4.香の効能
男がいなくなったのを確認して、マホロはポンッと音を立てて元の大きさに戻ると馨花の元に近寄った。体高が高くなり、数段上がった濡れ縁に座る馨花と目線が同じになる。
「大丈夫か……?」
ハッとした様子でこちらを見た馨花の頬が、月明かりの元でもはっきりと分かるほど赤くなっていた。あの男が扇で思いっきり叩いたからだろう。とても痛そうだ。
馨花は手に握らされた紙を懐にしまうと、頬を軽く撫でた。
「平気。これくらいいつものことだし、もう慣れたわ」
「慣れたらダメだろ!」
薄く笑う馨花にマホロは耳を伏せた。
(いつものことって……あの男はいつもこいつに暴力を振るってるのか?)
考えただけで反吐が出そうになる。怒りで毛が逆立つのを感じながら、マホロは庭の植物の間に顔を埋めた。
「どうしたの?」
馨花が高欄から身を乗り出して興味深げな視線を向けてくるのを感じながら、マホロは鼻をうごめかして四季折々の草花の中から今必要な一つを探り出す。
(これだな)
最適な香りを嗅ぎ当てて、肺いっぱいに思いっきり吸い込んだ。スッとした清涼感のある香りが鼻腔を通って全身を駆け巡る。限界まで吸い込んで一瞬息を止めてから、高欄からのぞき込んでくる馨花の頬めがけて細く吐き出した。
「ふぅぅ~」
「っ⁉」
馨花は驚いたように頬に手を当てて身を引いたが、次の瞬間不思議そうに目をパチパチさせた。
「あれ? 痛くなくなった……? それに……これって仙薄荷の香り?」
うっとりと目を瞑る馨花にマホロは頷いた。
「あぁ。この仙薄荷が持つ『冷却』の力を増幅させて使ったんだ」
香狐は香りを体内に取り込み、それぞれの香りが持つ力を増幅させて使うことができるのだ。ただし、香りを食べた時と同じように、対象からは魂が抜かれてしまうので、仙薄荷や、先程男の暴挙を留めるために「精神鎮静」の力を使った霊菫の花はマホロの足元で枯れて横たわっている。
「なんで……」
顔を上げると、馨花は驚いたように目を見開き、マホロをじっと見つめた。
「なんで私を助けてくれたの? あなたは私のせいで死にかけたのに……。私が呪香師だって、気が付いているんでしょう?」
キュッと眉根を寄せ、馨花はマホロの顔から血の跡が残る左後ろ脚に視線を移した。自分が怪我をしたわけでもないのに、痛そうに顔を歪めている。
マホロはフンと鼻を鳴らした。
「あぁ。だけど、お前の意志じゃなかったんだろ?」
馨花の今の顔と、あの男とのやり取りを見ていれば一目瞭然だ。呪香を作ったのは馨花だろうが、アヤカシ山で呪香を焚いて直接マホロを襲ってきたのはあの男に違いない。
「どうせあの男に脅されて無理矢理呪香を作らされたんだろ。あいつ、何者なんだ?」
問い掛けると、馨花はマホロの後方にある板垣の向こう側を見るように視線を遠くに投げた。
「あの男は弓削通。この屋敷の主で、陰陽師よ。ただし、アヤカシを視ることも祓うこともできないほど霊力が弱い、『落ちぶれた』ね」
「なるほどな」
その言葉で合点がいった。弓削がマホロに気が付かずに目の前を素通りしたのも、弓削が叩き割った香合から飛び散った呪香に霊力を強制的に上げる力が付与されていたのも、そういう理由からだったのだ。
そして、アヤカシ山で白蛇が言っていた言葉も思い出す。
『あたしらアヤカシにとって一番厄介な奴はね、分不相応な力を手に入れた野心家さ』
分不相応な力――つまり身の丈に合わない強い霊力を欲した弓削のことを言っていたのだ。
「弓削は呪香師であるお前を利用して、霊力を手に入れようって魂胆だったわけだ」
マホロの言葉に馨花はこくりと頷くと手元に視線を落とした。
「うちは元々呪香師の家系で、呪香を作って村々を巡ってたの。都近くに来た時に弓削に出会って、陰陽師を介せばより多くの人の役に立てるって言われて……それで、その……」
馨花が躊躇うように口をつぐんだが、続きをうながすように見つめると馨花の目が泳いだ。
「えぇと…………弓削と、婚約しちゃったの」
「はぁ⁉」
予想外すぎる言葉に全身の毛が逆立った。
「こ……婚約って言ったか……⁉」
聞き間違いであることを期待して聞き返したのだが、馨花は気まずそうに頷いた。思わず天を仰いでしまう。
「何でだ⁉ あんな汚れた魂の臭いプンプンさせてんのに‼」
「そ、そんなこと私には分からないもの! それに、弓削から申し込まれた時は、ちょうど師匠だった父も亡くなって、呪香師を一人で続けていくのが不安だったから……それで……」
赤くなって慌てて釈明する馨花の言葉尻が徐々にゴニョゴニョとかき消えていく。
どうやら弓削は、馨花が一番弱っている時に甘い言葉で籠絡したらしい。
(気にくわねぇな)
マホロは鼻に皺を寄せた。初めから気にくわない野郎だとは思っていたが、予想以上に魂は真っ黒のようだ。
馨花はふと畑に目をやった。
「最初は弓削も親切だったわ。この場所を私に与えてくれて、望んだ植物を取り寄せてくれて畑を造ってくれて。だから私――」
一度言葉を切ると馨花は顔を曇らせた。
「だから私、恩返しのつもりで弓削がほしがっていた呪香を作ってしまったの……」
初めは魔除けや霊力向上効果がある呪香を欲していただけだったらしい。しかし、次第に人に害を与えられるような呪香を求め始めたため、馨花は不穏な気配を感じ、婚約の話を白紙にしてもらおうとした。しかし――
「結果がこれよ」
そう言って、馨花は裾をめくって脚をさらした。その光景に目を見張る。
膝下から足首まで、引き攣れたような無数の傷痕があった。暗闇でもはっきりと分かるほどの痛々しいそれは、どう見てもただの傷ではなかった。
「刀傷か……?」
馨花は目を伏せて頷いた。
「呪香師としての私を失いたくなかったんでしょうね」
馨花は動かない脚にそっと触れた。
「それからはここから出ることを禁じられて、呪香ばかり作らされたもの」
「なんてヤツだ……!」
マホロは低く唸り声を上げた。自分の欲のために人を痛めつけたあげく、縛り付けるなんて許しがたい。
しかし、馨花は顔を上げてマホロを見ると儚く笑った。
「あ、でも、この傷のせいでどうせ歩けなくなってしまったから、閉じ込められてもそんなに気にはならないの」
すべてを諦めきったような表情にマホロの胸がギュッと締め付けられた。自由を奪われ、絶望する感覚をマホロは知っている。それがどれだけ寂しく孤独なことかも。
マホロは確かめるかのようにじっと馨花を見つめた。
「じゃあ、お前はこのままでいいのか?」
静かな声音に馨花の身体がピクリと揺れる。そして目を伏せ、少し考え込むように押し黙ってから、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、そうは思わない。……だから、あなたにお願いがあるの」
「なんだ?」
マホロはお座りの姿勢を正して耳を傾けた。
(誰かに虐げられているヤツを放っておくなんてできないからな)
馨花にお願いされるまでもなく、マホロの心は決まっているが、馨花の口からどうしたいか聞きたかった。身体だけではなく心も自由になるには、現状を変えたいと願う気持ちが重要なのだとマホロは経験から分かっているのだ。
馨花は床に額を擦るほど深々と頭を下げた。
「アヤカシ山のアヤカシ達を避難させてほしいの」
「はぁ?」
思いがけないお願いに、マホロは拍子抜けしてしまう。
「なんでアヤカシ? 今はお前のことを話していたはずだろ?」
馨花は顔を上げると真っ直ぐにマホロを見た。
「そうよ。私だって今の状況をそのままにはしておきたくないわ。私の呪香がこれ以上あいつに悪用されないようにしたいの」
(そういうことじゃねーんだけどなぁ)
とマホロは思うものの、馨花の瞳は真剣そのものだ。
「弓削は陰陽師として一人前だということを示そうとしてるの。そのためにもう一度、アヤカシ山でアヤカシ狩りをするつもりよ」
マホロを襲った時、成功しなかったからまたやってくるのだと馨花は言う。しかしその言い分にマホロは納得しかねる。
「でも、一度失敗しているなら他の場所に行くんじゃないのか? 俺なら狩り場が悪かったら場所を変えるね」
「それはないわ。弓削はアヤカシ山にこだわっていたから」
馨花はきっぱりと言い切った。
「弓削は安部を敵視してるの。同い年でいつも比べられてきたから」
そして、思案するように目を伏せる。
「だから、安部の一門が都から追い出すだけで倒すことのできなかったアヤカシ達を自分が狩ることで、自分が安部よりも力があるということを示そうとしているんだと思う」
馨花は膝の上に置いた手をギュッと握りしめた。顔が苦しそうに歪む。
「もう私の呪香で誰かが傷つくのを見たくないの……だから……」
ギュッと唇を噛み、馨花が下を向く。馨花の豊かな黒髪が前に垂れ、顔を覆い隠す。
「お願いします」
「そうだなぁ」
マホロは後ろ足で耳の後ろをカシカシと掻いた。弓削に襲われた身としては、他のアヤカシが危険にさらされるのなら放っておくことなどできはしない。アヤカシ達の楽園であるアヤカシ山を弓削に荒らされるのも嫌だった。あそこはマホロのお気に入りの場所でもあるのだ。しかし……
「絶対、嫌だね」
マホロがプイッと顔を背けると、反射的に馨花が顔を上げたのが感じられた。
「……そうよね」
馨花の声が震えている。
「変なこと頼んでごめんなさ――」
「勘違いするんじゃねーよ」
マホロはフンと鼻を鳴らして馨花を一瞥した。
「馨花も一緒に手伝ってくれなきゃ嫌だって言ってるんだ」
「え?」
馨花は目を丸くしてマホロを見た。どうやら予想外の言葉だったようだ。
マホロは立ち上がると、濡れ縁に近寄って、驚きに固まる馨花の鼻に自分の鼻をちょんっとくっつけた。
「お前を置いて行ったら、絶対に弓削は馨花に八つ当たりするだろ? 俺だって誰かが傷つくって分かってて見捨てたくないんだよ」
そう言ってマホロは片目を瞑って見せた。
「アヤカシ山のアヤカシを救うなら、一緒に行こうぜ」
「で、でも、私、この脚じゃ歩けないし、なんの役にも――」
「へーきだよ」
マホロは馨花の不安を一蹴すると、高欄をヒラリと飛び越し、馨花の前で腹ばいになった。
「俺に乗ればいい」
「えっ、でも……」
オロオロとしている馨花が何だかおかしくて、マホロは笑った。
「だいじょーぶだって! ほら、俺の首に手を回せよ」
馨花の袂の端を軽く咥えて引っ張る。
「きゃっ、ちょっ、ちょっと!」
馨花が体勢を崩して首に抱き着いてきた。まだ躊躇いがちな馨花に最後の追い打ちを掛ける。
「ほら。早くしないと、アヤカシ山に行くのが遅くなるぞ?」
「う……分かったわ」
馨花はようやくおずおずと膝立ちになると、マホロの背にまたがった。
(軽いなぁ)
仔猫でも乗っけているのかと思うほどのわずかな重みだ。
「しっかり捕まってろよ」
自分の首に馨花の腕がしっかり回ったのを確認して、マホロは立ち上がると同時に四肢に力を入れて飛び上がった。
「っ!」
馨花が小さな悲鳴を上げたのが聞こえる。その反応が何だか新鮮で、気を良くしてぐんぐんと高度を上げていくと、慌てたような声が聞こえた。
「ちょ、ちょっと香狐さん! もう少しゆっくり――」
「あ、そういえば俺ってお前に名乗ってなかったっけ?」
香狐さん呼びで気が付いた。馨花は名乗ってくれていたのに、あの男の出現のせいですっかり忘れていた。高度を上げる足を止め、改めて名乗ることにする。
「俺はマホロ。よろしく」
顎を上げて告げると、背中の上で馨花が姿勢を正したのが伝わってきた。
「あ、こちらこそよろしくお願いします」
顔が見えないのが残念だ。
背中にほのかな温かみを感じながら、マホロは視線を行く手に向ける。まだ夜の色を残す西の空を背景に、アヤカシ山が存在感を主張するように佇んでいた。
いざ、アヤカシ山へ。そこで二人を待ち受けているのは――?
次回、「5.無臭」