3.汚れた魂の臭い
マホロは身を低くしたまま、やって来た男を目で追った。
肌は不気味なほど青白く、髪は墨のように真っ黒で、目が隠れるほど前髪を長く垂らしている。重たい前髪の隙間から覗く瞳は切れ長で、冷たい光を帯びていた。片手には扇を持っている。
男が一歩足を踏み出すたびにぷわんと漂うのは、アヤカシ山で嗅いだ死臭――汚れた魂の臭いだ。
(この男、娘と組んで俺を襲ってきたのか……?)
男はマホロの存在に気が付いていないのか、目の前を素通りすると階段を上って濡れ縁に座る娘に近づいた。
「馨花! お前わざとまじないを掛けなかったな⁉」
娘は名を馨花というらしい。馨花は怒鳴り散らす男をチラリと見ただけで、すぐに顔を逸らした。
「私はあなたの命令に従っただけですが」
「ふざけるな! これのどこが命令通りなんだ‼」
男は懐から取り出した小さな容れ物を床にたたきつけた。ガシャンと容れ物が割れる音がして、辺りに爽やかな檜と柚子の香りが広がった。霊力増幅の力があることが嗅ぎ取れたマホロだったが、すぐに前足で鼻を押さえた。
(気持ち悪……)
男の臭いと交ざったおかげで、鼻が曲がりそうな反吐が出そうな臭いになっている。
「これを使っても何も視えなかったぞ!」
男は悪臭を撒き散らしながら喚いた。その言葉に馨花はフッと息を吐き、つぶやく。
「あなたの力が弱すぎるのよ」
その瞬間、男がやにわに閉じた扇を持つ手を振り上げ、馨花の頬を叩いた。乾いた音がマホロの耳に届く。
(あいつ……!)
マホロは全身の毛を逆立て、立ち上がった。しかし、馨花はチラリとマホロを見て、来るなと合図してきた。その仕草にマホロは目を剥く。
(なんで止めるんだ!)
マホロは歯噛みして辺りを見回した。目の前で一方的に暴力を振るわれているものがいるのに、ただ見ているだけなんてできるわけがない。
(何かないか? 使えそうなものは――)
男から滲み出る淀んだ臭いが嗅覚を鈍くする。必死に鼻を動かして周りの草花の匂いを嗅いで、目的のものを探す。
男は閉じた扇の先を馨花の顎に掛けると、自分の方に上向かせた。
「なぜそんなに反抗的になった? 初めはあんなに喜んでいたのに。お前だって我が弓削家の再興を望んでいただろう?」
男の言葉に馨花は蔑んだ笑みを浮かべた。
「これまでの人生で最大の過ちだった」
「口に気を付けろ」
男は無造作に馨花の豊かな黒髪を掴むと、グイッと引き上げた。
「っ!」
馨花の顔が苦痛に歪む。男は馨花の顔に触れそうなほど頬を寄せると、ニタリと笑った。生気のないうつろな目は、殺意に血走っている。馨花はグッと唇を噛みしめる。
「呪香を調香する能力があれば殺されないと高をくくっているんだろうがなぁ、痛めつけることはできる」
歯の隙間から息を吐き出すようにささやくと、馨花の髪を掴んだ手を乱暴に伸ばして、反対の手に持った扇を大きく振りかぶった。
(これだ!)
ちょうどその時、マホロはようやくお目当ての匂いを探し当て、パクッとその香を口に含んだ。そして気合いを入れて、ふぅ~っと息を吐き出す。
途端に、辺り一面に、瑞々しい果実と優しくて甘い花の香りを合わせたような、菫の香りが広がった。香りは地面を滑るように進み、階段を駆け上がって二人を取り囲む。
「……っ?」
男が振り下ろした手が、馨花の頬を打つ寸前でピタリと止まった。男は怪訝そうな目で馨花を見ると、ふと気が変わったかのように手を下げた。
「興が冷めた」
そう言って、強く掴んでいた馨花の髪を乱暴に突き放した。その反動で濡れ縁に倒れ込んだ馨花は恨みがましげに男を見上げる。男はまるで汚い物を触った後のように、髪を掴んでいた手を宙で一、二度払うと、濡れ縁から無遠慮に室内に踏み込んだ。
「何するの⁉ 勝手に触らないで!」
「お前に指図される筋合いはない」
止めようと腰に縋り付こうとした馨花を、男は面倒くさそうに避けると、壁一面の薬棚の下段を漁り始めた。しかし、先程の様子とは打って変わって、その仕草には荒々しさがなくなっている。
(よし! 効いてるな)
我ながら上出来だ。マホロは満足げに息を吐いた。足元に咲く霊力を蓄えた紫色の霊菫は、先程までの元気が嘘のように萎びていた。
馨花は、男が突然態度を変えたことに驚いているのか、不審げな目を男に注ぐだけで、濡れ縁からその様子を傍観している。
男は何個目かの抽斗を開けると、中から何かを取りだした。
馨花に向き直った男の手には、二枚貝を合わせた容れ物が載っていた。蓋を開けて、鼻の下で容れ物を薫らし、息を吸い込む。
「ふぅー……香りは上乗だな。まじないは? 今度はちゃんと効くだろうな?」
馨花は苦々しげな顔で、黙って頷いた。男は満足げに唇の端に笑みを浮かべる。
「それは結構」
男は容れ物を懐にしまうと、代わりに折り畳まれた紙を馨花に差し出した。
「念のため、これも用意しておけ」
しかし馨花は受け取らず、首を横に振った。
「嫌。私はもう、誰かを傷つける呪香は――」
「やれ」
男は威圧的に言うと、馨花に無理矢理紙を握らせた。
「調香できないならお前に用はない。それを肝に銘じて、お前の成すべきことを考えるんだな」
ねっとりとした声で一方的に告げると、男は階段を降り、マホロの前を通ってその場を立ち去った。濡れ縁では、馨花が神妙な顔つきで考えに沈んでいる。
辺りに漂う爽やかな心安らぐ花の香りに、あの男の残り香が混ざっている。
(嫌な臭いだ)
マホロは鼻に皺を寄せた。
男と馨花の関係とは――?
次回「4.香りの効能」につづく。