Lv14―『診療所』・消せない着信履歴
結果から言ってしまうと、面白くもなんともないことに何も起こらなかった。
「きゃーノバスティアヌスさんのエッチー!」「HAHAHA失礼、てっきりトドが風呂場で暴れているのかと思ってNE!」みたいなやり取りは全くなかった。
藍髪の療養中少女・キシィは半脱ぎで早朝診察を受けている時に四つん這いの男が侵入してきたというのに悲鳴の一つもあげないどころか笑顔で迎え入れるという、侵入した吸血鬼もケチャップ吸って帰っちゃうレベルのもてなしをしたのであった。
まだ裸を見られることに羞恥心がない年頃なのか、はたまた異世界という所はおおらかなのかもしれない。まともな少女と出会ってきてなく判断はつかないので意見は保留。
白衣少女セニスの方はさすが医者ということで、瀕死なあるじを見るが否やベッドの上に担ぎあげた。ただの空腹なので診察するまでもないのだが、あるじの手首やらを触診する手つきは真剣そのものだ。外見はともかく白衣はダテではないということだろう。
あるじといえばいくつかの苦い薬草とみずみずしい野菜(キュウリのようなの)と水を腹に収めただけで元気になり、言葉と二足歩行と人間としての尊厳を取り戻した。でも機械じゃないんだから燃料入れたからといってすぐ全快するのは人としてどうかと思う。
餓死寸前だったあるじと違って私はそれほど空腹でもなかった。月の塔の22階あたりにあった「迷の森」や「同殖林」といった「自然IN月の塔」な感じの所に、ほんの少しだけ蛇苺っぽいのや木の実が自生していた。それを一人占めじゃなくて毒見のために食べたのだがやはり毒でもあったのだろう、すきっ腹にすっぱい実を放り込んだ途端に気を失ってしまったのだ。しばらくして気がついたら目の前に生えていた実は全てなくなっていたのだから不思議である。木の実こわいこわい。
昨日の夕食以来なのに24時間ぶりとはこれいかにな感じで食事をたいらげたのだった。
「それで、どこまで進んだんだい?」
療養少女を隣の部屋に戻して、診療室で唯一の椅子にぎしりと腰かけたセニスがそう聞いてきた。唯一の診察台に腰をかけてウサギの如くもさもさ野菜を食べていたあるじはビクリと肩を震わせた。セニスが隣室にいるあいだに黙って庭から野菜を失敬したからである。
「す、進むって何が? というか、昨日の死体さんはどこへ?」
指摘された訳でもないのに動揺して見当違いな疑問を口にするが、それは私も気になっていた。というかそれに気づきながら診察台に腰かけているあるじの肝はどんだけ太いのだろうか。
「もう〈還火〉に話は付けて運んだよ。昼ごろに火葬で煙があがる段取りになっているはずだ。それよりも、進み具合はどうだい」
「………………月の塔なら44階まで上ったけど」
「そっちじゃない」
「……………………」
心辺りが全くなかったのだろう、あるじは首を捻りながらとりあえず土下座をした。土下座はとりあえずでするものではないと思うのだが、さすがあるじ、他人が躊躇するようなことでも迷いがない。そこにシビれも憧れもしないけど。
その頭をセニスにスリッパで踏まれて取り戻した人間の尊厳を手放すことになったが、ご飯食べた程度で回復した尊厳が失われても気にする必要はないだろう。
「なんで、俺が、お前の、事情の、心配を、しなきゃ、いけねーんだい?」
「リズムつけて踏むのはやめて」
「俺が聞いているのは通り魔の調査についてだ。まさかと思うが忘れてねーよな」
セニスが言うのは月の塔を解放してもらう代わりに引き受けた連続殺人事件の解決(暫定犯人・ただの野獣)だろう。
「うふふ殺人事件の解決の部分だけ見ると名探偵っぽーい」
頭を踏みつけながらあるじはのたまうが、どちらかというと素敵科学で産み出された怪獣があばれる怪奇ホラーの第一犠牲者になりそうだ。
「月の塔ブートキャンプしてたからそんな気しないけど、そもそも依頼をされたの今日がはじまったばかりの深夜じゃん。いくら僕が仕事早いとはいえ期待が大」
「夜が明けただけで人の依頼を忘れていたのは誰だい?」
「せめて最後まで言わせ待ってだめそこは踏まないでえええええええええ」
月の塔の門戸を開いてもらう、というこちらのお願いを既に聞いてもらったのに向こうの願いを忘れるなどギブアンドテイクの精神に反する。げしげしと助け合いの精神を教えられてあるじは床に伸びた。
「よく考えたら昨日は詳しい話をしなかったからこの位にしといてやろう」
「………………」
どう考えてもこの位ではない仕打ちを受けたあるじの頭からセニスは足をどける。それにしても酷い。昨日会ったばかりの人間への態度とは思えない。何かあるじに恨みでもあるのだろうか?
「知り合いに似ていて腹が立つ」
あるじには完璧に関係がなかった。
「それにこの手の人間は甘やかすと調子に乗る。手綱を握るにはこのくらいがいーんだ」
正論だった。
セニスは乱れた裾の長い浅葱色のスカートを直しながら壁際へ歩いて行く。壁には裏の菜園が見える窓以外に、診療所にはふさわしくなさそうな物もいっぱい掛けられていた。よく見ると尾羽が九対の剣になっている孔雀のような鳥の剥製はまだしも、血塗れの剣とかなぜ飾ってあるのだろう。別の事件の証拠品とかだろうか。
その雑多な室内品の一つである古地図の前でセニスは立ち止った。
「で、だ。詳しい話――――といっても大した情報はねーんだけどな。あらましを話と、だ」
眼鏡をくいっと直してセニスは古地図を指さした。
地図はこの中継街アルラントを示しているのだろう、特徴的な逆T字の大街道とそれを丸く囲む街壁が目立つ。ここ診療所は南東部の街壁すれすれの端にあって、壁の外に月の塔が簡易な絵で描かれている。×印が付けられているのは何の冗談か。
「一人目の変死体はちょうど二巡り目くらい前だ。害者は成人男性で、明け方の路地裏にて発見された」
多分その男性とやらが発見されているだろう地図の箇所をくるくると指さした。診療所とは街道を線対称とした、北東部のあたりだ。
「外傷はこの間見せたのと同じ獣に食いちぎられたような跡。発見されたのは早朝だったが言うまでもなく即死。二人目は四日前の夜。今度は青年で、場所はここだ」
二人目の犠牲者は街の北西方面。住宅が密集しているらしく、発見した人もその日の仕事を終えて飲み屋で一杯ひっかけてから帰ってきた男性だそうな。
「で、その人にも噛み傷があったの?」
復活したあるじが体を起こしながら話に加わってきた。座り直した診療台がきしりと音を立てる。その様子を見て壁際から戻ってきたセニスが私を拾い上げた。
「そう、二人目にも噛み傷があった。ただ一人目と三人目と違うのは、左胸あたりじゃなく左肩からこうがぶりとやられていた」
がぶー。
セニスは抱き上げた私をあるじの肩口にぐりぐりと押しつけるので状況を再現してみようと歯を立てないように噛みついてみたが、喰いちぎるどころか私の口では顎が外れてしまいそうである。
「左肩から胸骨の辺りにかけてまでが遺体からなくなっていた。大怪我なんてものじゃなくて現場は壮絶だったな。色よりも匂いがすさまじくてな、水を撒いても匂いが消えないって近くに住んでいる奴らが何故か俺に言ってきたからエタノールぶち撒けたほどだ」
「胸骨がなくなってた、って………心臓も?」
「そうだな。心臓も根こそぎやられていた」
「一件目と三件目も?」
「綺麗になくなっていたな」
「……………心臓って美味しかったっけ?」
「食べたことないからわからねーな」
私もありませんね。でも内臓が美味しくないのですから心臓も同じじゃないですか。
「なぜ内臓の味を知ってるのかは聞かないよ。被害者の共通点は〈獣の噛み跡のような傷〉と〈心臓がなくなっていた〉ってことか」
「それと、殺害時刻が夜ってこともだな。肉食獣なんてのはほとんど夜行性だからか」
「獣、ねえ………………それと被害者が全員男だ。これも関係あるかね? 三人目のプロフィール聞いたけど他二人の素性は聞いてなかったな。そこんとこどうなの?」
「あー、そうだなー」
私を持ち上げたままのセニスは気のない返事をしながら、手でうるさそうに払うあるじにめげず私を押しつけようとする。
「猫で遊んでないで話聞いて」
「素性といってもなー………2件目の被害者とほとんどかわんねーぜ。共通点はこの街に住んでいて、男であるのと、せいぜい身寄りがない無縁仏ってことぐらいか」
「住んでた場所とか近かったりはしないの?」
「しないな。全員が家に帰る途中でやられたみたいだから死体の発見場所と住居はほぼ同じ地区だ。そもそも獣が標的を選ぶとは思えねーけど」
「…………獣じゃなくて偽装した魔術師かも、って話はどこいった」
「ああ、そっかそういやそうだったな」
本当に忘れていたのかセニスは気のない相槌を打ちながら私をあるじの首筋にぐりぐり押しつける。なされるがままの私。
「どっちにしても通り魔は無差別に対象を選んでいると思うがな」
「無差別に選ぶって変な言葉だ…………んー、犯行の目撃者はいないんだよね?」
「いないから困っているんだ。人類の半分は男だし、この街で起きたんだから街に住んでいるのも珍しくなければ、身寄りがないというのも同じだぜ」
「うーむ、じゃあ過去に接点があってその復讐か口封じで………!」
漫画の読み過ぎである。殺し屋なんて物騒な職業があった2112年から来た私達が言えることではないけれども。
「殺された場所が血の門となって街を巻き込む大魔法陣を描くための布石だったり………!」
殺害場所にメッセージがこめられていたり、新時代の狂気だったり、新種の人工ウィルスに感染したとかじゃ絶対にありませんからね、物語じゃあるまいし。例え物語だとしてもあるじが登場人物だというだけで質の低さがうかがえます。どうせ最後に収拾がつかなくなって爆発オチになるのが目に見えています。現実を見てください。
「現実って………この世界には魔術があるだろ。心臓がなくなってたってことは、もしかしたら通り魔は心臓を集めていて、何か魔術な儀式をたくらんでいるってことも………!」
陰謀論を得意げに語るあるじに冷めた視線をセニスは投げかけた。
「お前は魔術をなんだと思っているんだい」
「えー………魔法でそういうこと出来ないの?」
「魔法はともかく魔術はお前が想っているような万能の技術じゃねーぞ」
「………………うーむ」
そもそも魔法やら魔術は未知エネルギー【魔力】を使って発動するがゲームとは違ってそこまで無茶なことはできないという認識で、どんな技術なのかも全く知らない。今度ユニ辺りに聞いてみるべきなのかも。
「俺が検死したんだぜ、怪しげな仕掛けがあったら気づく。発見場所の付近にだって人為的な魔力の流れはなかったから陰謀のいの字もねーし、見つけたら魔術による殺人に確定でお前には頼らねーでしかるべき所に駆けこむさ」
「状況が漠然だから僕に調べさせてるんだったね」
陰謀説は却下されながらも足りないなりに頭を働かせるあるじにならって私も考えてみる。
やっぱり人里に下りてきたハラペコさん説が有力なのだろうか。人間の通り魔にしては尋常じゃない殺し方ではある。オーバーキルしても残るのは凄惨な死体で、ボーナスで増えるのは罪状だけだ。
そもそも人間が意図的に他人を殺す理由なんて憎悪に嫉妬に愛欲に正義くらいなもの。番外で殺し屋さんのお仕事だが、殺した方法が魔術だろうが獣をけしかけようが殺し屋であれ、誰かが誰かを殺したいと願わなければ殺人は起きない。つまりそれは誰かが誰かに感情を抱いたということだ。
三行でまとめてしまえそうな恋愛映画や悪と正義の単純な二元論を展開するヒーロー映画の世界に感情移入をして主人公もしくはヒロインに恋することはあれど、あらすじだけ聞いて恋をする人間はおるまい。
同じように人が人に感情を移入するにはそれなりの触れ合いが必要なのである。映画だってそうだ。主人公がチートパワーで敵を蹴散らすだけを描写してもB級どまりで、涙もろい全米を泣かせたくば感情移入できるようなシーンを挟まなくてはならない。
知らない人間を好くこともなければ、憎むこともないのだ。
もし三人の被害者が人間的な情動により殺されたのならば、殺したいと思われた何かがあるはずである。その何かの大きさは問わない。例えば近所同士のいざかいや女性をめぐっての殺人事件など珍しくもなく、何かしら加害者と被害者には関係性があるものだ。
物語では日常茶飯事な10年前の復讐や陰謀に現実では巻き込まれることはほぼない。誰かが死んだら保険金とかで得をする人間が殺していて、若者が死ねばフられた恋人が灰皿でガツンとやっていて、ポートピア号の犯人はヤスである。
だが、三人の被害者には共通点が見つからない。
と、なると私達が見落としている共通点があるのか、殺人対象を選んでいない通り魔のどちらかだろう。どっちにしても手詰まりだ。いかんせん情報が少なすぎる。
ぐりぐりとあるじの肩口に押し付けられて顔が変形するのを感じながら、私はそう自分の思考を締めくくった。そしていつになったらこの少女は私を離してくれるのだろうか。
囚われの猫をつかんだセニスはあるじの隣に座りながら、払いのけられてもめげずに私のふわふわボディを押しつける。
「わからねーからといって、放置するわけにもいかない。医者の端くれとして救える人間は救う」
「でも僕に丸投するんですね。まず明日には第4の犠牲者になってそうな僕を救って欲しい」
「その為にも自分が囮になるなり何なりして解決してくれるかい」
「そして相変わらず人の話を聞かないよこの人…………ま、いくつか手がないわけじゃないし僕なりにやってみるよ」
何やら考えが有り気に言っていますがその場しのぎじゃないですよね?
あるじが自信ありげだと何故かいちゃもんをつけたくなってしまうのは悲しい私の性である。甲斐性なしで人生適当なあるじの信用がゼロだからという悲しい理由ではない。
「思わず口に出しちゃったノリでそんな心理描写しないでよ……………」
卑屈にならないでください。これ以上は好感度が上がりようないということですよ。
「それは好感度がMAXなのか負の方向に振りきれてプラスになりようがないのか判別つかないけど聞きたくない」
すいません言葉が足りなかったようですね。さっきの文末に「残念ながら」と付け加えてください。
「聞きたくないって言ったのに!」
傷ついて虚ろな目で嘆くあるじを慰めようと首筋をぺろぺろ舐めてみる。ちょっとしょっぱい。
「自分で傷つけておいて慰められても癒されないから。というか猫舐めないで舌がざらざらして痛ひゃああああああああああああ!?」
いきなり甲高い奇声をあげてあるじが比喩なしに5センチほど飛び上がった。断末魔か! と思ったら本人は首筋を押さえて口をパクパクさせている。その視線の先ではセニスが白い肌とは不釣り合いなほど真っ赤な舌をぺろりと出していた。
「なななななな何ばしおっとねー!?」
「猫に舐められても平然としていたから、なんとなく」
「それでいきなり人の首筋を舐める人がいるかっ!」
首筋まで紅潮させて―――舐められたのであろう首筋を押さえながら―――わめくが、セニスはちろちろと蛇のように舌を動かしながら微笑むだけで悪びれもしない。むしろその笑顔は年相応の少女のものとは思えない妖艶さで、そんなセニスから離れようとあるじは診察台の端に逃げた。
「ん、ん、ん? なんだい、照れてんのかい」
「照れるとかじゃなくて! 普通に驚くわ!」
「猫に舐められても平然としていたのに」
「猫と人とじゃ全然違うよ!」
「ふぅん」
追いかけるようにしてベッドの端までセニスも移動する。距離が縮まった分だけ離れようとしたが診察台の端なので逃げようがない。追い詰められて目を白黒させるあるじの様子を見てセニスはくすりと童女のように笑った。
「な…………なに?」
「いやいや、年頃の少年だもんな」
「たいして歳違わないでしょ。そっちだって年頃だろ」
あるじが16くらいでセニスがそれより1、2くらい歳下だろうか。だが今の二人だと逆に見える。手玉に取られているのは年上に見えるあるじの方だ。
「女に歳の話をふるな………と、言いたいが許してやる。それよりも、だ。イマイチやる気が感じられねーよな、アリナ君よ」
「やる気って言われても……………正義感や復讐に燃えるわけでもない他人事だからこんなもんじゃないの」
「取引だからな、そんなもんだろう。が、それだと俺としては少し困るわけだ」
「まあ………だろうね。ところで、この僕の太ももをまさぐる手は何?」
捕えていた私をあるじの膝の上に解放したかと思ったら、そのまま自然な動作であるじの足に手を置いた。二人とも同じ診察台に座っているのだから、当然のように手は近い部分、太ももの辺りを触れることになる。
「気になるかい」
「……………気にならない人間はいないと思う」
「そうかい」
遠回しなあるじの抗議など聞きいれずセニスは太ももを撫でまわすのをやめない。それどころか撫でまわすのを左から右に変えたりしている。左手に座っている人間が反対側の相手の右太ももを撫でようとすれば身を乗り出さなければならず、より二人は密着する。
「……………ナンノツモリデスカ」
「色仕掛け」
吐息多めのかすれた声であっさりと答えた。水分多めで熱っぽいながらも理性的に凛とした声という、相反しているのに、いや相反する要素が同居しているからこそ悩ましい声色である。たぶん本人も自覚していて使用しているのだろう。
色仕掛けであると宣言したのに効果は抜群で、厚顔無恥のあるじが珍しく赤くなっている。
「もし、君ががんばってこの事件を解決してくれれば俺は嬉しい。嬉しさのあまりに少年が喜ぶようなご褒美を出してしまうかもしれない」
「………………そういうの、軽い人?」
「少なくともここ100年くらいそういう記憶はねーな」
暗にそういう経験がないと言うが、この色仕掛けはどう考えても百戦錬磨だ。耳元で必要ないのに小声でささやく辺りに技を感じる。
「このくらい女なら誰でもできる。女は計算高いんだよ。そして、それと同じくらい自分を安売りしない」
「……………それなら、どうしてそこまで」
「どうしてだろうね」
そんなのわかっているだろう? とでも言うような、意味ありげに深読みさせて男に誤解を植え付けてもてあそぶ悪女のようにセニスは微笑んだ。
色仕掛けと宣言しているのだからまともに取り合わなければいい。が、そんな対人スキルをヘタレが持っているわけもなく真っ赤になりながらもせめての抵抗として顔を合わさないようにそむける。
「顔、近いんですけど」
「昨日今日会った人間になんでこういうこと言うのか気になるかい?」
「……………気にならない人間はいないと思う二回目」
聞き返そうとあるじがそむけていた顔を向けると、思った以上にセニスの小顔が近くにあったのに驚いたのか体が強張る。セニスの顔立ちは美人というより可愛い部類だが、丸眼鏡の奥にある切れ長の目と口元の微笑が成熟した女性の雰囲気を放っている。
「それはだね―――――」
首筋にふっと吐息を吹きかけられてあるじはぞくりと震えた。その隙を狙っていたのかはわからないが、すっと視線を重ねられてあるじが固まる。もはや他人が見つめあうような距離ではない。まるでそうすることが当たり前であるかのように、セニスはみずみずしい舌が覗く口を近づけ―――――――ただけで止まった。隣の部屋で異変が起きたのだ。
ごほごほ、と扉を挟んでも苦しそうに聞こえる咳が聞こえる。ちょっとドキドキしながら二人の人間を眺めていた私は驚いてあるじの膝の上から転げ落ちてしまった。あるじは微動だしないというかそもそも展開についていけてないようで、まだ固まっている。
セニスはまるで予想していたかのように、あるじからあっさりと顔を離して立ち上がった。
「ちょっくら様子見て来るな」
「…………………」
「ん? どうしたんだい」
怒っているのか安心しているのかなんとも判然としない顔をするあるじだが、セニスは悪びれもしない。
「別にいーけどさ…………それよりキシィってやっぱ体悪いの?」
「ああ、長らく患っていてな。最近は調子が良かったんだが、病に伏せっている期間が長いとそうそう好転しねーんだ」
「ずっとそうなの?」
「ああ、長いこと俺が面倒みてるよ…………といっても医者としてだけどな。本当にキシィを支えているのはリオカだ。麗しき兄妹愛だな」
「あんま似てなかったけど、そうか兄妹だったのか」
リオカとは昨日この診療所にいた青年のことだろう。銀髪で浅黒い肌の青年と藍髪で病的な白い肌の少女はあまり似ているようには見えなかったが、歳の離れた兄妹なんてそんなもんだろう。
「病気、ねえ……………〈無熱病〉とか?」
病気と聞くと思いだすのは昨日の助手手伝いの時に見た少年だ。たしか魔力がなくなるという異世界特有の病気。その病気に侵されて息を引き取る間近という、なかなか精神的に堪える状況に出くわしたことは一日たった今でも印象深い。
「……………なんでそこで無熱病が出てくる?」
「いや、病気とか詳しくないからテキトーに」
「無熱病ってのは先天的の病で、そもそも十歳の峠を越えるのは難しいから有り得ねーな。まあ、特定の臓器が悪いわけではねーから似たような症状ではあるけどな」
たしかにキシィは少女らしい柔らかさはなく不健康そうな体つきではあったが昨日今日で死ぬようなほど体が悪そうには見えなかった。
緊迫した状態ではないのだろう、と少しホッとしたのかあるじは溜息をつく。隣の部屋に様子を見に行こうとしてドアノブに手をかけた所でセニスは振り返った。
「それより、君も調査するなり月の塔を上るなりして活動をはじようぜ」
「徹夜明けなんですけど……………」
「俺だってそうだ。徹夜明けだろうが仕事と時間ってのは待ってくれねーぜ。それと―――」
扉を開けて隣の部屋へ移る前にセニスは一言だけ付けくわえた。
「ご褒美は全部終わってからな」
とんでもないことを言い残してばたりと扉は閉まった。取り残されたあるじだけではなく私まで呆然とする。いろんな意味ですごい人だった。会う人間会う人間が強烈なのはいつものことだが、忘れられないどころか悪夢に出てきそうな縁が異世界に来てから拍車がかかっている。
ともかくとして。
あるじ、残念でしたね。
「…………からかってただけだろ。こっちがオロオロとあわてるのを見て楽しんでたんだよ。だから年上ってキライ」
不機嫌そうにあるじは口をとがらせているが、これは珍しい。子供にタメ口をきかれようが天使にボコボコにされようが体よく利用されても悪態の一つもつかない、お気楽な人間があるじだ。喜怒哀楽から怒が抜けおちて代わりに楽がはまり込んだ喜楽哀楽な感じ。小銭を拾って「喜」んで、拾った小銭で「楽」をして、でも所詮はあぶく銭なので「哀」しくなって安「楽」死…………というお気楽世界な住人である。爆発しても次のページになればアフロ直る。形状記憶精神の持ち主なのだ。
というか年上なんですか? 見た目は生物部な白衣を着た女子中学生ですけど。
「絶対年上間違いない。僕の勘が告げている」
普段は縁側で光合成しているおじいちゃん並に動かない勘のくせに自信満々ですね。
「おじいちゃん舐めるなよ! おじいちゃんはゲートボールだと当社比2倍の速さで動くんだぞ! 縁側でのお昼寝ぐらい許してやれよ」
じゃあ言い換えましょう。〈縁側でお昼寝したまま動かないおじいちゃんのような勘〉です。
「ご臨終しちゃってるよね!?」
精神年齢が高すぎて老人ホームに通うべきなあるじは、それが理由なのか年下の人間や小動物に懐かれるというスキルをもっている。舐められているとも言えるが、誰であれ対等に接するのは美徳の一つだ。
だが年長者から見るとあるじなヘタレは駄目な子に見えるのだろう。大抵がネコミミオッサンみたいに相手にもされないかセニスみたいに都合よく扱われるかの二択である。だから年上嫌いとまでではなくとも苦手なのだ。
「はぁ……………なんで僕の人生って非常識なひとしか登場しないの?」
それはですね、あるじが非常識なひと筆頭だからですよ。
「なんか、一人いるだけで小説が書けちゃいそうな人が多すぎる。僕の人生は僕が主人公とか影が薄すぎて言えないもん。小説なら登場人物欄にすら出れない。こんなの絶対おかしいよ」
なんか人生を儚み始めたので元気づけようと思ったがもっともすぎて涙が出た。あるじの特徴を三つ挙げよと言われたら〈ヘタレ〉〈逃げる人〉〈貧乏人〉とまさしく雑魚キャラである。
「やめて人を分析しないで。影が薄いのはわかってるし」
それでもせめて目からビーム出せるくらいにはならないと…………。
「目からビーム出すのを考案にいれるくらい僕ダメなの?」
朝凪在名。必殺技は『ドライ・アイ』!
「名付けないで! しかもドライ・アイってただの乾燥した目じゃん…………」
朝凪在名。必殺技は『パラグ・アイ』!
「パラグアイに眼球的な意味は一切ない! 技のレパートリーなんて増やさなくていいから。今気付いたけどお前も僕の影を薄くする一因だよな。まともな人間募集中。採用条件は〈人間であること〉〈人を殴らないこと〉〈年下であること〉」
最初に人間であることをもってくるあたり私にケンカ売ってますよね?
しかも三つ目の条件で途端にいかがわしくなっている。なんとか修正するために年上の魅力を伝え――――ってやはりいかがわしいな。
「百歩譲って年上でも良い人はいるだろう。でも僕の周りにはいないよね。セニス然りネコミミオッサン然り」
こっちの出会いが悪かっただけで元の世界では良い人いっぱいいたじゃないですか! 例えば、あの、欧州共同体(EC)のドゥオモの斜塔で出会った肝っ弾かあさんは優しかったじゃないですか。ご飯をご馳走してくれてありがたかったです。
「その後に代金請求されてタダ働きさせられたけどな」
そういやそうだった。あるじが働いている間、私はクーラー利いた部屋で寝ていたのですっかり忘れていた。頭脳派が寝ている間に肉体派が働く、これが世界の真理であるが、今は関係ない。
じゃあ、あの神父様は? 私達が危ない人に襲われて身ぐるみはがれそうになっていたのを助けてくれたので間違いなく良い人なはず。
「…………あの人、ロリコンだぜ」
マジですか!?
素で驚く私。知りたくなかった知人の別の顔。異世界に来てまで何故に知り合いの隠された性癖を知ることになるのだ……………そーかあの人そーだったのか。ちょっと愕然。
それじゃあ短パンが似合う整体師(21)の男性は?
「…………この間、倫敦の地下鉄に輓ひかれて肉片なったじゃん」
………………あー、そういえば。
いつのまにか消えていた数少ない常識人。そして尽きてしまった良識な知り合いリスト。三人で尽きるとかリストじゃなくてただの三つ並んだ名前である。記録するまでもなくて着信履歴だけで十分機能する悲しさがそこにはあった。
そもそも、中学生男子が憧れるバイオレンスな〈裏の世界〉なんてものとは違う、雑草を食べるようなエコノミックな〈路地裏の世界〉で過ごしてきた私達と出会う人間なんてたかが知れている。あるじがその筆頭だ。たまーに道を間違えて殺し屋とかに追われるのはご愛嬌。
出会う人間出会う人間がロクなものではないのはともかく、あるじの交友関係に年上しかいないのは仕方がない。いろんな人間に追われて逃げ回っていた生活では年下どころか同世代に出会うことなんてめったにないのだ。もともとあるじも〈試験会場に来たら英単語帳を開いたペンギンがいた〉くらいに場違いではあるのだが。
「同世代の人間なんて、それこそこっちに来てからしか知り合ってない気がする」
私達が異世界であるこの世界に来てから一、二カ月。決して穏やかではない日々で、出会った人間は少なくないが同世代に限るならとても少ない。その中であんまし人間の名前を覚えようとしない私でも憶えているとなるともっと少なくなる。
「ユニはどう見ても年下で、地熱街のリィク少年もかなり年離れてる。キシィは言うまでもなくて」
そして。
「そういや気にしてなかったけど、どうだったんだろうね――――アリアは」
そしてあっさりと、あるじはほんの二週間前に出会って、数日間だけ寝食を共にした、死んでしまった少女の、あるじが与えた名前を口にした。
「見た目は同い年くらいだったけど、実際はどうだったんだろうねえ」
口調は軽い。今まで忘れたかのように彼女の名前と話題を口にすることがなかったのが本当のように思える。だが、そんなはずはない。忘れるわけがない。忘れられるわけがない。
「あとはニュク…………メヒナリ? だっけ。偶然だったしもう会うことないだろうけど。というか四人だけか。それに比べるとやっぱ年上が多いね。ネコミミオッサンだったり三つ子オッサンだったり研究家のオッサンだったり、というか今気付いたけどオッサン比率高っ! どんなジャンルだよ。漫画化したら絶対売れないぞ…………」
さらりと口に出したのは逆に意識しているから。あるじは寡黙とは全く表現できない人間でどちらかというとおしゃべりではあるが、大事なことこそ何も言わない。それはある意味当たり前のことで、心中を叫ぶなんて土手で青春するときぐらいだ。
だからこそ聞いてみた衝動にかられる。
あるじはどう思っているのですか?
私の心中を知ってか知らずか、話を打ち切ってあるじは診療台から立ち上がり診療所から出て行こうとする。
「さて、そろそろ時給ゼロ円のお仕事行きますか。ほぼ無償で殺人事件に首突っ込むとか狂気の沙汰じゃないけど、仕事とあらばトンズラするわけにもいかないしね。いくつか手は考えてあるし、なんとかなるさ」
一緒に逃げようと手を差し伸べた、救いたいと願った少女。
彼女との出会いで、あるじは少し、変わったような気がする。
彼女との別れで、あるじは少しも、変わっていない気もする。
もし彼女と出会わなければどうなっていただろう。別れなければどうするつもりでいたのだろう。それも今となっては、何の意味もないこと。
「行くよ、猫」
アリアはもう、いないのだから。