Lv29―VS燃素<フロギストン>
ドームの天井が陥落し周囲の壁も所々壊れて外の景色が見える天文台には二人の登場人物と、一匹の観猫がいた。
男優は埋もれた階段の前でどうしようか悩み、女優は反対側の壁際で自分を縛りつける刃を抜こうとしていた。
それで終わるはずだった。
だが、パンフレットの人物紹介欄に名前すら乗っていない人間が舞台に飛び込んでくるなんて想像できるわけがない。
しかも、その人間はもう二度と会うことはないだろうと思っていた、私達を殺そうとして初めての【魔法】を見せた人物だった。
何でこんな所にいる―――――――!?
黒外套の魔術師は壁の外側、くずれた壁の向こう側、少しだけある縁に立って現れた。
そしてアリアが背中を寄せていた壁ごと、アリアを腕で貫いた。腕はアリアのみぞおちから貫通して突き出ており、当然貫かれたアリアは傷を負って気絶したのか目を閉じている。
壁に突き刺さったままの双剣が、力なくうなだれるアリアの首に食い込み赤い血が流れた。
「―――――アクシオ、双剣よ来い」
何の前触れもないあるじの言葉に、私が反応するよりも早くその魔法は発動した。
――――――――――――【誘引魔法】
壁と垂直になっていた二つの短剣はカタカタ揺れ、深く突き刺さっていたはずなのにあっさりと抜けこちらに向かってネコミミオッサンの時よりも数段速く飛来してくる。それを何ともなしにあるじは双剣の柄を両手同時に受け止めた。
―――――――どうしてだ?
つい数分前に使った同じ魔法は、石を私に向けて運んできた。だが、今の魔法は本当に小説に出てきた【魔法】と同じでで、双剣はあるじの元に呼び寄せられた―――――あるじが使ったかのようだった。
魔法を使ったかのようなあるじを見上げると、その深い夜の色のような黒色の瞳で何の表情もなく前だけを見ていた。違う。馬鹿を言うな。あるじの目は灰色だ。今のは何だ。目の錯覚…………?
そんな思考は、ざらついた砂のようなしわがれた声が聞こえて止まった。
「くっ」
喉がけいれんを起こしたような音を漏らした黒外套は、その奥にある醜男な顔を月明かりでうっすらと浮かばせていた
「アホ魔術師の実験を見るために街長を殺すだけのつまんねー仕事だったが、まさか【天使】の【召還】に成功するとは思ってもいなかったな。こんな片田舎で思わぬ掘り出し物だ」
以前会った時に比べるとやたら若い印象の話し方をする黒外套は、腕で貫いたままのアリアを見下ろした。その目は、まるで虫の標本を見るかのような目だ。
「……………………」
あるじは何も言わず、代わりにとばかりに固いものが割れる音がした。壁だ。
双剣を無理矢理魔法で抜いたのがトドメとなったのか壁は崩れ去り、黒外套とその腕に貫かれたアリアだけが残った。舞い上がるホコリに顔をしかめた黒外套はその顔をより歪めることになる。もうもうと立ちこめるホコリにまぎれて獣が飛びかかってきたからだ。
言葉を交わす暇も惜しい、と双剣を諸手にあるじは一直線に駆けだしていた。その目は食い殺すこと以外何も考えていない餓狼のような鋭さ。
距離は約15メートル。肉薄するまでにはこの速さでも数秒はかかる。半分も進まないうちに黒外套の視線はあるじを捉えていた。
言葉もなくいきなり襲いかかる気まんまんのあるじに黒外套は恐れるどころかにぃと口元を歪めた。
「はっ、ヤル気満々かよ。いいぜ、そういうの好きだ―――――炭にしてやるよ」
一回は私達に撃退された炎の魔術師はとてつもなく愉快そうに口元を歪めながら、左手を前に突き出した。
たったそれだけの動作にぞわり、と背中の毛が逆立った。あるじも何かを感じたのか、その場から思いっきり身を横に投げ出した。気のせいだったらその場で転んだただのバカだが、その選択は正解だった。
数秒前まであるじがいた地点より黒外套寄りの場所が、燃え上がったのだ。
この異世界で初めて見た虚空を燃やす魔術【炎上】の橙色の炎ではない、血のような緋色の炎があるじの目の鼻の先で燃え上がる。
人を包むほどの大きさの炎がいきなり発生したが、様子がおかしい。前の時や【ファイガ】で出た魔法の炎はすぐに消えた。それは燃える物がないからだ。だが目の前の炎はロウソクのように何もない空中で燃え続けている。
ぱちぽちと火の粉を吐き出して、まるで空気を燃やしているかのようだ。
「この間の礼だ、冥途の土産に教えてやるよ」
炎は消え、妙な魔法を発動させた黒外套は見下すような笑みと共に鼻で笑った。右手で貫いた少女を抱きかかえるようにして。
「【燃素〈フロギストン〉】―――――無詠唱かつ極消費力の、世界でこのオレだけが使える魔術だ」
宙を撫でるように指を振ると、画板に絵筆でなぞったようにチチチッと赤い線が跡をひいた。違う、燃えたのだ。
「物質に可燃属性〈フロギストン〉を加えることで、強制的に燃焼現象を起こすことが出来る。それが燃えない物でも、空気でも、水でもな」
燃素。
小学校の理科レベルの話だが、燃焼とは有機物の急激な酸化により起こる現象である。
だがかつて中世時代までは、燃えるのに必要な物質《燃素》が存在すると考えられていた。
物が燃えるのは燃素が熱に反応することで煙や光を放つ、つまり燃素とは微細な火薬のように考えられていた。
この考えは後に、燃やされた物質が重くなる―――酸素が結びつくため―――という実験結果により否定される。
つまり《燃素》とは、かつて存在を否定された架空の物質である。
存在しない物質が存在する――――――だがここは異世界でご丁寧にも【魔法】を名乗った技術であるそのくらいは可能であろう、驚きはしない。
私が驚いたのは、【既視感】が発生しなかったからだ。今まで例外なく【魔術】を目にすると既知感と共にその魔術の情報が手に入った。それは人外の【天使】も例外ではなかった。
だというのに人間である黒外套の【魔術】には何の反応も見せなかった。…………【既知感】が発生するのには何か知らない法則があるのか?
「おら逃げろよ」
「……………!」
いつのまにか二人は交戦を始めていて、また私は観客の立ち位置になっていた。
双剣を特に構えずあるじは身を低くして獣のように駆けようとするが、魔術【燃素】の炎が行く先々に立ち上り近づけない。
血をかけることが攻撃手段のアリアとは違い、魔術の炎は黒外套からの距離は関係なく死線をやるだけで発生する。獣の速さのあるじでも避けるだけで近づくことが出来ないのだ。
「っは、おいオレだけに魔術使わせてるんじゃねーよ。さっさとお前も本気出せよ」
「【加速魔法】」
その短いあるじの一言で効果音やまぶしい光や魔法陣が出ることもなく静かに魔法が発動した。魔法の力を得て、一歩一歩の距離が大きくそして俊敏になる。まさしく獣の速度。人では追い付けず、頓馬な獲物として噛み殺されるだろう野生の速さ。
まただ。
また私が何もしていないのに、勝手に【魔法】が発動した。
あるじも魔法が扱えるようになったのか? だが【魔法】が発動する際の軽い【既知感】のような頭を締め付ける痛みも私にはあった。あれは私の魔法だ。まるでリモコンになった気分である。
しかし、今のあるじならそんなことが出来ても不思議ではない。
空気を焼き切る音をかきわけて、あるじは強行しようとする。アリアの時の急加速だ。いきなりの速さに黒外套は驚き炎があるじが既にいない場所を焼く。だがすぐに妙に甲高い声で笑った。
「速い――――――が、動きが単調過ぎだ!」
「づぅっ………!」
置き去りにされた炎が次々と追いつき追い越し、あるじの行く先々に灼熱と爆音を撒き散らし妨害する。ゴゥッと空気を飲み込み焼きつくす一際大きな【炎】にあるじが吹きとばされた。
何とか受け身をとってすぐに立ち上がる。ジャンパーコートがくすぶって煙を出しているだけで目立った外傷はないが、立ち位置は元に戻ってしまった。
「……………まあ、そりゃ《僕流・戦闘術》とか言っても要するに半分寝てボケーっとした頭で体を動かしてるだけだからな。………………そりゃ余計な動作を省くから速くなるし、動きも単調になるさ。普通ならチェンジアップ以上の意味は持たないしね」
ぶつぶつと何かを呟いてせき込みながらあるじは、腰を落として構える。
彼我の距離は15メートル。
魔術の炎を避けて近づくにはあまりにも遠く、月までありそうな無謀な距離。
どうやら急加速は単調になるらしい。いくら速くてもそれでは動きが読まれてしまう。100キロ以上のスピードを出す車があってもまっすぐな道路を走っていればそうそう事故を起こすことはないのと同じだ。
その上、床には大小さまざまな瓦礫があり動きにくく、これもあるじの動きを妨げる要因となっている。
それらを計算に入れたうえでも、あるじは逃げようとせずまだ諦めていない。アリアがいるからだ。腹を貫かれて虚ろな目をしている状態はかなり危険だ。一刻でも早く手当てをしなければ、命が持たない。
安全靴に力を込めてあるじはまた魔術の炎に立ち向かう。
「待った」
それを止めたのは黒外套だった。先程の好戦的な雰囲気は潜めているが、外套付帽子〈フード〉で薄暗いこともあって表情はよく見えない。
「そもそもオレに戦う気はねーんだ」
「…………はぁ?」
意外、というよりも意味がわからないことを言い出した黒外套にあるじが鋭い目を向ける。気の置けない顔見知りのように馴れなれしい話し方で黒外套は話し始める。
「さっきは冥土の土産っつったけど、殺す気はねえよ。シェイラ・ジャルガに手を出すのはしねー。あんなイカレタ一族を相手にするのは面倒だからな。オレがここに来たのは目的があるからだ」
イカレタ一族――――その真意はわからないが、黒外套の話を口を挟まず聞く。
「専門家の魔導手記を渡せ。そうすりゃオレは帰る。その為だけにわざわざ顔を出しに来たんだぜ。それ以外に用はねえんだよ」
魔導手記――――あるじが勝手に持ってきたハルヒニの手帳のことか。黒外套はそれを手に入れるためだけにここに来たようだ。
まるでアリアの腹を貫き殺しかけているのはついでであると言うように。
「―――――――――――ざけるなぁっ!」
ダンッ、と床を蹴りあるじが飛びかかろうとする。だが距離を半分もつめない内に【燃素】の炎が立ちふさがりまた逃げ回るはめになった。炎は軽い爆発と共に発生するため、直撃はしなくともその衝撃と熱の余波であるじの服はこげて肌は赤くなり火傷を負い始める。
視線だけで魔術を発動させ、炎であるじを追いまわしながら黒外套は不思議そうにしていた。
「おいおい、怒るなよ」
「なに言ってやがる!」
怒声とともに瓦礫を黒外套に向かって蹴り上げるが、その瓦礫からも火が燃え上がり空気が爆ぜて地面へ叩きつけられる。
「手帳が欲しいだけなら、なんでんなことをすんだよ!」
「はぁ?」
黒外套は心底わからないと顔を歪め、自分の腕が貫いたままの少女を見た。浴衣は真っ赤に染まり足元にも尋常じゃない血だまりが出来上がっている。
「天使だろコイツ? なら殺すのは当たり前だろ」
【天使】。異世界の住人で、冷戦中の侵略者。人外。
手で叩き潰した蚊の死骸を見せるかのように右腕を突き出した。アリアの体は力なく揺れて口から新しい血の塊が流れ落ちる。
「人間の敵だぜ? 侵略者だぜ? ぶち殺さないといけないだろ」
汚いものを見るような、それこそ叩き潰して手に張り付いた蚊の死骸を見るような、侮蔑の目でアリアを見下ろした。
「……………!」
避けて進んで避けて戻ると炎のダンスを繰り返していたあるじがステップを変えた。髪の端を炎で焼かれるのも構わずに二人に向かって真っ直ぐに突っ込んでいく。
そんな彼を新たな炎が襲う。
「なに怒ってんだよ」
今までの炎がロウソクの火ならば、たき火の炎だ。月光だけの真っ暗な部屋を小棚の隙間まですみずみ照らす程の大量の光を発する、空気どころか人を飲み込むのも簡単だろう炎があるじに襲いかかる。
「――――――――――っ!」
炎につっこむ直前、あるじは急停止した。だが炎は倍以上の大きさにふくれ上がり飲み込まんとする。それを予想していたのだろう、足を止めたあるじは既に剣を構えていた。
「――――――――セイッ!」
右から左への剣閃。あるじは炎を斬り裂こうとしたのだ。アリアの血を斬ったように、私の【ファイガ】を斬ったユニ兄のように。
だがユニ兄のようにはいかなかった。あの時と違うのは剣の業物としての格が違ったことと、ファイガなんて比べ物にならない熱量を【燃素】の炎が持っていた事だ。
「づっ………」
斬られた炎は上下に分離して直撃を避けたが余波までも消すことは出来ない。右手でふるった短剣をそのまま投げ捨ててあるじは床を蹴って逃げる。
投げられた短剣は一際大きな瓦礫の上に落ちた。それには鋼色の刀身はなく、柄も熱で歪んでいた。剣が溶けたのだ。
【ファイガ】がただの火遊びに思えるほどの熱量。人殺しの【魔術】。戦意がないと言いつつも、この規模の【魔術】を使えるのは黒外套が優れた魔術師だからか。
剣を溶かすほどの炎で、その剣を握っていて無事で済むわけがなくあるじの右腕が真っ赤にはれあがっていた。だがそれでも戦意は落ちてなく、隙あらば喉笛に噛みつこうと左手に一本となった双剣を構える。
だからといってそんなことを黒外套が考慮に入れる訳もない。炎が再び迫りあるじは逃げきれない。アリアの時は圧倒的な速さだったあるじが炎に補足されつつある。
視線を向けるだけで発生する【燃素】の炎は、どれだけ速く動けても意味がない。眼球の動きより速く動くことなど不可能だからだ。
でも、それだけではない。いくらなんでも獣の動きと【加速魔法】の速さは並大抵ではない、一瞬でも気を抜けば姿を見失う。
「おれ、遅せーぞ! 次は左腕イっとくか!?」
「…………っ」
何よりも黒外套が戦い慣れているのだ。
どんなに速くとも動きが単調ならば簡単に先は読める。さらに殺し合いの空気にも慣れていて、獣がどんなに近づこうとも焦らず照準を合わせて冷静に引き金を引く度胸もある。単純な強さだけで言うならば確実に殺し屋〈タナトス〉以上だ。常人が勝てるような強さではない。
この世界の魔法が使える常人でも無理かもしれない。
「【エルミニの雪遮竜壁】!」
崩れて一寸先は奈落の壁際に追い込まれたあるじが絶対防御の魔法を発動させる。中で雪が舞う涼しげな透明の壁が、両者の間に線をひく。竜の力を持つ魔法は絶対の強度を誇る。
だが、そんなのは関係ないとばかりに黒外套は吠える。
「―――――――――【炭になれ】!」
呪文がいらない魔術に喝を入れるように叫ぶと【エルミニの雪遮竜壁】が―――――――燃え上がった。
冷たい雪すらをも燃やし、炎が大きく膨れ上がる。違う、燃えていない。雪の壁は炎の中で悠然とたたずんでいる、燃やすどころか角すら溶けていない。ただ単に【雪壁】よりも【炎】が大きかっただけだ。
だが、それにどれほどの意味があるだろう。
「なっ…………!?」
目の前の壁が炎にまかれたことで顔面に火がせまったのだ。それが揺らぎのような炎の端だとしてもたまったものではなく、あるじは壁の陰から逃げだした。
【壁】では【炎】は防げない。
距離も燃やす対象すらも無視をする【炎】ならば、壁の内側をピンポイントで狙うことも出来たはず。そうしなかったのは余裕か、目的のためか。
必死で動き回るあるじと違い、黒外套は退屈すらもにじむ声で再度話しかけて来る。
「なあ、とっとと手記を渡してくれねーか。そうすればオレに戦う理由はねーんだから」
「だったら! さっさとアリアを離せ!」
息も絶え絶えに叫ぶあるじの姿を炎が隠した。だがすぐに火を破って現れる。くすぶっている以外、見た目は大した変化はない。しかし一回二回ならいいが、何回も続けばそのうちあるじは倒れるだろう。
ちゃくちゃくとあるじを追い込みながら黒外套は全く傷を負っていない。勝負の趨勢を考えるまでもない。ワンサイドゲームだ。
「なんだ? まさか殺されかけてる天使に同情心でも抱いてんのか」
勝負の最中だというのにアリアに目を落とすが、炎は的確にあるじの進路をふさぐ位置に発生する。黒外套の表情はわからないが呆れと侮蔑、一抹の怒りが含まれていた。
「おい、こいつはもう6人、いや7人の人間を殺してるんだろ。立派な侵略者じゃねーか」
事実関係ではそうなのだ。アリアは手を汚した。どう言いつくろってもそれは変わらない。
「カワイイ綺麗な顔にでもたぶらかされたか、馬鹿め。これだから男って生き物は駄目なんだよ。女は生きるためにどこまでも媚びる生き物っつーことから目をそらして幻想を抱く。
お前がやってんのは、保護欲そそる子供の動物を見て殺すなっつてるようなもんだ。動物なら生き物殺して食うし、子供が大人になったら人間すらをも襲う。哀れみをかけるなんて筋違いなんだよ」
だから天使は殺せ。何故なら、敵だから。人を殺すから。殺される前に殺せ。
この世界で生きる人間にとって、それは正しいのだろう。間違っているのは異分子である、私たちなのだ。
「ひょっとしてこの天使を守る気でいたとか? 幻想だ、んな気持ち」
炎はいつの間にか止まって、巻き込まれた棚にかざられた巻き物や本が燃えているだけだ。その火も燃料がつきかけていて弱々しい。
うつむいて走るのを止めたあるじからも同じようなくすぶりを感じる。短剣を持った左手は重そうに垂れ下がり、雨に打たれているようにうなだれていた。
黒外套に支えられ立っていることすらも限界、とぐったりと動かないアリアの足元には無視できない程の血だまりが広がっていた。時間がないどころか、もう手遅れかもしれない。すぐさま駆け寄りどうにかしたいと思いながらも、アリアまでの距離は、月ほどの距離が開いている。
たった10メートルの、あまりにも遠い距離に絶望したのか、手の届きそうな近い距離から非難する黒外套の言葉をあるじは反論もなく受け入れているようだ。
「勇者なんだろ、エルミニの魔術師さんよ。雪山でもぶっ殺して喜ばれてたじゃねーか。すでに【天使】を殺したんだ。勇者としてもう一匹、ぶっ殺せよ」
すでに天使を、彼女の同族を殺したお前にオレを非難する権利はない、と黒外套は高々と言葉を浴びせる。
お前の言うことは所詮エゴである、と。
現実を見ていない幻想だ、と否定する。
「答えろよ、勇者」
釣った魚を吊るすように天使を右腕で貫いたままの魔術師は、言葉もない人間を見下すように静かに叩きのめした。
黒外套の言うことは、あまりにも正しく反論することなど出来ない。
「世界の流儀はいたって簡単」
だが、それも所詮はこの異世界の理論。
「弱肉強食」力がすべて。
「権力金力学力頭脳力」そして暴力。
この世界にとって何よりも異分子であるあるじは顔を上げた。
月光を反射する二つの光はガラス色でも、獣の色でもない。あるじの瞳の中には【魔術】ごときでは100年たっても熾せないであろう、不屈の火が宿っていた。
「―――――――――天使は殺せ。魔物は殺せ。魔王は殺せ。悪は即ち斬れ。悉く殺せ」
その声は憤怒ではない。
憎悪どころか哀惜すらも含まれず悲喜交々から逸脱した、天然水を沸騰させ濾過し分離させ蒸留してできた水のように、透き通った強い想い。
「そんな者を勇者と呼ぶのなら――――――――」
勇者なら。勇者だから。勇者でしょ。勇者なのだから。勇者として。勇者のくせに。勇者。
「――――――――――――――こちとら偽勇者で十分だっ!」
その想いをトリガーに一つの魔法が発動する。
【黄昏よりも暗きもの、血の流れよりも紅きもの】
脳裏にのみ響く声なき呪文。私の中のなにかが発動させようとしている実感はあるのだが、これはあるじの想いが起点となり私の意志とは関係なく形作られていく。私のチカラがあるじによって今までにない程に活性化させられていく。
【時の流れに埋もれし偉大なる汝の名において、我ここに闇に誓わん】
力が、命が、魔力が、吸い込まれるようにしてあるじの構えた短剣に集まるのを感じる。それは圧倒的なる力。光の粒子が短剣にまとわり膨れ上がっていき、形は既に短剣の小ささを超えた。
【我らが前に立ちふさがりし、全ての愚かなる者に】
「守るものくらい自分で決める――――――この感情を幻想だなんて言わせない!」
それはまさしく光の剣―――――――聖剣だ。
【我と汝が力をもって等しく滅びを与えん事を!】
「―――――――――【竜破斬】!」
聖なる剣と化した短剣をあるじは思いっきり――――振るった!
雫を払うように光の粒子は飛び散り光弾となって黒外套に向かって飛来する。その中でもひときわ大きい雫―――光に包まれた短剣が矢のように貫かんと襲いかかった。
「―――――――――っ!? 【炭になれ】!」
呪文もなく発動した魔法に驚愕しながらも、歴戦の魔術師は同じく呪文がない魔術を発動させた。
それは炎上する壁。前方の限られた区間を【燃素】で満たして、それを爆発させ続けることで、その空間に侵入した存在を炎で焼いて空気の膨張で押しのける、世界のどこを探しても黒外套しか使えない高度でオリジナルな魔術【燃素炎上】
だが、それに合い討つは最強の魔法。
小説〈オリジナル〉の魔法に比べれば万分の一の力もない、似てすらない非なる魔法。当たり前だ、あるじごときにファンタジーとはいえ〈魔王〉が使っていた魔法が使えるわけがない。
だが、あるじの持ちうる限りの力と感情で出来た、全身全霊の魔法。
燃素の壁が出来たコンマ数秒後に光の弾丸は着弾する。
「――――――――――ぎっ………!」
かざしていた左手が火であぶられたように痛み、脳が熱で焦がされるような衝撃が黒外套を襲った。【燃素】の壁を聖剣が削り、また聖剣も【燃素】によって燃やされて直視すれば失明する光量が周囲100メートルを真宵の昼に変えた。
手で押さえているわけでも手から魔術を発しているわけではないのだから、手をかざすことに意味はない。だが、とっさに出してしまったのだ。焦がすような日光に手でひさしを作るように、壁にぶつかりそうになって手を伸ばしてしまうように。
常人どころか魔術師が持つ魔力の総量の凌駕するほどの魔力が込められた破壊の一撃。数秒でこしらえた盾など一撃で貫かれなかったことが奇蹟とすら言える暴虐。
「――――――――――があああぁぁっ!」
より大量の、瞬間でつぎ込める魔力をおしみなく消費して【燃素】を次々と目の前の空間に発生させる。加減する暇はなく、手のひらが炭になるほど焼き焦げているだろう。
呪文も触媒もなくたった数秒でこんな強力な魔術を構築するのはもはや【魔術】の域から逸脱しているが、黒外套の魔法も【魔術】のレベルを凌駕している。
結果、聖剣ははじかれた。
勘が鋭く防御が間にあった、無詠唱の高度魔術【燃素】に長けていた、聖剣を受け止めることから途中で受け流すことにした、など様々な要因があったが黒外套その最強魔法を防ぐことに成功した。
受け流された聖剣は崩れてしまった壁から宵闇の彼方へと消えていってしまった。
たった一度の攻撃だというのに受け流しただけで満身創痍であり、歴戦の魔術師である黒外套もこれにはさすがに驚愕を隠せない。
だが、それでも気は緩めなかった。
「―――――――上かっ!」
目の前から少年がいなくなっていることにも気付かなかったが、長年の勘が〈敵〉が頭上にいることを知らせて首を上げる。
上空には瓦礫と崩れかけた壁を蹴って3メートルも飛び上がったあるじがいた。
確信があったものの音もなく上空からフクロウのように襲いかかる姿には驚かざるを得なかった。あと数秒、気づくのが遅ければ驚いただけでは済まなかっただろう。
ただれた左手を上空のあるじに向けた。
それは必殺の【炎】を出すためのものではなく、実質の勝利宣言だった。
炎は手から出ることなく、空宙であるじを飲み込んだ。
そして炎を突き破ってあるじが落ちてきた。
「――――――ッ、なっ!?」
黒外套は知らなかったのだ。あるじのジャンパーコートはケプラーやポリプロピレンその他で造られたということを。〈燃えない布〉が存在するという事を。
聖剣も上空からの奇襲も防いだ黒外套であったが、あるじはそれすらをも予想していた。【燃素】で迎撃されることも予想していた。だから遮熱防火ジャンパーコートで熱だけを防いでしまえば、炎の衝撃だけで落下するあるじを止めることは出来ない、と。
つまり結局は――――――――
「技ぁ、見せすぎなんだよ!」
舐めて自分の技を見極めてくださいとばかりに連発した黒外套と、虎視眈々と喉笛に噛みつく算段をたてていたあるじの戦闘経験の差が勝敗を分けたのだ。
落ちてきたあるじは握りしめた拳を思いっきり黒外套のほほに叩きつけた。そして爆発した。火が燃え上がり、拳と頬を焼いたのだ。その衝撃はすさまじかったのか、空中でまだ無防備だったあるじは吹き飛ばされて壁に叩きつけられた。
「ツメが甘いぜ【魔術師】さんよ」
ぱさりと帽子〈フード〉が外れて赤い髪がこぼれた黒外套は頬から煙が上がっているというのに、にたりと笑った。自分の頬を【燃素】で燃やしたのだ!
拳は炎ではじかれ、がら空きの体に炎を叩きつけたのか。
とはいえ自爆したのと変わらない。自分の魔術で頬の皮膚が焼けただれ―――いやあれは人工皮膚〈マスク〉か? 煙が上がっているのは悲惨としか言いようがない。
だがツメが甘いのは、貴様も同じだ。
転がったあるじとは別方向から、炎の奔流が黒外套に直撃した。
「っが、あああぁぁぁ!」
顔面に直撃した、と思ったのだがどうやら炎を使って受け流されたようだ。しかし本当にぎりぎりだったようで造り物の顔はドロドロに溶けて高熱を持っているだろう。
慌てて人工皮膚を引きちぎって地面に叩きつけると、正真正銘の顔が現れた。日焼けのように赤くなっているが、切れ長の瞳、勝気そうな眉、筋の通った鼻と美人の条件を満たしている。というか女だったのか。
醜い男から赤髪の美女に変身した黒外套に驚く私だが、黒外套は黒外套で何やら驚いている。
「猫が魔術を使うだと!?」
今の一撃が一際大きな瓦礫の上に座る私の放った【炎にかたどられた、宙を這う獲物を探す蛇】だと気づいたようだ。
観客がいきなり壇上に上がるのは不躾だと思うが、前線が倒れたのならば後方支援のするべきことはただ一つ。前線に詰める事だ。命令したあるじも気絶したので私はようやく魔法をぶちこめるようになり、挨拶代りの不意打ちを決めたのだ。
人殺しの分際でよくもあるじにグダグダと説教かましてくれやがって引き裂いてハラワタ食いちぎんぞ?
第二ラウンドは5秒で沈めてやると殺気をみなぎらせる私だが、黒外套は私の殺気に気付かず呟いている。ざらついた耳障りな声ではなくハスキーがかった女性特有の高い声になっていた。
「【燃素】の魔術でも直接は燃やせなかった、魔法ではなく魔術を使う猫………あの王族以外の【エルミニの雪遮竜壁】の担い手―――――――」
ばっ、と目を見開いて私から目をそらした。私の殺気に怖気ついたのか、と思ったが黒外套はそもそも私を見ていなかった。見ているのは、壁に背中を預けて気絶しているあるじ。
「―――――――『召還者』か!」
もう異世界から召還されたのを見抜かれるのはこれで3回目だが、内二回は召還された人間を敵と言い張る【天使】。
だが人間である黒外套からも『召還者』という【天使】しか知らないはずの単語が出て来るとは思わなかった。
「ハッ、ハハハッハッ!」
それ以上に疑問なのは、近所迷惑なぐらいの声量で笑う黒外套。
―――――――喜んでいる?
『召還者』は災厄を呼ぶ存在、天使の敵。
ならば人間にとっては敵の敵で、味方?
「まさか、まさか『召還者』に出会えるなんて! はっ、ははははっ! こんな、こんなタイミングで出会うなんて―――――――なんて幸運だ」
火傷はそれほど酷くはなさそうだが肩で息をする様は疲労困憊だ。それをすっかり忘れたかのように大笑いするその様子はそんな簡単な話ではなさそうで、私は直感した。コイツにこの事を知られたのはまずい、と。
口封じをするべきという勘に従い、瓦礫の上でいつでも飛びかかれるように四足で構えて頭を下げて臨戦態勢をとる。
どうやら私までもが【召還】されたとは思っていないようで、黒外套は私を主人の仇を取ろうとするかわいらしい小動物とでも誤解したのかくっくっくと喉を震わせている。
その喉食いちぎってやる、と久々のマジバトルに心震わせていると黒外套は予想外な事を言いやがった。
「オレは帰らせてもらうぜ」
目的であるはずのハルヒニの【手記】はまだ床に落ちているジャンパーコートのポケットの中にある。だというのに、あれだけの【炎】を連発しといてあっさりと退くのは奇妙を通り越して不気味だ。
それにここまでやっといてタダで帰すわけがない。降伏宣言に近い言葉を無視して私は【魔法】を発動しようとする。
血の気を多い私を見て、黒外套はその端整な顔をにやりと歪めた。何か重大な見落としを指摘されるような不安をあおる、笑顔とは分類できない口元のゆがみだ。
「ただでとは言わねえよ。ほら、ちゃんと受け止めろよ」
言しれない不安に私が二の足を踏んでいる間に黒外套の美女は次の手を打っていた。
右腕で貫いていた少女を、あっさりと解放したのだ。抜けた腹には穴が出来て血があふれだす。貫かれたままだったのは止血の意味合いではよかったかもしれない。
自分を傷つけ支えていた腕から解き放たれて、アリアは力なく倒れていく。壁の外へと―――落ちていく!
突きとばされるようにして離されたアリアは踏みとどまることも出来ず、黒外套が入ってきた穴から落ちていく。二階、しかも天文台という特殊な施設だから他よりも高く、落ちたらただ事では済まない。
いつの間にか姿が消えている黒外套を追いかけるという選択肢すら思い浮かばず私は自身でも最高であろう反応速度で魔法を展開した。
【エルミニの 雪 遮 竜 壁】―――――――彼女を受け止めろ、と。
しかし、間に合わない。彼女の体は既に見えなくなっており、二階よりも少し低い位置になんとか発生させたが、あの状態では受け身もとれず頭から落ちてしまったかもしれない。既に瀕死の状態なのに、あれでは本当に死――――――――――――
焦っていた私は一迅の風が吹いたことに気付かなかった。
とっさに床の縁に駆けよって、崖のように底が見えない足下の暗闇を見る。
ぼんやりとした月光で見えたのは、落ちていったアリアと、それを抱き止めて【壁】の床にひざまづく気絶していたはずのあるじだった。
現れた【壁】―――というよりアクリルガラスのような床は、暗闇でそこに壁があるかも疑わしいくらいだがしっかりとそこにあり、間一髪あるじが間にあったのだ。
異天文台の床の縁に手をかけ一気に這い上がる。当然、アリアを抱いたままだったが難なく復帰できた。
すぐそこに落ちていたジャンパーコートを敷いてアリアを寝かせる。あるじも二回も炎の直撃を食らってかなり傷ついているが、アリアはその比ではない。
貫かれた腹部からは血が流れているだけではなく口からも血が逆流している。それに出血はまだ止まっていない。寝かせたことで血が広がり浴衣や白い胸元を赤く染めあげていく。
目をつむっている顔は苦しそうでもなく、それがもう手遅れのような気がしてならない。
「手遅れなわけあるかっ!」
噛みつくように怒鳴るあるじは自分の手当てもせず、応急手当をはじめた。
怒鳴り声で意識が戻ったのか、アリアがうっすらとまぶたを開いた。
―――――――――体が冷たい。
何故だかうまく動かない頭でそんなことを考えた。
とにかく眼を開けようとしたがまぶたが錆びついているのかと思ってしまうくらい重く、なんとか半目まで開いた。
かすんだ視界に映ったのは天頂の月と雲が浮かぶ夜空とありなの怒っているかのような顔だった。
そこでようやく彼女は、自分が彼を怒らせてしまったことを思い出した。彼がまだ怒り顔なのは彼女がまだ許してもらっていないからだと思い、凍りついたように動かない口を開く。
「ご…………め、なさ………い」
かすんでほとんど聞こえてないだろう声に代わりごぼりと胸の中から熱い何かがあふれた。熱いそれは口の端からこぼれて頬をぬらす。あまりにも多くて、その匂いを鼻で感じ取ることが出来た。
なじみ深い、血の匂いだ。
そこでようやく、自分の腹に穴があいていることと、自分が死にかけている事に気がついた。それと、お腹の辺りが少し暖かい事に気がついた。
「血が、血が止まらない………っ」
破れた革袋からこぼれる葡萄酒を止めようと、彼のワイシャツと彼の手が押し付けられていたのだ。白いワイシャツはとうに血を吸いすぎて赤くなり彼の指の間から血が流れ続けている。このままいけば彼女は死ぬだろう。
彼女が思ったのは死んでしまうことへの恐怖よりも、彼にこのままでは置いていかれてしまうことへの恐怖だった。
いやだった。
置いていかれることには慣れていない。そもそも誰かに置いてかれることなどなかった。天使には人間のような親と子の概念は無く、家族という集団も存在しない。その中でも彼女は珍しく、誰とも交わらない生活をあの明るいのに陰鬱としていて誰もいない純白の城『永世の幕間』で過ごしていた。人の温かさにも、冷たさにも触れる機会はなかった。
あの子のように姉と過ごすこともなかった。あの子の笑顔を奪ってしまったのが自分だというのにどれほど絶望しただろうか。どれほど悲しかっただろうか。家族という繋がりを壊してしまった、ことの大きさに彼女は耐えきれなかった。
それでも、会わす顔は持っていないが、せめて抱きしめてあげたかった。
「ケアルガ! リジェネ!」
声が聞こえる。切羽詰まった、愛しいあの人の声。
彼の声で周囲と彼女の中の魔力の流れが動き魔法が発動した。どうやら、彼は魔法で彼女の傷をふさごうとしているようだ。
無理だよ。
言葉無く彼女は彼に伝えた。天使は通常の人間よりもはるかに生命力にあふれていて、腹を貫かれた程度では死なない。神術を使わずとも自己治癒すら可能である。
だが、魔術師に天使の【核】を壊されてしまった。腹に手を突っ込まれた時に念入りに息の目を止めるために何かをされたようだ。これでは、もう、魔法どころか指先一つ動かせない。
魔法の手ごたえは彼にも伝わっているのか、彼はよりいっそう切羽詰まった声とともに魔法を発動させる。
「レイズ! アレイズ!」
今度は何も起こらない。魔力の対流すら起こらず、彼の手の温かさしか伝わって来ない。それだけでよかった。
「何で………何で発動しない! ここは異世界だろ! 魔法があるんだろ!」
いやだな。
そんな声、出してほしくないよ。
ねえ、魔法を使うくらいなら、私のことを呼んでよ。
口は動かなかったけど、目は動いた。黒髪の彼にはそれだけで伝わったのか、望みをかなえてくれた。
「アリア、アリア!」
その名前、好きだよ。
ありながくれた、ありなに似た名前。
本当は怖かった。
いつアナタが私から本名を聞き出そうとするのか。いつその名を取り上げられてしまうのか、恐ろしかった。
私にはもう一つ名前があるけれど、あなたが呼んでくれたアリアという名前の方が聞いた回数は多いだろう。どちらが呼ばれて嬉しいなんて口に出すまでもない。
苦痛をこらえるような、泣きたくても泣けないような、ひどい表情で彼は彼女を覗き込んでいた。
彼は悔いているのだろう、守れなかった、と。自分は間違っていたのではないか、と。あの時、路地裏で出会わなければ彼女が記憶を失いながらも、幸せとまではいかないがそれなりに生きていけたのではないか。
そうかもしれない、彼女は天使であることすら忘れて自分を血まみれにする【翼】を一生月光を浴びせることなく生きて行けたかもしれない。
「……………そ、なの………や、だ」
でもね、そんなのやだよ。
記憶をなくしたいと思った時なら、絶対にそっちを選ぶけど、ありなと出会った今なら、例え結末がここだとしても、絶対、こっちを選ぶ。
ありなにとってはたった四日かもしれない。時間で言えば72時間しか過ごしてないかもしれない。起きて言葉を交わした時間は、もっと少ないかもしれない。
でも、もらったものはとても多かった。ここ数日で私は今までの人生よりも多くの言葉で話しかけられ、大きく心を動かして、こんなにも温かい気持ちを産むことができた。
「…………っ」
目の前が暗くなった。血が足りなくなってきたのだろう。もう時間はない。間近に迫った死で彼女が思ったのは、彼へのお願いだった。
「……………ねぇ……………アレ、して…………」
頭に浮かんだのは一昨日の劇で見た誓い。
一緒にいたい。
だから、それをしたい。
置いていかれるのはいやだけど、それをしたら一緒にいられるかも、と思ったのだ。
「…………………ん」
月が消えた。ありなの顔が近づいて視界いっぱいになって、くちびるに温かい何かが触れた。
あたたかくて、涙が出そう。
涙はあふれず目は開いているのにどんどん暗くなっていって、周りの音も小さくなっていった。急に眠くなって、考えているのもつらくなる。声を出そうと口を動かしたが喉が震えたかは分からない。伝わらなかったかもしれない、と彼女は思う。
最後に何か聞こえたような気がした。
グーテ・ナクト、アリア。
おやすみ、天使さん。