Lv16―『竜の巣』・逃走と追走
「――――――っは、っはっはっは!」
ユニは走っていた。
あの半球状の部屋に入る前に在名〈アリナ〉としていた打ち合わせの通り、あの巨大な扉を通って逃げたのだ。《とあること》を頼まれて。
だが、ユニの走りは尋常ではない。ただ急いでいるだけ、なんてものではない。走りにくい洞窟の中、後ろを気にしながら走っていた。
後ろを気にするのは彼女が追いかけられているからだ。
「【fijy Wwwf GQwffu fijy】」
洞窟内で反響する猫達の世界にはない言語。【呪文】。
その声に立ち向かうようにくるりと反転する。銀の髪を乱して走ってきた方向に目を向け、両手で握ると装飾された先端の宝石しか見えなくなる短い白い杖を突きだす。
「【エルミニの雪遮竜壁】っ!」
ユニの優しい、しかし今は鋭い声によって紡がれた呪文が目の前に術者を守る透明の【壁】を発生させる。
そこに激突して火の粉を撒き散らして消えるのは【火球】。
それは数日前の運命の出会い(本人はそう思っている)の時に見た、彼を殺そうとした炎の魔術。
その火球を目印に進んできたかのように、三人の男が洞窟奥の暗闇から現れた。
ユニがあのドーム部屋から出て走って洞窟を進んでいると(壁中にヒカリゴケがびっしりと生えていたので明りには困らなかった)彼らはかがまないと進めなさそうな脇道から現れ、逃亡劇と追走劇が始まったのだ。
「【エルミニの雪遮竜壁】か。厄介極まりないな」
その三人のうちの一人がさらに近づいてくる。
その男は黒い外套をまとっていた。
「…………………お久しぶりですね、炎の魔術師さん」
「ふんっ、お互いに会いたくないと思っていただろうがな」
黒外套はフードをすっぽりかぶり、洞窟内はヒカリゴケ以外に照明がないため表情はうかがえないが歯軋りの音で口元を歪めているのがわかる。
ユニを捕まえたくても【エルミニの雪遮竜壁】が通路を遮断しているので近寄れないのだ。
それに対してユニの声は堅い。いつもの女の子らしい話し方ではなく【姫】として【魔術師】としての話し方だ。
「あなた達は何者ですか?」
「俺達が何者かだなんてどうでもいいだろう。俺もお前のことなんてどうでもいい」
その言葉でユニの奥歯がギシリと軋む。
どうでもいい。それだけで彼女の親しかった側近、師と仰いでいた魔術師が殺されたのだ。怨んでも怨みきれない。が、その事で昏迷するほど愚かではない。
「だったら、私に協力してくれませんか? お金なら望む額を払いますよ」
彼女は姫として万人にかしずかれる環境で育ってきたが、そういう人間ばかりではないというのは理解していた。この手の人間が金を好むことも。
「どうでもいいが、あの化物に捕まえろと命令されているから逃すわけにもいかない」
「化物……………………」
あの少年のことだろうか。人を生きながら燃やし灰にするのを厭わない狂気の魔術師が、彼の半分程も生きてないだろう少年に従わされているのか?
「そんなに彼は強い【魔術師】なのですか?」
【魔術】とは学問だ。己を知り、世界を識り、法則を紀る。
だから一番大切なのは経験。その下積みがあってこそ才能は発揮する。【魔術】より先に知らなくてはならないことは沢山あるのだから。才能がどれほどあってもあの歳では活かしようがないだろう。
だが年齢不詳の黒外套の魔術師が哄笑する。
「【魔術師】? 魔術師だと! アレはそんなモノではない。アレは一人でこの山に住む動物の群れを操る【魔法】を持っているのだ。そんな存在が【魔術師】なわけないだろう」
「……………………確かに、にわかには信じがたいですね」
魔術はあくまで人の手による術。だから、魔術を使ってもできないことはたくさんある。
普通の魔術師でも動物を従え操ることはできる。だが、その数は精々十、余程多くても二十が限度。
操るということは対象の目を鼻を感覚を自分のと繋げ、自分の目や鼻を増やすようなものだ。
本来二つの瞳に一つの鼻しか持たない人間が、そんな大量の眼球を動かせるだろうか。不可能に決まっている。
だが、かの少年は一人で何百という獣を操るという。
そんな者はもう【魔術師】だなんて呼べない。人以外の何かだ。
「だから大人しく投降した方が身のためだ」
狂人には似合わない諦観のこもった溜息を黒外套は吐き出す。
今まで気に入らないものは焼き払ってきただろう【魔術師】は少年に会ったことで―――そして交戦して歯が立たなかったのだろう―――自分の自身が砕けてしまったのだろう。それで牙の抜けた狼のように唯々諾々と言いなりになっているのだ。
こんな狂人すらも力の差で抑えつけてしまうあの少年。狂人すらも恐ろしいのにそれ以上の存在が今現在進行中で在名が戦っていると思うと胸が張り裂けそうだ。
そして目の前の狂人の存在にユニの心は壊れそうなほど追いつめられていた。
姫である故に本来の歳以上にしっかりしているユニだが、殺されそうになって怯えないわけではない。
その存在が目の前で再び自分を襲っており、しかも頼みの魔術は有効な攻撃魔法は魔力が回復しきってないせいで(今日は既に上級魔術の【麻痺矢】を使ってしまったこともあり)使えそうな魔術は【エルミニの雪遮竜壁】のみ。
しかも、それもこの縦にも横にも広い洞窟をふさぐほどの規模になるとあと数回が限度。
しかし【エルミニの雪遮竜壁】は発動さえしてしまえば半永久的に存在させることができる。このまま壁越しに黒外套とにらみ合いをしていれば少なくとも捕まることはない。
その絶対の安全を保てる方法を選択して座り込みたくなる。
でも、駄目だ。
勇者に頼まれたことをしなくては。
すくみそうになる足を叱咤してお姫様は踵を返して走り出す。
「待てっ!」
黒外套が咄嗟に声をあげるが【壁】が行く手を阻むので追いかけられない。しかし数秒の問題だ。
【エルミニの雪遮竜壁】は自分に流れる王家の血によるものが大きい魔術なので、通常は必要な呪文なしでも発動できる特殊な魔術。
だが勇者のように(実際は猫だが)足元に咄嗟に展開させるというような器用な真似はできない。視認していない壁を展開し続けるなどユニの力量では精々10秒が限界だ。
たった10秒の足留め。
それを生かすために懸命に走る。
走るユニの行く手に在名と別れてから、いや洞窟に入ってから初めて期待していた分かれ道が現れた。
一つは大きい(高さは20メートル。横は10メートルはありそう)この洞窟がこのまま続いているいわばメインストリートとでも言うべき通路。
もう1つは小さい、といってもメイン通路の半分はあるそれなりに大きな通路。
どちらが追っ手を撒くには有効かわかりきっている。狭い方が入り組んでいる可能性が高いしうまくいけばそれで黒外套をまけるかもしれない。
だがユニは追いかけられる恐怖で混乱していたのか大きい方の通路を迷わず走りぬけてしまった。
追走劇は、続く。