Lv13―『月の塔』・完全徹夜、略して完徹
経験値。
いわゆるゲーム俗語というやつで、モンスターを倒したりクエストをこなしたりすると手に入る、文字通り経験を換算した数値である。これが溜まると格が上がって能力も上がる、つまり成長するのだ。
成長といっても格が100になったからといって、攻撃をするたびに入れ歯が吹っ飛んだり防御に成功しても一撃でぽっくり昇天したりするわけではない。年齢とレベルはイコールではないので百歳になってよぼよぼになることはないのだ。
格が上がると能力が急に上がる、なんてのは有り得なず、技術というのは一歩一歩進んで向上させるものであって急激に成長しないものだ。それは年一の身体検査みたいなものだと自己解釈できるが、等式で結べないのは年齢とレベルの話だけではない。
そも、経験値という概念は現実と相入れることはできない。
これこれこうすればどんな経験値がどの量てにはいってあとどのくらいで成長する、だなんて指標があればこの世に挫折という文字は生まれなかっただろう。道が険しいから人は座り込むのではない、先が見えなくていつまで歩けばいいか何処にたどりつくのかが見えないから足を止めてしまうのだ。
ゆえにどんな道であれ踏破するのは難しく、歩き続ける人は美しい。
にゃーんて。
猫である私が考えたりするわけがない。興味があるのは安らかな寝床と次のご飯だけ。成長? なにそれ、いっぱい食べていっぱい寝ればいいのだ。
澄んだ青空を見上げて面白い雲の形を見つけたら名前をつけて、数分後にはそのこと自体を忘れるのが猫の生き様。お腹すいて肉を食べたいと思っても、食べ逃した肉をいつまでも覚えていることはない。経験など忘れてしまえば無いのと同じ。全てが一期一会にして昼下がりの夢。
とはいえそれを人間のあるじはそうは思わないようである。猫のように生きれば楽しいだろうに「ゲームで戦闘から逃げたりすると、経験値は溜らないよね。でも経験値が手に入らなくとも経験は積める。眼に見えなくとも大事なことはいっぱいあるのだ」と、うそぶくのだ。
お腹が一杯になっても、食べ逃した肉を忘れることはない。
雲の形を覚えていなくとも、空を見上げたことは覚えている。
経験値が溜らなくとも、想いは募る。
ではそんなあるじが言う経験とやらをご覧あれ。
風来のあるじ~月の塔攻略編ダイジェスト~
十六階のあるじ。
《此処、第十六階。思わぬ陥穽にはまらぬよう引き締めよ》
「落とし穴に二度も引っ掛かるか」
そう言いつつ綺麗にボッシュートされるあるじ。
十八階のあるじ。
《此処、第十八階。仮初めの命が宿りし植物を切り開け》
さすがに三巡目なので一階から高速で駆けあがってきた私達を待ち受けていたのは、巨大な栗にハンペンのような足をつけた小動物のようなつぶらな瞳が愛くるしいファンシーな生き物の群れだった。
しかし、あるじは容赦しなかった。
「地獄の業火で焼きはらえ!」
あるじに命じられるがままに四文字魔法【ファイガ】で焼きつくす。草木だからよく燃える。いや逆か、水分を含む草木なのによく燃えるのはどうしてだかはわからないが、放火魔のようになった気分だ。
栗っぽい生き物がキュピイィィィという断末魔を上げるのでちょっとした殺人鬼な気分。
正確には殺〈人〉じゃなく、猫である私には鳴き声に意思がない=動物ではないのがわかっていたので殺しでもない。
もっとも、あるじは殺人鬼なんて優しい気分ではなかった。
「ファーハハハハハハ泣き叫べ! その悲鳴が我こそが喜びである! 己が不運を呪い紅蓮の炎で浄化されるがいい!」
二回も〈ふりだしに戻る〉をされたあるじは怒りを通り越して魔王になってしまった。このまま塔を破壊する勢いである。冒険者がダンジョンを制覇せずに破壊するとはどんな新しいジャンルだ。
二十階のあるじ。
《此処、第二十階。己が欲する所を追い続けよ》
部屋の中央にぽつんと意味ありげに設置されているのは7つの宝箱。
どこからともなく現れた拳大で様々な色の宝石が、一つずつ宝箱に入れられ蓋が閉まった。
《隠されし順番で輝きを解き放て》
この階は宝石がしまわれた順番を覚えて通りに宝箱を開ける、というものだろう。頭の体操か。
「頭の体操など魔王には不必要! 焼き討ちじゃあ!」
頭を使う系のギミックを力づくで突破しようと火をぶちかましやがった。
今のあるじを止められる者は誰もいないと思ったが仁王立ちのまま開いた床に綺麗にホールインワンされた。
再び二十階のあるじ。
「……………………四巡目はやりこみプレイじゃなくてもはや苦行プレイだよね」
賽の河原の石積みやら底の空いたバケツに水を汲むような、一歩進んで二歩ムーンウォークな感じの徒労な塔登りに、あるじはもはや魔王をやる気力もなくなり辞職していた。
《此処、第二十階。己が欲する所を追い続けよ》
再び頭の体操。開いた順番の記憶。7つとはいえ意外と難しい。関係ない話だが人間が一度に認識できる数が7くらいまでだそうな。猫頭である私と鳥頭であるあるじに限定するならばラッキーセブンどころではないだろう。
力押しではない、知恵くらべ。追い込まれた主人公が脳の3割しか使われていないうんぬんでパワーアップするのは許されるのだから、追い込まれた馬鹿が急に脳を解放して賢くなるのも許されるのではないだろうか。「さ、さっきまでは全然解けなかった問題がスラスラ解ける………! これが勇者の力か………これで俺も東大に行けるぜ!」覚醒というか更生である。
そんな他愛もない想像はともかく、詰んだ状態。
しかし、知力は3でも知恵がある。ちゃんと対策は考えていた。
「4番目が右端の奴で…………残りは猫よろしく」
真ん中、その右、最後が左端です。
軽くトンと叩くと最後の宝箱は貝のように開いて中の宝石が光を放った。きちんと順番通りに開いて、7つの色とりどりの光が部屋にあふれている。
言うまでもなく、前と後に手分けして記憶していたのだ。7つはキツいが3つ4つくらいならどうとでもなる。
カンニングに近いやり方だがこれが私達二人の力だ! と言い張ってみる。
褒めてほしいとは思わないが、ダンジョンの仕掛けを解くと鳴るティロリロリロリンのような合図はなかった。
ただ静かに次の階へ行く魔法陣が現れただけであった。
二十六階のあるじ。
《お題は『男がしても嬉しくない』ポーズ。3、2、1、はいポーズ》
「人差し指を口に当てて振り向きざま脳殺ポーズ……………」
二十六階は待ちかまえていた棒人間のような黒子(ただし頭がモアイ像)の《ポーズを真似ろ》というものだった。もはや防犯システムでも何でもないアトラクションだ。絶対これ作った人間は侵入者を歓迎する気満々である。
黒子が様々な姿勢を全身で表現するのを真似るだけなので簡単、といかないのは『人差し指を口に当てて振り向きざま脳殺ポーズ』という表現から言わずもがな。ご丁寧にも真正面には姿見が置かれており『男がしても嬉しくない』ポーズを自分が取っているのがバッチリと見ることができる。
「……………………」
この目がうつろで口が半開きな人間は『ぼくがかんがえたとってもかっこいい』ポーズや『手を傷だらけにしながら初めて作った弁当を好きな人にもじもじしながら渡す少女』のポーズをした自分の姿を見せつけられた人間のなれはてである。
神経が鈍感というより形状記憶合金っぽいあるじでさえこの有様だ。並の人間では心が粉々にされている。精神力の試練というよりちょっとした人格破壊の拷問だろうこれは。
壊れかけのあるじを無視して、渋い塔の声は試練を進行していく。
《次が最後のポーズ》
もうやめて! あるじのPPはもうゼロなのに!
にゃーにゃーと鳴く私の制止など無視して黒子は新たにポーズをとった。両手をだらんと下げた全体的に力が抜けきった、ポーズとは言えないだらしがない立ち姿だ。
《『人間やめる一歩手前のポーズ』》
おちょくっているのだろうか、あるじの現状と酷似したポーズだった。
最後だから仏心で楽なポーズかと思ったら、黒子の頭であるモアイ像がぐるりと180度回転し、腹が前で顔は後ろを向いた。せめて人間の動きをしろ。人間が同じ動きをしたら首の骨がポッキリ折れてしまうあたり、突破させる気がない防犯装置の役目はちゃんと担っているのだろう。
「猫、ひと思いにやってくれ…………」
あるじはあるじで物理的に過ぎた道を振りかえることを決意しているし、渋い声はカウントダウンを始める。
《3、2、1、はいポーズ》
カッと閃いた私はあるじの体を駆けあがった。膝、脇、背中、肩、と人体の出っ張った箇所を足場にしてするすると人間登りをするのは手馴れていて、頂上はお決まりの頭の上。そこで私はいつもとは逆に居座った。あるじの顔面にふかふかのお腹を押しつけ前両脚で頭を固定する、いわば猫帽子を前後逆にかぶらせたのだ。
つまり、(あるじの)体は前を向いてるけど(私の)顔は背後を向いている。
白猫を白黒に塗って白黒猫と言い張るような、屁理屈じみていると自分でもわかる一手だ。
息をのんで判定をうかがっていると、屁理屈も理屈の内とみなされたのか黒子が親指を立てた。
それどころかモアイ像を脱いで握手を求めてきた。脱げるのかよ。ちなみに黒子のには顔どころか頭が無く肩がまっ平ら。彼も人間ではなく魔法でつくられているのだろう。
あるじは未だ死にかけなので私が前足を伸ばした。あくしゅあくしゅ。
「…………………」
口が無いから言葉は出なかったが、黒子は自分の能力の出番とばかりに全身で喜びのポーズをとると、窓の汚れが拭かれるように消えさった。
その彼が消えた場所に次の階への魔法陣が輝いていた。
三十一階のあるじ。
《此処、第三十一階。望みの物だけを求めよ。望まぬ物を欲することなかれ》
二十階だか二十五階あたりで見た感じがする宝箱がやはり七つ並べられていた。
また頭の体操かと思っていると、やはりどこからともなく赤・黒・青・翡翠・銀・透明・白の7つの宝石が現れる。見えない乙女が大事な贈り物をしまうような丁寧さで、宝石は入れられる。宝箱がかちんと飲み込むと、乙女はなにを考えたのか箱の位置をぐるぐる変え始めた。右端と真ん中。左から2番目と右から3番目。二つ、四つ、六つと。舞踏会で次々と相手を変えながら踊るように宝箱は動く。
見えない乙女によってかは見えない故にわからないが、宝箱は止まる。乙女には似つかわしくない渋い声が響く。
《透明の輝きを解き放て》
渋い声は無作為にシャッフルされた中から〈当たり〉を引けと言う。せめて最初に言え。もっとも注視していようがもんじゃ焼きの具のようにかき混ぜられては行方を見守ることは出来なかっただろう。
ぽつりとつぶやいたのはあるじの悪態だと思った。
「…………………右から三番目」
声を出すだけで体力・明るさ・希望が削られているのがありありとわかる、死の淵から聞こえるようなあるじの声。
「右から三番目が透明」
無茶難題に対する回答だった。
《………………………》
スーパーのいらっしゃいませーという音声のごとく意思がないはずなのに渋い声が絶句したような気配がした。オーダー通りにぱかりと右から三番目の宝箱が開いて透明の宝石が浮かび上がる。いとも簡単に当ててしまった。
「右から銀、黒、透明、翡翠、赤、白、青」
それどころかまるで宝箱の中身が見えているかのように次々と当てていく。勘のように曖昧な根拠ではなく、外見からは7つ子にしか見えない宝箱が開いても答え合わせにさえなっていない。
まさかあるじはあの混ざり合った宝箱を全部見切っていたとでもいうのか…………!
何色の宝石が入った宝箱を目で追うべきか指定されなかった。つまり全ての宝石の色を覚えながら入れ替わる箱の動きも注視しなければならない。それも7つだ。目を回す速さ以上に厄介であるのは言うまでもないだろう。
まさか脳が100%解放されてハーバード大学に行けるように………!
と、ちょっとしたあるじの秘められし才能に戦慄しているとあるじはぽつりと言った。
「………………………こんなの見てればわかるだろ」
普段の腑抜けた言動とはまた違った、感情のこもってない声。
リアルダンジョンに歓喜していたが、物を動かせば疲れ何回も同じことを繰り返せば徒労がつのる現実仕様。現実的な障害なんてハードルを跳び越える以上につまらないもの。あるじのテンションがスットプ安を更新しているようだ。
「………………次行く」
その言葉に促されたかのように魔法陣が現れた。
三十五階のあるじ。
《此処、第三十五階。己が道を曲げることなく望みし高みへたどり着くがよい》
たどり着いたそこは、一面の銀世界であった。
純文学的に表現したくなるほどの別世界。一面の床が氷の張った湖のようになっているが、寒さは感じない。向こう側が歪曲して見える透明な氷柱が、天井やら床から生えている。古い塔の中というより、極寒地の洞窟のよう。いくつかの氷柱の向こう側に、次の階への魔法陣の光が見えた。
薄暗く廃墟のようで埃っぽかった不清潔感を雪降る夜のような静謐に染め上げたというかばっさりとバリカンで剃ってしまったような、そんな変貌である。
しかし! あえて言おう! これこそダンジョンらしいダンジョンではないかと!
冷たそうな床に前足をぺたりと押し付けてみるが、冷たさは伝わって来ない。常温の氷、ではなく水晶みたいな鉱石のようだ。足に力を入れてにゅっと伸びた爪でひっかいてみるが川の字は出来なかった。
疵ができなかったどころか、気を抜けば肉球もつるりと滑ってしまうほどすべすべしている。思い切って四本足で水晶床の上に立ってみ、お、お、お、おぎゃあ! 全部の足が滑って顎をしたたかと打ちつけてしまった。立ち上がろうと足に力を入れるがツルツルと滑ってしまう。
この滑り具合は氷上のスケート以上だ。しかも体が勝手に動いている。立ち上がるどころか水晶床の上に飛び乗った余勢のままカーリングのように滑る私。あわてて戻ろうとするが爪でかしゃかしゃと音が鳴るだけで方向転換すらできない。諦めて運命を受難していると自然に止まった。石筍ならぬ氷筍にぶつかったからだ。
氷筍を前足で押すがびくともせず、代わりに私が後ろ向きに滑っていく。
なるほど、今までゲームで氷のダンジョンを見るたびにスパイクを履けと思っていたが、これでは無理だ。自慢の爪でも傷が付けられず、滑りすぎるために立つことすら難しく歩くこともできない。
だから勢いにまかせて直線で移動するしかないのだ。滑りすぎるために何かにぶつかれないと止まれもしないけど。
つまるところ、真っ直ぐにしか進めず何かにぶつからないと方向転換もできない状態で次の魔法陣までたどり着けという事だ。
これこそ知恵が試されるダンジョンの醍醐味!
見た目は寒いのに熱い展開というやつですねあるじ! テンションあがるーっ!
巻き戻しのようにすーっと後ろ向きに滑りあるじの足元に復帰した私はちらっちらっとあるじを見た。
「…………………」
タイトル『魂の抜け殻』と銘打ってもよさげな人間が立っていた。この調子では目の前に森の熊さんが現れても「あ、お疲れーっす」と頭を下げて通り過ぎてしまいそうな調子だ。
やれやれと私は首を振り上げていたテンション平常通りのクール猫に戻す。テンション上げていたのはあるじの気を引く為だけで、銀世界くらいのことでは驚かない。数階前の回転する迷路や上下反転した世界に比べれば意外性に欠けている。この程度の自己アピールで当社に受かろうなど片腹痛いわ!
「………………」
返答がない。私はただの猫課長のようだ。一人で騒いでいるのはさみしいからそろそろ復帰して欲しい。予測ではそろそろゲーマー魂に火がついてこのパズルを解き明かそうとするはずだが。
「…………………これさ」
予想通りほんの少しだけ生気が戻った声をあるじは、
「…………………これさ、【雪遮竜壁】とか魔法で足場を作って進めばよくないか」
ギミックを作った人の努力を無に帰すような解決法を提示してきた。
…………………。
ちなみにこの階の滞在時間は3分だった。
三十六階のあるじ。
《此処、第三十六階。己が道を踏み外すことなく望みし高みへたどり着くがよい》
たどり着いたそこは、宇宙だった。
コズミック的に表現したくなるほどの別世界。一面の床が奈落の底になっているが、落ちたらどうなるかわからない。壁も床もない代わりに、直方体の足場が星のようにいくつも浮かんでいる。
古い塔の中というより、真夜中の魔天楼のよう。足場同士の間隔は数メートルぐらいで、上下左右に浮沈回遊しているのもあるが、道標のように足場をたどっていくと最後の足場のさらに奥に、宙に浮かぶ次の階への魔法陣の光が見えた。
薄暗く廃墟のようで埃っぽかった不清潔感を宇宙のような神秘的に染め上げたというか変貌というかむしろ何もない有様である。
しかし! あえて言おう! 以下略!
下から支えようとするのは空気だけで鋼糸で吊られているようには見えない、たぶん魔法で浮かんでいるのだろう足場。そんなあるじの食生活くらい不安定な足場を、キノコで大きくなったり誰が得するのか獣耳コスプレをしたりする赤いオッサンよろしく飛び移り進んでいく。それがこの階の試練なのだろう。
一歩踏み外せば底の見えない奈落へ真っ逆さま。
これこそ懐かしきゲームの醍醐味! 以下略!
私は今度こそテンション上がるだろうという期待を込めて、ちらっちらっとあるじを見た。
「………………」
まるでゲームのようなアトラクションただし残機1という、ただの現実を目の前にしてあるじはぽつりとつぶやいた。
「…………………これも魔法で足場作ればよくない?」
…………………。
ちなみにこの階の滞在時間は2分だった。35階よりはやーい。
こうして数々の試練を(鍵で閉ざされた扉をピックングで開けるような)知恵と(ズル判定されないかどきどきな)勇気で乗り越えてきた、月の塔ダンジョン攻略の経験を得たあるじ。
こうして夜が明けるまで塔に引きこもって朝の陽ざしを浴び外の空気の美味しさを堪能するまで登った最高階数は44階。
偉い人が言うには経験は人を大きくするらしい。赤子がハイハイをし始めれば80センチになり、歩けるようになれば高さはぐんと伸び、ヒーローとの戦いで敗北すれば巨大化でビル越えはかたい。
ならばあるじは徹夜の経験でどのような成長を遂げたのだろうか。
まず注目いただきたいのはこの瞳。
カッと見開かれた目は前方を射抜く不退転の色に染まっている。ただ見開きすぎて瞳孔まで開いてるんじゃないのかというのと、目が真っ赤なのはご愛嬌。
そして次にご覧いただきたいのは歩き方。
生きることは戦いだというのなら世界はどこでも戦場であり、戦場で頭を高くしてのんきに歩くなど訓練兵でもしないだろう。だから訓練されたあるじはどこから弾丸が降り注いでもいいようにずりずりとほふく前進をしている。私は空母の司令塔よろしくその上に居座っている。
そして最後の目玉はこちら!
酸素を効率よく体内に取り入れるための半開きな口とそこから漏れる声。
「ハラァ…………ヘッタアアアァァァァ……………!」
死者の呼び声のような死にかけでかすれた唸り。口からコファーと蒸気が出てそうな人外具合である。
あるじは二足歩行なのに六本足でカサカサと動くような生き物になってしまった。これは成長と言えるのだろうか。一応、足の数が増えたから成長と言えるかもしれない。
経験による成長であれ退化であれ、あるじがこうなってしまったのは自己申告通りお腹が減っているからだ。実を言うと私もハラペコゲージが真っ赤である。
昨日の夜、他人の金で一生に一度のチャンスとばかりに飲み食いしたくせに、と思うことなかれ。
異世界の料理+お金を出して食べる料理の相乗効果は一期一会じゃなくて、たしかに飲み食いしたのは昨日のというより今日の深夜ではあり今は明け方である。が、今日の午前零時に飲み食いしたのが正しくとも、それが6時間くらい前かというと正しくない。
寝る所が確保できず一文無しで宿には泊まれないし深夜ならなおさらでそれならば時間を効率よく生かそうと、試験前の学生のように徹夜にはげもうと月の塔へ遊びに来たのだった私達。
しかし、寝る時間を削る必死な学生と夜の暇つぶしな私達をいっしょくたにするのはどうだろう。まあ必死であっても今まで勉強してなくて徹夜するような学生はダメで追試は必至である。人間、必至で死ぬのは簡単でも必死に生きるのは難しいのだ。
話を元に戻すと、私達には計算違いがあった。それは時間だ。
深夜0時から明け方6時までは何時間でしょうかなんて問題は年齢いかんによってはただの挑発であるだろう。だがその計算を間違えた。間違えたというよりは徹夜で集中力の落ちた学生のように計算を見落とした。月の塔の中では時間が遅く流れるということに。
詳しい計算はわからないが、少なくとも引き算だけではなりたたなくて6時間滞在のはずが少なくとも一泊二日のプチ旅行となってしまった。
さらにまずいことに塔の門はどうやら入るのはともかく出るのは日中限定と、かなり胡散臭いことを24時間勤務な渋い声が言ってきてプチ籠城攻めを受けたのだ。
異世界どころか塔の中にコンビニエンスストアがあるわけもなく、こんな機会でもなければ絶対に注文しないであろうシェフの気まぐれ料理というかあるじの気がおかしい雑草サラダもなかった。
24時間以上の飲まず食わず。
運んだり動かしたり飛んだりする肉体労働。
神経を逆撫でるような試練の数々。
眠ろうとすれば歌い始める渋い(声だけは)塔の代弁者。
こんなのが4つも重なってしまえば人間も辞めたくなるだろう。というか眠れないのは猫である私にとっても痛手であったが、あるじが働いている間ちょこちょこ休憩していたのでまだ猫を辞めてはいない。
仕事を辞めたら無職になるが人間を辞めたら所属としては何になるのだろうか、と思いつつ私を乗せた暫定あるじはずるずると這いつくばって進んでいく。既に赤壁を越えて街の中に入ってきているので白いワイシャツが砂で汚れ洗濯母さんの仕事を増やすことになるのだが洗濯たんとうはあるじ自身なので別にいいか。
「フーッ…………フォォォォッ…………!」
汽笛を鳴らすようにあるじが吐息60%・人間としての意思1%・私の操縦39%の意思を喉を通る空気で表す。目的地が近いようだ。
目的地は現在地と同じく街外れの白衣少女の家。昨晩よくも泊めてくれなかったなぁ! というお礼参りではなくタダで食い物にありつけそうな場所がそこしかなかったのだ。
正確な時間はわからないが、街の中から人の動きによる生活の音が猫の鋭敏な耳に聞こえる。一日の最初の仕事として窓を開ける音、店先を掃除しながら同じような近所に挨拶する声、子供を起こしてお日様の下で干そうと広げられるシーツのはためき、世話を見にきた人を見て喜ぶ馬のいななき。
太陽がまだ仕事始めの寝ぼけ眼で十分に暗いというのに、太陽の就業とともに人々も生活を始める。それは都市〈シティ〉の真夜中でもフィーバーしている電灯装飾とは真逆な光景で、とても自然的でかつ経済的かもしれない。
なんて今までの生活は無駄があったのだろう! と嘆いたりはしないのは私が猫だからではないだろう。たいていの人間は電気もネットも水道もない生活におちいったことの方に嘆くはず。私としてはまだ朝早く街外れで人気がないから暫定・私の乗り物の醜態を人目に晒されなくてほっと一息。
「……………………」
ついに獲物を見つけた我が足がカサカサと半球屋根の建物―――診療所に近づいていく。裏手の家庭菜園上に食べられるものを目ざとく見つけつつ、目指すは部屋の中だと命じる。
地味にあるじが気配を消すというテクを使うのを感じ取りながら、一段高い玄関に乗りあげる。玄関扉のドアノブにあるじの手が伸びてキィィィィと古い造りが軋みを上げて開き、その隙間が開ききるまで待てないとばかりにあるじが顔を突っ込む。四つん這いの男がドアの隙間から血走った眼を光らせるなんて、中から見たらちょっとしたホラーである。
こちらがホラーテンションだからとはいって中の雰囲気がそれに合わせてくれるわけもなかった。ジョークが通じなかったのに通報されるとはこれいかに、といった温度差が露呈する場合もある。空気読めないのは果たしてどっちか。
温度差と評するならばこの暫定人間無職が低温で、あちらが高温だろう。
中の雰囲気は温かかった。理由は単純明快に年頃の少女が二人いて華やかだったからだ。比べるべくもない。ただ、温かかすぎたかもしれない。
セニスは椅子に座って丸眼鏡の奥のねむそうな目を白衣の袖でこすっていた。どうやら彼女も徹夜明けのようで栗毛色の三つ編みが崩れかけている。
さらにもう一人は藍色の髪の少女で、彼女は逆に今起きたばかりなのだろう、寝ぼけ眼で同じような目をしていた。そして浅葱色のワンピースを諸肌脱ぎどころかかろうじて下半身が隠れているだけの脱ぎっぷりだ。藍色の髪に合わせるように青白い肌は不健康そうだが、彼女の肌の美しさに影響を与えていない。
おおかたの所、診察でもしていたのだろう。白衣少女の前で療養中の少女が脱いでいる。ここまではいい。同性だし、医者の前で脱ぐのをためらう患者はそういまい。
しかし、そこにノックもせず少年が入ってきたらどうなるだろうか。駄目押しで四つん這い。
「………………………………………………」
「………………………………………………」
いつからラブコメになったんだこの世界はお金ホラー(まんじゅう怖い的な)だろ空気読めよー、と軽い調子でつっこみたい第三猫。
まったく、私には理解できない世界である、だいたいラブコメの主人公が無条件でモテるのはともかく、お色気な目にあいまくるのが好きではない。主人公が少女を腹の上に載せたり一緒に露店風呂に入ったり少女の足の指を悩むか迷うようなそんな人間はクズだと思うの。
これから起こるだろう猫の耳には優しくない甲高い叫び声に対して軽く現実逃避をしてみたが五秒と持たなかったが、心の準備はそれとなくできた。
そして時は動きだす。さあ、叫び声どうぞー。
「メシクワセロオオオオオオオオオオオオオオ!」
叫んだのはうるわしい半裸を見られた少女ではなく飢えたのぞき魔だった。
一番空気が読めないのはあるじのようだ。