだ。チラリと見上げると、馨花も眉間に皺を寄せている。
「そうよね。調伏ノ香に安部の匂いを付けてしまったら、アヤカシを退治しても安部の手柄になってしまいそうなのに」
「安部の手柄……?」
馨花の言葉に、マホロはおもむろに身体を起こした。
「どうしたの?」
馨花が不思議そうに見上げてくる。その視線を感じながら、マホロは脳内で素早く情報を整理していた。
(声が出なくなる口無ノ香にわざと効力を弱めた調伏ノ香、安部の匂い付け。弓削は安部を疎ましく思っている……とすると)
マホロはこの考えが当たっていないことを願いながら馨花に向き直った。
「馨花。弓削が去り際に奪っていったのって霊香だよな?」
馨花はマホロの質問の意図が分からないのか、少々困惑した顔で頷いた。
「え、えぇ。言ったでしょ? 弓削は霊力が弱くて、自分の力だけじゃアヤカシを視ることもできないの。だから、霊香はこの家に来てから毎日のように作らされてたわ」
「やっぱりな」
当たってほしくなかった考えが当たってしまった。マホロが耳を伏せると、馨花が不安げに目を瞬いた。
「何? それがどうしたの?」
「弓削の目的はアヤカシ山でアヤカシ狩りをすることじゃない」
口の中に苦い物が広がるのを感じながら、マホロは導き出した結論を告げた。
「おそらく、アヤカシを騙して、安部を襲わせるつもりだろう」
「どういうこと?」
怪訝そうに問われ、マホロは馨花の前を行ったり来たりしながら考えをまとめる。
「霊香は、香りを嗅いだ奴の霊力を強制的に倍増させる呪香だろ? ということは、だ。その香りを嗅いだアヤカシの霊力も、もれなく増幅させる力を持ってるってことだ」
馨花も考えを巡らせるように口元に手を当てている。その姿をチラリと見ながら、マホロは続ける。
「しかも、アヤカシは元々霊力が高い。少量の霊香ならちょっと元気になるくらいだろうが、過剰摂取したら……おそらく狂う」
マホロの言葉に馨花がピクリと反応する。窺うようにマホロを見つめる。
「狂ったら、どうなるの?」
「判断力が鈍って攻撃的になる」
馨花が小さく息を呑んだのが分かった。馨花は恐る恐る、と言った様子で言う。
「そんな時に人間から襲われたら、怒って手当たり次第人間を攻撃するんじゃない?」
「あぁ。だから、アヤカシ達の攻撃対象を一人に絞るため、匂い付けをしろってことなんだろうな」
効力を弱めた調伏ノ香で押さえ込めるようなアヤカシはいない。逆に、調伏ノ香の匂いを頼りに、襲ってきた人物を特定し、アヤカシ達が反撃に出ることは容易に想像できる。
「あらかじめ安部に口無ノ香を使っておけば、安部はお終いだ」
陰陽師はまじないを唱えることで術を発動させている。その声を封じてしまえば、安部はただアヤカシに襲われるしかなくなるというわけだ。自分の手は汚さず、邪魔者を排除しようとする弓削の魂胆にマホロはますます顔をしかめた。
(つくづつ気にくわない奴だ)
「どうしよう……私のせいで……」
真っ青な顔でつぶやく馨花に、マホロは足を止めた。
「そんなに気にしなくても平気だろ? 依頼された呪香を作らなければ、あいつの手元にあるのは霊香だけだし、もしそれをアヤカシ山で使ったとしても、一つや二つだけなら、さっき馨花が広げた浄化香で無効化できるだろ?」
そんなに心配する必要はないのに、馨花は浮かない表情で首を振った。
「浄化香は、アヤカシに害を与える物に効果があるの。霊力を高める霊香には効果があるか分からないわ。それに……」
馨花はそこで口をつぐんだ。その様子に、なんとなく嫌な予感が沸き上がる。
「……もしかして、弓削の奴、すでに調伏ノ香と口無ノ香を持ってる、なんてことは――」
「あるかもしれないわ」
「あるのかよ⁉」
マホロは思わず前足で目元を覆った。それに対して馨花は言い訳のように言う。
「言ったでしょ? 今まで色々な呪香を作らされてきたの。もしかしたら、使わずに取っておいた物があるかもしれないわ。今日作れって言ってきたのは、予備のためっていう可能性もあるもの」
「なんてこった」
マホロは地面にペタンとお尻を付けると、両前足で頭を抱えた。アヤカシ達がいない今なら良いが、もしアヤカシが山に帰って来た時、弓削が三つの呪香を使ってしまったら、弓削の計画は成功するに違いない。
わずかな希望を持って、マホロは頭から前足を外して馨花を見る。
「その三つの呪香の効果を消す浄化香を、今調合することはできるのか?」
「無理よ。材料がないもの」
ダメ元で訊いてみたが、やっぱり無理らしい。
馨花は思い詰めた表情でマホロを真っ直ぐに見つめる。
「お願いマホロ。これ以上、私の呪香で誰かを傷つけたくないの」
「あぁ、分かってる」
マホロはため息交じりに頷くと、馨花の前で再び腹ばいになった。
「弓削の手元にある呪香をすべて取り返そう」
弓削の企みを阻止するため、二人が向かった先は――?
次回「6.鈍る嗅覚」につづく。