路地に降り立つ
いつもの時間、いつもの道。いつものように買い物に出た私は狭く入り組んだ路地を歩いていた。
変わり映えしない景色に何か変化を見出そうと周囲へ視線を巡らせていると、頭上から風が吹き下ろしてきた。
「あぶなぁぁぁぁいっ!」
突然の絶叫。
頭上から聞こえた声に顔を上げると、衝撃の光景が目に飛び込んできた。
紺色のキャミソールに同じく紺色のハーフパンツ姿の子供が落下してきているではないか。
遊んでいるうちにどこかの家のベランダから転落してしまったのだろうか。
とにかくこのままではあの子が地面に叩きつけられて死んでしまう!
私は反射的に子供の落下位置に駆け込み、両手を広げて受け止めようとした。
子供と接触する瞬間、衝撃に恐れを抱いた私は顔を伏せてしまった。
肩に軽く触れられた感覚があり、トスリと軽やかな音が聞こえる。
何かが鼻先をくすぐって私のくしゃみを誘った。
目を開いて顔を上げると、そこには落ちてきたはずの子が片膝をついて無事着陸していた。
「危ないって言ったでしょー!」
ぷんすか怒りながらその子が言う。
見たところケガはしていなさそうだ。
「良かっ……、た」
変わり映えしない日常に変化を求めていたのは確かだけれど、ここまでの大事件は求めていなかった。
そう思い知らされた私は安堵からその場にへたりこんでしまった。
「大丈夫? ボクがケガさせた?」
「大丈夫よ。ちょっとビックリしただけだから」
答えながら立ち上がる。
エメラルドのような瞳が心配そうに私を見つめていた。
息を整えてからその子を改めて見てみると、背中に翼を背負っていた。
私の鼻先をくすぐったのはこの羽なのだろう。
「もしかして、それで飛ぼうとしたの?」
「飛べるよ。本物だもん」
十歳くらいだろうか。
この年頃の子ならそういう風に考えてもおかしくはない。
中性的な顔立ちのその子は得意げに翼を動かして見せる。
最近のおもちゃは随分とハイテクなようだ。
「あなた名前は? どこのおうちの子?」
「ミシェルだよー。お空からきたの」
翼を背負ったミシェルは楽しそうにケラケラと笑う。
空からだなんて不思議なことを言う子だ。
ちょっと触らせてもらったけれど、鳥の羽と同じような手触りだった。
ミシェルがぴょん、と跳ねながら翼を動かすと本当に飛んでいるように見えるのでびっくりしてしまう。
「……あ。私買い物に行く途中なんだった。ミシェルもちゃんとおうちに帰るのよ」
ふと現実に返って私はカバンを握り直す。
ミシェルは少しつまらなさそうな顔をして地面を蹴った。
「またね」
そう言い残し、翼を羽ばたかせてミシェルは空へ昇っていく。
抜け落ちた羽をひらひらと舞わせて。
私はその光景を呆然と見上げていた。
それからというもの、たびたびミシェルと出会うようになった。
ミシェルは決まって路地に私しかいないタイミングで空から降りてくる。
ミシェルの言うことを真に受けるなら、あの子は見習い天使で周囲の目を盗んでこっそり地上へ遊びに来ているらしい。
だから私以外の人間に見られてはいけないんだとか。
性別は男でも女でもないような、男でも女でもあるような微妙な感じらしい。
私はミシェルの話をうんうんと聞いて、ミシェルと会わずにいた日に起きた出来事をぽつりぽつりと話した。
お互いに相手のことを知っているけどわかっていない微妙な関係。
友達のような、他人のような曖昧な関係。
それが心地よかった。
ところが。
そんな関係はある日突然終わりを告げた。
「父様に人間界へ遊びに行ってるのがバレた」
俯いてミシェルが言う。
ミシェルが見つめる地面にぽつぽつと丸い染みができた。
「父様すごく怒ってる。もうボクここには来れないかも……」
「ねえミシェル。私がそっちに行くのはダメなの?」
私が尋ねると、ミシェルがバッと顔を上げた。
エメラルドの瞳からダイヤモンドの雫が舞う。
「来て、くれるの?」
「ええ。いつもミシェルが来てくれていたもの。次は私が行くわ」
「……あ。でもダメだ。帰れなくなっちゃう……」
ミシェルは悲しそうに首を横へ振る。
どうしてもうなだれてしまうミシェルの頬を両手で挟んで、ミシェルの瞳を覗き込んだ。
「戻れなくていいわ。いえ、むしろその方がいいの」
吸い込まれそうな深い翠に私は訴えた。
ミシェルにはまだ話したことがなかった、本当のことを。
「私のお父さんはね、去年の冬に病気で死んだの。お母さんが代わりに働きに出ていたんだけど、先月から帰って来なくなっちゃった。
一人きりなのよ。なのに仕事はできないの。十五歳になるまでは仕事をしちゃダメなんだって。そんなこと言われたってどうしようもないのにね。お金はないのにお腹は空くし……。
ミシェルには買い物って言ってたけどね、私、パン屋に行って耳の切れ端や焦げて売り物にならなくなった失敗作をもらったり、青果市場で捨てられた野菜のくずを集めてきてたのよ。おかげで私、町では浮浪者と同じ扱いなの。
来月には今住んでる家を出て行けって言われてるから、本当の浮浪者になっちゃうわ」
私の声は途中から嗚咽に呑まれていた。
ミシェルも大粒の涙をこぼしながら私の話を聞いてくれる。
「こんな生活を続けるくらいなら、ミシェルと一緒に行きたい。お願い。私を連れて行って」
「わ、わかった。父様にお願いしてみる」
震える声でミシェルが言ってくれた。
けれど、その目にはまだ迷いがあるように見える。
「お願いね。私、ミシェルのところへも行けずにここへ留まり続けるくらいなら地獄へ落ちた方がマシだって思ってるから」
恐喝だったと思う。
ミシェルも「地獄」という言葉に反応していた。
けれど、私はこの好機を逃すわけにはいかないのだ。
私は真剣な目でもう一度同じことを言い含め、空へ帰っていくミシェルを見送った。
次の日、私はいつもの路地でミシェルが来るのを待った。
その間も路地を通り抜けていく人たちは私を汚いものを見るような目でにらみ付けて早足で去っていく。
今の私は不幸の象徴みたいなものだからそういう扱いも仕方ないんだろうと思う。
しばらくすると上空から風が吹き下ろしてきて、いつものようにミシェルが現れた。
「お待たせ」
「別に待ってないよ」
「ウソつけ。全部上から見えてるよ」
いつも通りに笑い合って、いつも通りに適当なところへ腰かける。
いつも通りに他愛のない話をしているのに、今日はミシェルの表情が暗かった。
「ミシェル……ダメだったの?」
私が問い掛けると、ミシェルはハッとしたように首を横へ振った。
「父様はね、きみがボクと初めて会った時に身を挺して受け止めようとしてくれたのを見ていたんだって。それで、そういう心根の優しい人なら歓迎だよって……」
「そう。よかった」
あの時のとっさの動きがこんな形で報われるとは。
私はほっと胸を撫で下ろしたが、ミシェルの表情は暗いままだった。
「本当にいいの?」
「もちろん。向こうへ行けばずっと一緒にいられるでしょう?」
「それはそうだけど……」
ミシェルはずっと口ごもっている。
こんなのミシェルらしくない。
それをどんな言葉で問いただして良いのか考えていると、絞り出すような声でミシェルは言った。
「あの、ボクね、ボクたち天使はね、本当はきみたちが思ってるほど純粋で綺麗な存在なんかじゃないんだ」
「だから?」
脊髄反射で返していた。
ミシェルは面食らって、美しい宝石が零れ落ちそうになっている。
「え……?」
「私はミシェルがいい子かどうかなんて気にしてないのよ。迎えに来てくれた。ただそれだけで十分なの」
「うん、わかった。後悔しない?」
「もちろん」
ミシェルは覚悟を決めたようにひとつ頷く。
そして、恭しく私の手を取り、手の甲へ口づけをした。
「ボクと、来てくれますか?」
「喜んで」
ミシェルは私を抱いて舞い上がる。
路地裏に私の肉体を残して。
さようなら、“私”。