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2.もの悲しい橙の香り

 サヤサヤと風が鳴っている。

 

 パチリ、と目を開けるとマホロは花畑の真ん中に座り込んでいた。自分を取り囲むように、紫や白の花弁を付けた花々が季節を越えて色とりどりに咲き誇っている。遠目には、新緑の立派な檜や、黄色い実と白い小花を付けた柚子の木も見えた。

 

 甘い芳香に、ぎゅるぎゅると腹が情けない音を立てる。こんなに旨そうな匂いに囲まれているのに、このまま指をくわえてみているなんてできない。我慢も限界だ。


「いっただっきま~すっ!」


 マホロは元気よく挨拶をして、大きく息を吸い込んだ。どの花の香りかなんて、気にしていられなかった。辺りにある香りを片っ端から吸い込んで、咀嚼し、体内に吸収していく。それでも全然腹は膨れず、物足りなさが付きまとう。


(もっとたくさん食べないと)


 そうしないと、身体が回復しない。


 そう思って、より一層大きく息を吸い込むと、今までとは違う香りが鼻孔を通り抜けた。


 もの悲しい夏の夕暮れを彷彿とさせるような、(だいだい)の花の香りだ。


(どこに橙が――)

 

 ふと顔を上げ、マホロはギクリと身体を揺らした。

 

 いつの間にか辺りに咲き誇っていた花々は消え失せ、枯れ野になっていた。色を失った野っ原に、人が一人、こちらに背を向けて立っている。


「なぜだ?」


 低い声が響き、男が振り向いた。


「なぜ、言った通りにできない?」


 もう絶対に会うことはないはずの人物が、こちらを威圧的に見下ろしてくる。瞳にはいつもと同じ、蔑むような冷たい光が宿っていた。


(あぁ、そうか)


 マホロは目を閉じた。


(これは夢だ)


 久しく見ていなかった悪夢という名の記憶の断片。


「お前のような出来損ないをわざわざ拾ってやったんだぞ」


 怒気を含んだ声が辺りに響く。


「もっと私のために働け。お前は私の道具なんだから」


「余計なことは考えるな。ただ従え」


 とげとげしい声がマホロを突き刺す。


 そしてマホロを踏みつけるのは、(あるじ)だけではなかった。


「こんな狐と、なんで一緒にいなきゃいけないんだ」


「役立たず狐の尻拭いなんてまっぴらだ」


 マホロと同じように主に使役されていた他のモノたちからも、マホロは軽蔑の眼差しを向けられていたのだった。


(あの頃は、言われたことをすべて受け止めていた)


 誰もがそう言うのだから、それが正しいことなのだろうと。自分がいけないんだ、と思っていた。


 しかし、今のマホロはそれが間違いであると知っている。主から解放され、方々巡り、自分以外のモノと接する中で気が付いたのだ。


 誰であれ、誰かに虐げられる理由はないのだ、と。


 だから、


「俺は俺の正しいと思ったことをする」


 鬱陶しい声を振り切るように、マホロは喉の奥で唸り声を上げ、目を開いた。



「……?」


 ぼんやりとした視界の中に、緑色のものが見える。


(なんだ……?)


 鼻先に感じるのは、湿った土の臭いと様々な植物の香りだ。


 マホロはゆっくり瞬きした。ぼやけていた視界が徐々にはっきりしてきて、目の前にあるのが柔らかい草だと分かる。どうやら地面に横たわっているらしい。辺りはいつの間にか暗くなっていた。


(えぇと、俺はたしか……)


 記憶をたぐりながら、ノロノロと頭だけを持ち上げる。周囲を板塀で囲われているここは、どこかの家の庭のようだった。板塀の手前には、夢で見たような花を付けた樹木が立ち並び、その手前から何種類もの草花がこちらに向かって何列も植わっている。


(この感じ、庭というより畑みたいだな)


 しかも、ただの畑ではなさそうだ。植わっている植物はどれも霊力の高い香りが漂っていて、普通の植物とは思えなかった。


 そんな植物が、マホロの周りだけ円を描くように朽ち果てていた。どうやら夢で食事をしたのと同じように現実世界でも香りを貪ってしまっていたようだ。香狐(こうこ)が香りを食べると、食べられた方は生気を奪われ、枯れてしまうのだ。そのかわり、香りの力を取り込んだマホロの身体は霊力がみなぎっていた。


(あれ? そういえば、夢では橙の香りもしてたような……?)

 

ふと思い出し、マホロが鼻先を上に向けた時だった。


「あっ、良かった。気が付いたのね!」


 後ろから上がった澄んだ声にマホロは飛び上がった。


 バッと振り返ると、雲の切れ間から月明かりが一筋差し込み、宵闇の中に板葺きの簡素な小屋を浮かび上がらせた。


 短い階段を上がった先の濡れ縁に、ちょこんと娘が一人座っている。緋袴に白衣という巫女装束に身を包み、月光を浴びて艶やかに輝く豊かな黒髪を背中に垂らしている。少し吊り上がった大きな瞳は薄墨のような色合いで、儚げに揺れながらもマホロをじっと見つめていた。小さな鼻と唇はどことなく幼さを感じさせたが、マホロは油断なく娘を注視した。


(なんだ、こいつは……?)


 娘から立ち上ってくるのは、この娘の魂の香りだ。どこかもの悲しい、橙の苦み走った爽やかな花の香り。夢で嗅いだあの橙の香りだ。心惹かれずにはいられない香りなのだが、マホロは危機感を強めた。


(これは、俺を襲ってきた呪香に混ざっていた匂いと同じだ)


 腐敗臭の奥に感じた真逆の性質の香りは、その時には気が付かなかったがこの橙を基調とした香りだったのだ。


 マホロは警戒して耳を伏せ、空に蹴り出そうと脚に力を込めた。それを見た娘は、慌てて高欄に身を乗り出してくる。


「ちょっと待って! 急に動いたら脚の傷が……!」

「傷?」


 言われてハッと思い出した。アヤカシ山で左脚に矢を受けていたのだった。


 慌てて自分の左脚を見下ろすと、赤黒い血が純白の毛にべったりと付いていた。しかし、血はすでに止まっている。身体を曲げてその箇所をペロペロと舐めてみると、不思議なことに傷は完全に塞がっていた。


(香りを食べただけじゃ、さすがにここまですぐに回復しないはず……)


 窺うように娘を見ると、娘は不安そうに眉根を寄せていた。


「止血作用のある芍薬聖(しゃくやくひじり)を使って、治癒香(ちゆこう)を作ってみたんだけど……初めてだから、うまくいかなかったかも……」

 

 震える小さな声で告げられたことに、マホロは驚いた。


「お前が治してくれたのか?」

「よ、良かった……治せてたんだ……」


 娘はホッとしたように息を吐き、そのまま頭を下げた。


「ごめんなさい。あなたに傷を負わせてしまって。謝ってすむことじゃないけど……こんなことになるなんて思わなかったの……」


 娘の消え入りそうな声に、マホロは首を傾げる。


(どういうことだ?)


 治癒力のある呪香(じゅこう)を作ったのも、アヤカシ山でマホロを襲った呪香を作ったのもこの娘のようだ。しかし、なぜ攻撃しておきながら、傷を癒し、そして謝罪をするのだろうか。


(呪香を作れるってことは、この娘は呪香師(じゅこうし)と見て間違いない)


 そう考えれば、この庭の植物が霊力が高い芳香植物だったこともうなずける。ここは呪香用の植物を育てる畑だったのだ。


 ここまで考えを巡らせたマホロの脳裏に嫌な考えが浮かび上がって、口をへの字に曲げた。


(呪香師ってことは、香りを操る連中だ。そういうヤツは大抵……)


 疑いの目を娘に向け、固い声で尋ねる。


「もしかして、俺を使役するつもりか?」

「違うわ!」


 娘は弾かれたかのように顔を上げた。


「私は――」


 言いかけた娘だったが、板塀の向こう側のざわめきに口を閉ざした。ザワザワと人がうごめく気配がする。


「やだ……今晩はもう来ないと思ったのに……!」


 娘の顔が強張ったのと同時に、マホロの鼻先にも嗅ぎ覚えのある臭いがよぎった。


「これって……」

「早く逃げて! ここにいたらあなたも捕まってしまうわ!」


 言われたマホロは、一瞬考えてから、耳の先から尻尾の先まで力を巡らせると身体の大きさに意識を集中した。シュルシュルと身体を縮め、仔猫ほどの大きさになると芍薬の花の陰に身を隠した。娘の言い方が気になったのだ。


(あなた「も」ってことは、こいつは囚われているのか?)


 ほどなくして、ザッザッと荒々しい足音と共に、辺りに怒号が響いた。


「おい! 馨花(けいか)!」

 

 腐敗臭に甘さの加わった悪心がする臭いを纏って板塀の向こう側から姿を現したのは、怒りに顔を歪めた縹色(はなだいろ)の狩衣姿の男だった。

突然やって来た男は一体――?

次回「3.汚れた魂の臭い」につづく。

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