第六小節
昨夜なかなか寝付けなかったせいで、柚の瞼はいつも以上に重い。電車の中に入るとドアが閉まるより先に瞼が閉じる。まもなく梅雨の季節だが、今日はよく晴れていて、電車の中は暖かく、深い眠りに誘う。
「・・・べ、・・・たべ、谷田部」
目をこじ開けると、森の姿がある。
「乗り過ごすぞ」
ドアが閉まらないように電車から片足だけホームに足を置いた状態で森が降車を促す。柚は慌てて飛び降りる。
「じゃ、また!」
森がさわやかに去っていく。一瞬の出来事で柚はお礼も言えなかった。
初めて話した日から、目が合えば会釈することがあったが、話しかけられることはなかった。寝過ごしそうな柚を見兼ねて、仕方なく声をかけたに違いない。そもそも1回目に話しかけてくれた時も寝ていたことに気づき、恥ずかしさでいっぱいになる。
翌日、電車に乗ると、柚は車内を見渡す。隣のドアのところに居た森と目が合い、お互い頭を下げ、柚はゆっくりと歩み寄る。
「・・・昨日は、ありがとう」
「乗り過ごさなくてよかったな。俺、何度か寝過ごして、隣の駅まで行ったことあるんだ」
「あー、私は3つ先まで行ったことある・・・」
柚が渋い顔で答えると、森は柔らかい笑顔で返す。
「負けたな」
「ははは」
柚は乾いた笑いしか出てこない。
「部活忙しいから仕方ないよ。あ、遅くまで勉強してたりする?」
「・・・宿題で手一杯」
「英語の和訳の宿題とかしてると、俺、いつのまにか寝ちゃってて全然進まない」
「私は数学の宿題に時間がかかることが多くて・・・」
「数学苦手?」
「苦手・・・かな」
「数学は答えがはっきりしているし、解けた時すっきりするし、俺は結構好きだな」
「数学が得意だなんて羨ましい!」
「数学の先生になりたかったんだ。でも、大学の体育科へ進むと数学の教員免許は取れないから・・・だから今は体育の先生を目指している。先生になって、中学でも高校でもいいから、野球部の顧問がしたいんだ。野球部の顧問が難しかったら、少年野球のコーチとか監督になりたい」
わくわくしたした表情で楽しそうに将来を語る森は、輝いてみえる。
「素敵な夢だね」
「谷田部は? 谷田部の夢は?」
「幼稚園の先生になりたいなって」
「なれるといいな。応援してる」
森の優しい表情に、柚の心は暖かくなった。二人とも付属の大学へ進学希望なこともあり、進学試験の話や大学の話をしているとあっと今に乗り換え駅についた。
「じゃ、また!」
ドアが開くと、森は電車を飛び出して走っていった。
翌日、柚が電車に乗ると、いつも柚が乗るドアのところに森が立っていた。
「おはよう」
「おはよう」
森がはにかみながら挨拶をする。驚きながらも柚も挨拶を返す。
「今日は雨だな。梅雨だから仕方ないけど」
「雨の日は長靴履きたいのに、どうして制服の時ってダメなんだろう」
「長靴?」
森からの問いに柚は驚きながら答える。
「森君は長靴嫌い?長靴履いていると濡れないし、水たまりに入れるし、すっごくいいのに!」
森が笑いを堪えてる。不思議な表情で柚が森を覗き込む。
「ごめん・・・水たまりに入るって・・・あはは、いや、ホントごめん」
「違うよ!今日はローファーだから入ってないよ。歩くの下手だから濡れてるけど違うから!」
足元が濡れていることに気がついた柚は必死に弁解する。その様子に森は一瞬真顔になり、優しく微笑んだ。長靴でなくても、入りたいくらい、水たまりが好きなようだ。
「雨の日も悪くないな」
そっと呟き、森は窓の外を見る。長靴を履いて、嬉しそうに水たまりの中を歩く柚を森は想像していた。幼稚園の先生になったら、園児と一緒になって水たまりに入り、楽しんでいそうだ。
「雨が上がったら、虹が見れるかもしれないしね」
柚も嬉しそうに窓の外を見る。二人で窓の外を見ていたら、乗り換え駅についた。
「じゃ、また明日!」
森は電車を降りた。