Lv06―『地熱街ウィルマ』・逃亡は計画的に
『地熱街』ウィルマ。
街並みはドイツ風のレンガ造りかと思えば、日本のスキヤキ屋敷? みたいな家屋も立ち並んで妙な統一感を醸し出している。
具体的にはシェイラ・ジャルガ王国に属する、人口は二万ほど街だ。
人口二万、これを少ないとするか多いとするかは議論が分かれるだろう。私たち異世界の者にとっては少ないと思える。辺境にある街地〈サブテラ〉の半分しかいないのではないだろうか。
しかし、それはこの街が閑散としているのとは同義ではない。逆にこの街はこのエドガルズ大陸有数の人が集まる土地として知られていた。
現にもう日は落ちているというのに、かがり火による明りの中で露店が工芸品・食べ物・民芸品を売り、客は土産を買い食べ物を買って食べながら歩く姿で大通りはにぎわっている。
理由は風土にある。
街はほぼ四方を山に囲まれた盆地に位置するため、街に入るためには山の間をぬうように整備された街道に通じる北門と南門の二つだけの入り口から入るしかない。かなり不便だ。
それだけではなく、この街は大した名産品がない。この先に行けば『シェイラ・ジャルガ王国』首都があり、その手前には貴重な鉱石が採れる『鉱石街』シラィアがある。
ウィルマには補給や休憩に立ち寄るだけで通り過ぎるべきなのだが、旅人やこの街をよく通る商人ですら逗留していく人間は多い。金にがめつい商人ですらこの街に数日滞在し、街に金を落としていくのだ。
その謎は街を覆わんとばかりにあちこちの建物から吹きあがっている煙にある。
煙は見えないほど薄くなっても、辺り一面に匂いで存在を示す。その臭いはタマゴが腐ったようなとしか表現のしようがない。
そう、硫黄の匂い。
ここまで来るとわかるだろうが、この街は温泉宿泊街なのだ。
あちこちの建物――たぶん宿だろう――から吹きあがっている煙は温泉の蒸気が逃げていることを表している。
「温泉かぁ。イズ都市〈シティ〉の時はスッポンポンの殺し屋〈タナトス〉がスッポンポンのまま襲いかかってきてスッポンポンのまま逃げだしたから、あんましお湯につかれなかったんだよなー。
温泉入ってみるか、猫」
私も早く温泉入りたいです、そしてこのねちょねちょを洗いたい……………。
スライムの贈り物である黒真珠はあるじがジャンパーコートのポケットに入れているが、スライムの粘液×1は未だに私の頭の上。
これがまた無臭のくせに嫌なオーラを放っているのだ。しかも無臭、といっても人間の嗅覚には捉えられないだけで、猫の鼻には牛乳を搾った雑巾クラスの悪臭を放っている。
あ、泣きそう…………。
動物達の大群をすり抜けた私達は鳥君による爆走RUNにより、その日の内に『地熱街』ウィルマに入る事が出来た。
街門にはものものしい検問所があって何やら不穏な雰囲気だったが、軍章を使って入街検査をノーパスで入り、今は岩敷きの大通りを歩いている。
鳥君は、通り過ぎるだけならともかく、観光や滞在の場合だと街中を連れては行けないようなので、街門近くの厩舎に鳥君を預けた。
なので今は久々の二人きり。大通りを観光気分で歩いている。
姫も鳥君もネコミミオッサンも他の護衛も他の騎獣もいない。裏路地生活の私もあるじも、人に囲まれる生活というのは少々神経を使い苦痛だったので、今はささやかな解放感がある。
あるじもそうなのか、さわやかな笑顔で言った。
「さて、逃げるか。魔物狩りもお姫様の護衛も全て放り投げて」
さわやかでも言った事は最低だった。
もう一回、言ってもらっていいですか?
「さて、逃げるか。このまま失踪してしまおう」
ちょっと具体的になった。
…………………〈魔物狩り〉から逃げるのはわかりますけど、お姫様の護衛まで投げるってのはどうしてですか?
私はあるじの肩の上に、物干しざおに引っ掛かる布団のようにぐてーんと乗っかっているので、顔は見えないあるじに問いかけた。
むこうの事情で無理矢理異世界に召還されたのが原因だとはいえ一文無しである私達の世話をしてくれているんですよ。それなのに逃げるんですか?
「猫、よく考えてみろ。僕達があそこにいた時にどんなメリットがあった?」
あるじは犯人を公衆の面前で言葉攻めする探偵のように指を立てた。
メリット…………ご飯を用意してくれた、お風呂も用意してくれた、寝る所を用意してくれた。
…………あれ? 意外と大したことないぞ。
「そうなんだ、食住は世話になっているが、食住しか世話になってないんだ。前回の時に貸してもらった剣も毛皮付き外套も必要経費みたいなものだろう。実質的に僕らは先日の戦いを食べ物とふっかふかのベッドだけで働かせられたようなものなんだよ」
でも食事は美味しかったですし、布団も寝心地最高でしたよ。
「あのベッドは僕には高級すぎて肌が合わない。トイレットペーパーは再生紙派なんだよ。食事は美味しかったけどさ。
でも! それだけであの半命懸けの戦いをやらされたんだぞ。割に合わないにも程がある」
確かに、数日の食料と寝床だけであの戦いは割に合わなかった気がする。戦い自体は大したことじゃなかったけど、そこにこぎ着くまでが綱渡りの連続だったからなあ。
「今回のダイセートまでの護衛にしても、いきなり魔物の群れに特攻させられて僕は思った。このままでは命がいくつあっても足らない、と」
どっちの時も活躍したのは私ですけどね。
そんな私の突っ込みはあるじには届かなかったようだ。
「だから、逃げる。異世界に来てまで化物と戦いなんてしたくない。逃げるのはいいけど戦うのは僕のプライドが許さない」
捨てろそんなプライド。
どうやら先日の逃げるを選べない雪山イベントバトルは相当こたえたようで、目が据わってテコでも動きそうにない。
そんなあるじに、ぼそりと一言だけ言う。
ユニも見捨てるんですか?
「うっ…………」
お姫様の名前を聞いた途端、あるじの足が止まった。
あんなに自分を慕ってくれる少女を見捨てて、しかもいなくなる時には「一言だけでいいですから、私にお言葉をかけてからにしてください」なんて泣きそうな表情で言われたのに無視するんですか?
「うううっ………………」
ぶわっ、とあるじが冷や汗をかいているのがわかる。逃げたいヘタレ精神と約束破るのはダメ精神が戦っているのだろう。
「だが、逃げるっ!」
あ、ヘタレ精神が勝った。
そして勝ったヘタレ精神は演説という名の言い訳を始める。
「大体、僕が護衛してても意味ないだろ。自慢じゃないがボディガードになれなかったから家を追い出された人間だぞ。これ以上ない不適任だ」
でも、雪山では護衛してましたよね。
「あ、あれは、その、状況に流されたというか、逃げるためには仕方がなかったというか………そもそも勝てたのは猫のおかげだよね。僕いらないだろ」
ボッコボコの、ボッコボコの、ボッコボコにされただけですもんね。でも、あるじが護衛やめたら、もしかするとまた危険な目にあうかもしれませんよ。良心は痛みませんか?
「良心とか、相手を責める時にしか使わない言葉を出してまで僕を責めたいのか? なにこれイジメ?」
いえ、ただの疑問ですよ。あるじがいないせいで、また召還された時みたいな状況にユニがなるかもしれないんですよ?
「…………そもそも僕を頼る時点で間違ってるんだよ。そんなに言うなら猫が護衛すればいいだろ。行けよ、僕は止めないからな」
あるじが白い目というか拗ねた目で見て来るので私は追い打ちをかけるのをやめた。
私はどっちでもいいですから。
あるじを言葉攻めしたのもユニに肩入れしてるわけじゃなく、ただあるじをイジメたかっただけだし。
「やっぱりイジメだったかっ!」
わめくあるじを無視して私達の意見はまとまった。
ユニに申し訳ないと思わなくもないが、いたしかたない。あるじに逃げるなと言うのは、猫に毛づくろいをするなと言うようなものである。最初から無理があったのだ。
私はぷらぷら揺れてあるじの肩から落ちないようにバランスをとりながら語りかけた。
で、魔物狩り退治も護衛も放り投げて、これからどうしますか。
「…………どうしようか?」
左こぶしをあごに当てて考えるポーズをとるあるじ。
「うーん」
考えるあるじ。
「うーん」
考えるあるじ。
「ぐー…………」
寝るあるじ。お約束すぎるっ!
私は脱力のあまり、ずるっと落ちそうになりあわてて前足を使って踏ん張った。立ったまま寝るとか自由すぎるよこの人。
寝たまま歩き人とぶつかりそうになるとすいすい避けていく。逃げる避けるという点だけ見ればあるじは異様なほどの性能を持つ。意地でも戦わないから弱いけど。
というか。会話の途中で寝るとか失礼極まりない。なので猫罰を与える。
くらえ、【エルミニの 雪 遮 竜 壁】。
魔法の壁があるじの目の前に突如発生し、
「がべっ!?」
激突したあるじは鼻を押さえてうずくまった。
~~~~~~っ。
そしてあるじの肩にぶら下がっていた私の頭も壁と激突した。も、盲点だった。痛い………。
あ、あるじは目が覚めましたか?
「ご、ご飯を食べていたら急にガンコ親父がちゃぶ台返しをして鼻がぁぁぁ………」
どうやらあるじは愉快な夢の世界にいたらしい。現実世界にさっさと戻ってきてくださいよ。
「んあ? な、何が起きたんだ?」
急にあるじが転んだんですよ。私まで巻き添えにして。
「そ、そう、ごめんね」
あるじは立ち上がるとまた目的地もなく歩き始める。するとあるじが首をかしげた。
「………あれ? 僕達なにしてたんだっけ」
それを話し合っていたんですよ。
私が安定するように肩を動かずあるじに言う。
「で、結論は何だった?」
どうやら激突した後遺症で前後の記憶が抜け落ちたらしい。結論は出てないのに。とは言ってもあるじと話してもいい案は出ないだろうから、話を進めるには好都合。
とりあえず、大前提の指針は変わりませんよね。
「大前提?」
…………これは忘れたと取るべきか、前後の記憶だけではなくいろんな記憶も一緒に落としたと考えるべきか。あるじのユルい脳ミソではどちらも有り得そうだ。
【異世界召還論】についてですよ。
元の世界に帰るにしろどうにしろ、【召還魔法】について調べるという方針を決めたはずなのに、すっかり忘れてるよこの人。
あるじは思い出したのか「おお」とぽんと手をたたいた。
「ユニは召還魔法についてあまり知らなかったみたいだからなあ。調べるとすると、文献か研究者から………か。研究者は人に聞いて探すとして、文献はどっかに図書館とかないとね」
お姫様が向かう『大聖都』とやらは大陸の中心都市みたいですからそこに行けば………。
「あー、でもここからしばらくかかるんだよな? アシはどうしよ。お姫様の護衛やめるのに鳥君を連れて行くわけにもいかないし、そもそも付いて来てくれないだろう」
頭をガシガシかくが、本当の懸念はそこではない。
あるじ、大事なことを忘れてますぜ。
「大事なこと?」
いくらあっても困らないのに、全然ないと困っちゃうモノなーんだ?
「いきなりなぞなぞ? えーっと…………………モンスターボール?」
たしかに買い忘れるとゲットできませんけど! あんた現実世界でモンスターボールなくて困ったことあるんですか!?
シャーッとあるじの耳の近くで威嚇声を出してびびらせる。
正解はお金です。
その答えを聞いた途端、あるじの足が止まる。
「お金………だと?」
そうです。
「あの天下の回り物の?」
そしてあるじには回ってこない物です。
「僕には回って来ないんだ…………」
そうです。回転寿司で手前に団体さんが座っていて中トロがやってこない如しです。
「くっ…………僕の知らない所でせき止めてるやつがいるんだっ…………ん? なんで猫は回転寿司を 知っているんだ。僕でさえここ数年行ったことないのに……………」
ふっ、私クラスになれば回転寿司屋の前でニャーと可愛く鳴くだけでおごってもらえるんですよ!
「この猫、僕が知らない所で贅沢してる――――――!?」
実は貧しい食生活をしていたのはあるじだけだったという隠された真実に瞳孔が開くほど驚くあるじ。
今まではお姫様に衣食住を保証してもらえたが、その元を去るなら【召還魔法】うんぬん以前にどうにかしなくてはならない問題だ。
「異世界来てもお金の心配しなきゃいけないのか…………なんかショック」
幻想(ファンタジー)に夢見ていたゲーム大好き人間あるじは現実(リアル)とのギャップに軽くヘコんでいる。
ヘコんでいる暇があったら考えましょう。
前足でたしたし叩きながら現実(リアル)に復帰させる。
「考え、って…………考えてどうにかなるものなのか? 普段と同じように稼ぐしかなくない?」
普段――この世界に【召還】される前は土木作業から運送業、果ては子守りから浮気調査と探偵まがいなこともしていた。それがこの世界でできるのか、と言われればはなはだ疑問ではある。
でも、この異世界ならではの簡単に稼げる方法があるんですけどね。
「え、あんの? 猫、事情通?」
でも、その手段はとある理由で無理なんですよ。
「教えて! ちょっとの無理くらいどうにかするからっ。猫だって三食水生活は嫌だろ」
た、確かに、三食水とか何も食べてないじゃん生活はつらいのだ。せめて、せめて食塩が欲しい………。
両手を合わせて拝んでくるので仕方がなく話す。
簡単ですよ。ゲームの王道、魔物を退治すればいいんですよ。
「あ」
ゲームのように魔物がお金やアイテムを落とさなくても、あんな物騒な生き物たちがいるんだから街から街へ行く人の〈護衛〉やら、いくらでも稼ぎ方はあるだろう。
誰かさんが! 魔物を! 殺しちゃダメ! 何て寝ぼけた事! 言わないなら! という! 条件付きで!
「うぐぐ…………」
あるじが唸り冷や汗を一筋たらす。つい数時間前に言ったことが枷になる。こういうのを自業自得という。
でも生きるためなんだから、殺すとまではいかなくても追い払うぐらいならいいと思うんですけど。
「う、うーん………………」
腕を組んで非常に悩むあるじ。
自分で悪魔的な誘惑しといてなんだけど、ここでお金の魅力に負けて前言撤回したら人として駄目だと思う。
幸い、あるじはヘタレであってもダメ人間ではなかった。
「やっぱり、そういう何かを傷つけて対価を得るってのはなー…………………怖いし」
最後の一言がなければ勇者っぽいのに…………。駄目だこりゃ、次行ってみよー。
と、いうことで次の話。次というか話を戻す。
何かを手に入れたいのであれば、それがどういう形であれ対価が必要になる。
お金が欲しいならなら、労力・時間・物・知恵・知識その他モロモロを与え報酬として金を得る。これが労働の基本である。
それで応用編になると、お金は価値を表す基準となる。ダイヤモンドなどの美しい鉱石や名産品など珍しい物ほど売買の値段は高くなる。
そして、価値というものは差異に生まれるのである。
ダイヤモンドが河原に転がっているのなら、誰も宝石を買う人はいなくなる。これは供給が需要を上回るからで……………ここまで理解できてますか?
横を見るとあるじは頭を抱えていた。
「ち、知恵熱が……………」
…………猫の話で知恵熱出す人間ってどうなんだろうか。
若干、侮蔑交じりの視線を向けながらわかりやすく解説する。
「つまり、地球にあってこの世界〈エドガルズ〉にない物を考えればいいんだよな?」
そうです。例えば、向こうの世界の大量生産品でも、機械がないこの世界ではかなりの価値が出ると思いますよ。
「所持品…………ジャンパーコート、ワイシャツ、上下のインナー、ジーパン、スニーカー安全靴。財布の中身はレシートと証明証に5ユーロ札一枚に一ドル札二枚に5百円玉が一枚とビックリマンシール。携帯………は解約したばっかでないや。猫は?」
………ふかふかの毛皮だけですよ。見事に何もないですね。
召還された時がちょうど身の回りを整理して引っ越すときで――なんてのは、月一で住所変えていたので言い訳にもならない。
「他には、靴に仕込んであったワイヤーが数メートル」
ワイヤー…………ああ罠〈ブービートラップ〉用のですか。たしか半年くらい前に知り合いの人に押し付けられたヤツですよね。それは売っても大したことなさそうだ。
「他に何もな…………あ」
なにもないのがわかりきっているのに体中をまさぐっていた手が止まった。そこはワイシャツの襟の部分。買った頃の純白さはない薄汚れた白の中に、輝く白色が。
オッサンから(貸して)もらった軍章バッチだ。
あるじまさか………………!
「いや、うん、別に、そんなこと、考えて、ないよ?」
そう言いつつ視線はあちこちにさまようが手はしっかり軍章をつかんでいる。
さすがに売り払うのはどうかと思いますよ。
「そんなことするわけないだろう…………はぁ」
あからさまに落胆した溜息をつくあるじ。
「でも、他に売るものなんて…………」
知識とかはないですか?
「知識?」
そうですね、こっちの世界にはないであろう機械を作ってみるとか。
「………一応、外身〈ハード〉と中身〈ソフト〉は多少いじれるけど、部品を一から作るのは不可能だよ。エンジンどころか日本庭園のカポーンのアレが限界だ。原始的な永久機関なら作れるけど…………お金になりそうもないね」
じゃあ、理科の化学や物理の知識を学会(?)に発表するとか。
「ふっ、舐めるな。化学も物理も地学も生物も成績はオール5だぞ。点数がだけど」
それはそれで淒いと思いますけど。4教科同得点とか数少ない運をそんなところで使っちゃって…………。
「どっちにしろ魔法がある世界で、なかった世界の化学や物理が通じるとは思えないし。生物も………医療技術があるならともかく応急処置ぐらいしかできないよ」
最終手段、ネズミ講!
「異世界来てそんなことを考えた勇者がかつていただろうかっ!? おっそろしいこと考えるなぁ、猫…………でもダメ」
ねずみ、だめなの…………?
可愛いらしくねだるように言ってみるがあるじは首を振って誘惑を振りはらう。どうやら詐欺はあるじ的にNOらしい。
じゃあ、数学の問題とかを解いてみれば?
「数学、か。それならイケるかも。暗算は2ケタ×2ケタまでならできる」
すいません、言い方を変えます。証明問題を解いてみたらどうです? 元の世界にも証明できたら10万ドルとかありましたよね。
「うーん、証明は高等科レベルなら何とか………いや、数学なんて基礎は暗記だから十分いけるかな? 未解証明(ゴルドバハ)は無理だけど、三角形の合同証明ぐらいなら日本語限定でできる………………あー!」
ぶつぶつと呟いていたあるじが急に大声をあげて辺りを見回し始めた。そしていきなり走り出した。
エウレカですか? 何かひらめいたんですか?
あるじは私に答えず走り続ける。つかまった私の体が浮くくらいの勢いは数分後、とある場所の前で止まった。そこは私達が入ってきた街門の検問所の前である。今は既に門は閉じられてかがり火の下で片脇に門番がいるだけである。
落し物でもしましたか?
「あー…………そうだよな…………」
一人で納得してないで話してください。
「あれだよ、看板」
あるじが見上げているのは、ここ街門ですよー的なでっかい木製の看板だ。
「話せるから忘れてたけど…………僕らこの世界だと、字もわからないんだよなあ」
私は猫だから関係なく気付かなかったが、看板は表音文字〈アルファベット〉とも表意文字〈漢字〉ともつかない見たことのない文字である。あるじはその致命的な事に気がついたようだ。
「うわー、字が読めないと本も読めないから文献調べるどころじゃないぞ。魔法のことも基礎ぐらいは知っときたいのに…………」
どんどん沈んでいく、というか本当に地面にうつ伏せになって倒れるあるじ。
宿なし。お金なし。身寄りなし。学なし。勇気なし。不安要素だらけである。
私は倒れたあるじの頭の脇に座って顔をのぞきこむ。
今からでも、お姫様の護衛に戻りませんか?
「…………やだ」
寝床に伏せる病人のようにか細い声で反論する。
というかこんな所で寝ないでください! 門番の人が怪しい人を見る目付きでにらんでますよっ。起きてー。
門番は街門から動いてはないが、急に崩れ落ちた人間を怪訝な表情で見ている。このままだと面倒なことになる。
立ちなさい、ほら。
私は絶望しているあるじの肩につかまって命令すると、まるでロボットのようにふらふらと頼りなげに立ちあがった。
そのまま左手方向に、直進!
巨大ロボのコックピットに乗った気分であるじを操作し、門番の視線から早く離れようと、大通りに戻らず路地裏に入る。あるじはふらふらと私の操作に従って歩きだした。
路地裏、なんて言うといかがわしい気がするが、要は大通り以外の小さな路地である。多分、街の中心の方に行けば裏路地でも店や飮み屋が開いているだろう。
街の外側は割合に静かである。店が開いてなく、長屋や宿ばかりだという理由もあるのだろうがこの街を囲う山の木々が音を吸収しているのだろう。静かすぎて虫の鳴き声が聞こえてくるほどだ。
街灯なんて便利なものもないため辺りは民家から漏れて来る光だけが光源だ。月は雲に隠れて見えない。5メートル先の石畳のつなぎ目がみえないくらいである。
「この暗さは僕の心中をうまく表している」
そんなことないですよ。それならブラックホールの中心並みに暗くなるはずです。
「………………なんだろう、目の前が真っ暗になってきたよ。涙で景色がにじむー!」
あるじがそんなことを言いつつ、暗闇に背を向け明るい大通りへ向かおうとした。
直後に。
からん、と。
背後で。
石畳が音を立てた。
その音に私達は驚き振り返る。人の何倍の聴覚を持つ猫である私と人の何倍も臆病なあるじが、背後に人がいる事に気がつかないなんて、時差ボケならぬ世界差ボケするにも程があった。
私は警戒しながら、あるじはびびりながら。
振り向いた。
そこには一人の白い少女がいた。
肌着のようなワンピースが闇夜に浮かぶ、それ以外に着衣していない浮浪者のように裸足の少女。
あるじが身じろぎをして、背後の大通りから光が彼女を照らした。
銀髪のような輝きはないが、雪のような清らかさを持った白髪。
同じような白さを持った病的なまでの肌色。
その格好はまるでどこかの病院から逃げだしてきた深窓の眠り姫のようで、建物の壁に体をもたれている様も倒れるのをこらえているかのように見える。
「………………………っ」
「え?」
少女が何かを言った。
あるじは不用心に少女に近づく。
そして、またあるじが動いたことで大通りから入ってくる光の量が増えた。
浮かび上がるのは、白と赤のワンピース。
裸足の踝も膝も頬も特にむき出しの肩も指先にかけて、赤色にまみれた少女の姿が浮かび上がる。
純白のワンピースを染める大量の血というよりも赤色のワンピースに飛び散った白い絵の具の方が現実味のある色の比率。
赤というよりも、時間がたちすぎて匂いもしない酸化した黒。
それでも、儚げな少女。
次は聞こえた。
「……………………私、と、同じ」
少女はあるじを見つめ。
途切れるような声で。
言った。
「からっぽ」
その瞳は切なげで。
声は哀れむようで。
言った。
「―――――――」
絶句するあるじに。
今の一言のためだけに存在し続けていたかのように。
少女は瞳を閉じて。
倒れた。
前にいたあるじに抱き締められるように受け止められた。
「…………………………………………………………どうなるんだろ、これから」
かろうじて絞り出したという風な声であるじは今の私達の状況を的確に表した。