あなたの愛だけ詰め込んで
――それに目を留めたのは、同行していた中でも一番若いユアンだった。
国の中でも一二を争うほどの隆盛を誇る煉瓦造りの大都市は、ガラガラと鳴り響く馬車や荷車の車輪の音、人々の行き交う雑踏の音、少なからぬ冒険者や傭兵たちの鳴らす武器や鎧の奏でる音で、常に騒音に溢れている。
その中を軽装とは言え武装して歩く十人ほどの一団は、その足音や話し声を騒音の一部に溶け込ませながら、真昼のストリートを進んでいた。
「ねえ、あれ何でしょう」
まだ二十歳にも届いていない下っ端のユアンが指差した方に、隣を歩いていた、ユアンより五つ年上のディードが視線を向ける。
「何だあれ」
思わず溢れたような呟きにつられて、一番前を歩いていた最年長の――と言ってもまだ三十そこらだが――ウォルターも足を止めた。
一団のリーダー格であるウォルターが注意を向けたことで、残りの仲間たちの視線もそちらに向いた。
初めは何を見ているのか分からなかった者もいたようだが、仲間に教えられてようやく気付く。
絶え間なく行き交う人の足を器用に擦り抜け、ぴょんこぴょんこと跳ねるように、道を走ってくる何かがいた。
本当に小さい。
周辺物体と比較して、ウォルターは眉を寄せた。
恐らく、子供の手のひらに軽く乗るサイズだろう。視力に優れたウォルターだから、それが一応人型で、頭と胴体と手足がついていることが分かるが、そうでなければ、正直、蚤か何かと間違えそうだった。
小人族というにも小さすぎる。余程の小動物の獣人か、或いは妖精族の一種だろうか? しかし、この近くに羽のない妖精族がいたかどうか。
首を傾げている間に、その「何か」は一団の前を通り過ぎようとする。
軽やかに跳ねるように走るそれに、一番幼くて、一番擦れていないユアンが、思わずといったように声をかけた。
「ねえ、ちょっと、そこのぴょんぴょんしてるちびっこ」
非常に的確な呼び方が功を奏したらしい。ユアンの声に、「何か」はぴたりと立ち止まり、声のした方を――つまりはこちらを見上げてきた。
そこで初めて、ウォルターは相手の全身を認識する。
認識して、事実を飲み込みきれず、何度か目を瞬いた。
「それ」の姿は、ウォルターの知識にあるあらゆる種族と一致していなかった。
大きくて丸い頭部に、頭部と同程度の長さの胴体。如何なる用をなせるのか想像もつかない短い四肢。
ウォルターの手のひらで完全に覆い隠せるだろう二等身の身体の全てが肉と皮膚ではなく布で構成され、それに見合った小さな服で覆われている。
顔には大きな黒い目と、きゅっとへの字に描かれた口。背中で結んだハニーブラウンの長い髪ばかりは細くて艶やかだ。
――それはどう見ても、人型をデフォルメした、一つのぬいぐるみだった。
「僕に何かご用ですか?」
顔の作りはシンプルだが、可愛らしいと言える類いのものだろう。しかし表情はほとんど動かず、感情の窺えない布製の目がじいっと見上げてくる。
ぬいぐるみの口が器用に動いて、言葉を発した。きっとこの声だけ聞けば何の変哲もない少年のものに聞こえるだろう、幼さを残した滑らかな声だった。
ごく、と誰かが唾を呑む。
動じていないのはユアンくらいのもので、マイペースな最年少はしゃがんでぬいぐるみに目線を近付けた。
「うん、キミみたいな種族、初めて見たからさー。人に踏まれそうで怖いし、どこ行くのか、気になって声かけたんだ」
「そうですか、お気遣いありがとうございます。ご主人様がいるのですが、逸れてしまったので探しているところなんです」
ご主人様、という言葉に、ウォルターは一瞬だけ眉を寄せる。
奴隷だろうか、と思ったが、それを示すような首輪や足輪を、ぬいぐるみはしていなかったし、奴隷が意図せず主人から逸れたのなら、もっと死活問題と言えるほど焦るはずだ。
逃亡奴隷、或いは逃亡したと見做された奴隷の生存率は、絶望的に低い。
「良かったら、探すのを手伝おうか? 俺たちの用事が終わってからになるけど」
「そうして頂けるなら僕はありがたいですが……あなた方も、何か用事があるのではないですか?」
首を傾げてぬいぐるみが問う。全くその通りなので、ウォルターは「安請け合いするな」という意味を込めて、ユアンの頭を軽く小突いた。
「おいこら、ユアン」
ディードも窘めるように声を上げる。
反対されるのは分かっていたと言いたげに、ユアンが振り向いて肩を竦めてみせた。
「だって心配じゃないですか。こんな珍しい種族、ヤバい奴に見つかったら絶対捕まっちゃいますよ」
「そりゃそうだが、俺たちはこれから行くところがあるだろう。いつ終わるかも分からんのに、それまでどこに待たせてるんだ?」
「連れてけばいいんじゃないですか? 今日の用事はそんなに危なくないし、この子くらいなら、俺のポケットに入りますよ」
あっさりと言われた言葉に、ディードは返事に迷ったようだった。
これから仕事だという気持ちと、稀少種族らしきぬいぐるみもどきを放っておけない気持ちが綯交ぜになっているのだろう。ウォルターに視線を向けて、判断を任せる意思を無言で伝えてくる。
他の仲間たちにも目を向けたが、特に異論はないようだった。一番下っ端のユアンが仲間内で可愛がられていることも手伝って、ウォルターの了解があるなら否はなさそうだ。
しばらく迷って、ウォルターは溜息をついた。
「……分かった、ユアン、ポケットから出すなよ。他の奴に見られるな」
「ありがとうございます、ウォルターさん!」
嬉しそうにユアンが答えて、ぬいぐるみに手のひらを差し出した。
ぬいぐるみはぴょんとユアンの手に飛び乗り、器用にお辞儀をしてみせた。
「ありがとうございます。僕では人間の足元しか見えないので、正直困っていたところだったんです」
「ああ、高い所に行ったらそれだけ人目につくもんね。こっちの用事が終わったら、ご主人様の特徴とか、逸れた場所とか教えてよ」
「はい、よろしくお願いします」
間近で見ると、ぬいぐるみは随分と上等な服を着ているようだった。
小さな革靴は特別性だろうか、多少の水なら弾けそうだ。季節に合った青いコートはファーつきのフードが付いているという念の入りようで、生地は恐らく、ぬいぐるみ本体のものより値が張るだろう。
これならやはり奴隷というわけではなさそうだ、と思いながら、ウォルターは歩みを再開する。
ぬいぐるみが、ユアンのポケットにするりと潜り込んだ。
※※※
目的地であるそこは、ひっきりなしに人が行き交い、金ピカの装飾で彩られた豪奢な建物だった。
私営カジノ。この都市にいくつもある、大人の遊戯場の一つだ。扉の向こうには露出の多い服装をした女や、白と黒の制服を着た男がいて、次々とやってくる客たちに案内をしていた。
ウォルターは一旦全員の顔を見て、それからユアンのポケットをちらりと見た。
「騒がしくなっても大人しくしてろよ。こっから先は無法地帯だからな」
そう告げてから、ゆっくりとした足取りで入場していくウォルターの後に、仲間たちが続いた。
スタッフに人数を告げただけで、チップの購入スペースを通り越す一団に、何人かが怪訝そうな視線を向けてくるが、構わずウォルターはフロアを突っ切り、最奥の扉へと向かう。
重たげな扉の前には、黒尽くめのガードマンが二人佇んでいた。
じろりと自分たちを見てくる二人に、ウォルターは懐から封筒を取り出してみせた。
「イェドの代理で参加しに来た。後ろの連中は護衛と荷運びだ」
封筒の中身を確認し、片方のガードマンが一礼する。もう片方が扉に鍵を差し込み、無言で開いた。
「どうも」
軽く片手を上げて、ウォルターが扉を潜る。続いて全員が扉の向こうに移動したのを確認し、重々しく扉が閉ざされた。ガチャ、と再度鍵がかかる音がする。
廊下は照明が充分にあり、掃除も行き届いていて美しかった。
赤いカーペットの敷かれた一本道は、地下へ続く階段に続いていた。
「上のカジノは合法だったようですが、この先も合法の範囲内なんですか?」
周囲を見回しながらゆっくりと歩くウォルターの耳に、潜められたぬいぐるみの声が届く。
花や絵画で飾られた廊下を眺めながら、ウォルターは笑った。
「いいや。――掃き溜めだよ」
ウォルターの言葉に、誰かが苦笑した気配がした。そうですか、と呟いて、ぬいぐるみが再び静かになる。
やがて五階分も降りた頃だろうか。
これだけ遠ざかれば地上にどんな音も聞こえるまい、という深さになって、ようやく行手に扉が現れた。
そこにはガードマンはおらず、鍵もついていない両開きの扉がぽつりと佇んでいる。
ちらり、ウォルターが肩越しに仲間たちを見やる。全員が小さく頷いたのを確認し、扉を押し開けた。
――ざわっ、と。
次の瞬間押し寄せてきたのは、強烈な熱気と、そして優に三百人を越えるだろう人々の話し声だった。
踏み込んだそこは、天井の高い、広大な地下室だった。
数段ずつ途切れた幅の狭い階段を降りて行った先は、コンサートホールのように中央前方に設置された、広々としたステージに繋がっている。
ステージの周囲120度程度、段々畑状に並べられ、複数のブロックに分けられた観客席は、満杯になることを想定されてはいないのだろう。一人から十数人の塊になった客たちが、それぞれ充分にゆとりを持って、ぽつりぽつりと座っていた。
まだ催しが始まってもいないのに、期待と興奮を抑え切れない様子で声高に会話を交わす客が何人もいる。
何を言っているのかは聞き取れないが、ろくなことを言っていないだろうことだけは、ウォルターにも予想がついた。
懐中時計を確認し、ウォルターが仲間たちに目配せする。
ユアンとディードを含む四人がウォルターと共に階段を降り始め、残りが入口付近の席を探し始めた。
ウォルターたちは、最も客の少ない列で足を止め、中央よりも右の壁寄りの席を五つ、占領する。
同じ列には、二十席ほども間を空け、右の壁に最も近い一席に誰かが座っているだけだった。
その誰かは、フード付きのコートで身を覆い、尚且つ目元だけを隠す流麗なマスクレイドマスクを着けていた。
身元の割れたくない参加者がマスクで顔を隠していることは、こういった場所では珍しくない。
貴族か富裕層か、いずれにせよ線が細いから、女か子供のどちらかだろう。意外なことに、護衛らしき者は近くにいなかった。
警戒の必要なしと判断して、ウォルターはその客から目を逸らす。――ステージに視線を固定した時、ぬいぐるみがそっとユアンのポケットから顔を覗かせたが、誰も気付かなかった。
重々しい鐘の音がホールに響き渡ったのは、それから十五分も待ってからのことだった。
ステージの上に、上質なタキシードを着た壮年の男が現れる。同時に、否が応にも空気を盛り上げるような音楽が大音量で流れ始めた。
マイクを片手に声を張り上げ、丁寧な挨拶を述べた男は、そうしてようやく、この場にいたほとんど全ての客が待ち侘びていた言葉を宣言した。
「――ではこれから、オークションを開始いたします。見世物小屋でも滅多にお目にかかれない稀少生物や猛獣から、人族、獣人、森人族、地人族まで、多種類を取り揃えてございますので、皆様予算額とご相談の上、奮ってご参加くださいませ!」
※※※
「こんな真っ昼間に街の真ん中で違法奴隷オークションとは、世も末ですね」
滑らかに進行していくオークションを、椅子の手摺りに頬杖をついて眺めていたユアンが、両隣にいるウォルターとディードにぎりぎり聞こえる程度の声量で呟いた。
この場所は、唸るほど金と権力を持っていて、珍しいものや他人と違うものに目がなくて、人間性がマイナスに振り切っている、上流階級のクソゴミ共の掃き溜めだ。
次々と運び出されては落札されていく「商品」たちは、いずれも地獄への一本道を歩かされているかのような表情で、頑丈な檻やら拘束具やらに縛られているが、ユアンはそれに不快そうな顔こそすれども、義憤に駆られている様子はない。
育ちと歳の割に物分かりがよく、善良だが割り切りも早いところはこいつの強みだな、と思いながら、ウォルターは苦笑した。
「合法のオークションなら気持ちが良いってもんでもないけどな」
「合法ってったって、実際に法定下で奴隷になる奴なんて半分もいないんじゃないですか?」
合法の奴隷と言えば、主には重犯罪者か借金か、いずれにせよ堕ちる道はそう多くない。
しかし実際には、それを遥かに上回る数の善良な人々が奴隷として首輪をつけられているし、あまつさえ人族以外の人型種族までもが暗黙の了解で取り引きされているというのだから、奴隷制度というものはこの世界に広く根を張っている。
違法奴隷問題は、一部では強く問題視されながらも、奴隷制度そのものがあまりにしっかりと根付きすぎたシステムであるがために、誰も切り口を得られないのが現実だった。
法定下で奴隷になった者は、それがたとえ何百年後の話であれ、ツケを払い切れば自由になれるという救いが用意されている。――だが、違法奴隷にはそれすらないのだ。
今まさに競り落とされた兎族の獣人も、自分の背中には大鎌を構えた死神が張り付いていますというような顔で、芸術品のような細工の施されたデザインマスクで目元を隠した中年男に競り落とされた。
二つ前の列にいるその男は、どうやら稀少なタイプの毛皮模様らしい兎獣人が舞台袖に引っ込められていくのを満足そうに見送っている。
落札された奴隷は、一度全て舞台裏に戻され、後で代金と引き換えに引き渡される。勿論、最後まで参加せずに帰る客がいれば、一足先に受け渡しを済ませるのだろうが。
――いつまで続くのか、といい加減うんざりしたウォルターが胸中で呟いた時、隣から「あれっ」と不吉な声が聞こえた。
見ると、顔を引きつらせたユアンがポケットに手を突っ込み、内布を引っ張り出している。
「……おいまさか」
一瞬で生じた考えたくない疑惑に、ウォルターの顔も青ざめる。ユアンがぎしぎしとぎこちない仕草でウォルターを見て、ぼそりと告げた。
「ちびっこがいないです」
「!!!?」
ユアンの向こう側にいる仲間たちが揃って目を剥いた。
ウォルターは目眩がした。超稀少種族がこんな所でいなくなるなんて、次の「商品」としてステージに出てくるどころか、客の誰かがこっそり捕まえてポケットに放り込んでいたっておかしくない。
(おいどうすんだよ!? 俺たちは動けねぇんだぞ!?)
好奇心に駆られたか、それともまさか一丁前に奴隷たちを助けにでも行ったのか。どちらにせよまずいことになる。
今にも頭を抱えたいのを堪えているウォルターの隣で、ぬいぐるみを連れてきた張本人であるユアンは可哀想なほど真っ青になっている。
非常にまずい、このまま時間が経てば、この場所は少々騒がしくなる。あの小さなぬいぐるみがどこかに潜んでいてくれればいいが、混乱の最中に踏み潰されたりしたら、あのちびっこはぼろぼろの布切れになってしまうかもしれない。
その時、ディードがぎょっと表情を変えた。ウォルターの向こう側を指差して、「いやいました! あそこです!」と小声で叫ぶ。
その指の指し示す方向を追って、ウォルターの喉から引きつった声が洩れた。
ぬいぐるみはてけてけと通路を歩いて、ウォルターたちと同列に陣取っている唯一の客――右の壁際に座るマスクレイドマスクの人間に近寄っていくところだった。
フードと仮面で鼻から上を覆ったその客は、相変わらずきゅっと唇を引き結び、じっとステージを見つめている。
あわあわしているウォルターたちには目もくれず、ぬいぐるみは仮面の客の何席か手前で立ち止まった。
かと思うと、背中に腕を回して視線だけをわざとらしくあちこちに泳がせながら、「ふふーん」と鼻歌でも歌っていそうに澄ました仕草で、うろうろと足踏みを始めたのだ。
音を出していない辺りは一応TPOを考えているようだが、ウォルターはもう卒倒しそうだった。
「何考えてんだあのバカ、ちびっこ!」
「こんなとこに来るような連中、珍品好きのイカレばっかりだぞ! 動くぬいぐるみなんて怪奇現象みたいな奴、見つかったら一瞬で大騒ぎになる!」
ぼそぼそと叫び合う彼らを他所に、今度はぬいぐるみは、客の二つ隣の席によじ登り、きちんと座って舞台を眺め始めた。両手両膝揃えて正座し、ちらちらと客を横目で見ている。
「横見るなよ! 絶っっっ対気付くなよ……!」
赤くなったり青くなったりしながら、ウォルターは心底祈った。ぶっちゃけ、上司にさえこうも切実に懇願したことはない。
――そして、次の瞬間。舞台の向こうから破裂音が聞こえた。直後に野太い悲鳴が響く。調子良く続いていた司会の声が、この時初めて止んだ。
「何事だっ!?」
マイクのハウリングを強烈に響かせて、司会が怒声を上げた。それを押し除けて、舞台袖から誰かが出てくる。かっちりとした軍服の、筋肉質な男だった。
「――強制捜査である!! これよりこの会場にいる者は、一人残らず我々軍の指示に従ってもらう!!」
腹の底から発された大音声に、一拍置いて客席から悲鳴が上がった。
事態を理解した司会が、今度は自分が商品として引き摺り出されたような顔をしてへたり込む。観客たちが我先にと逃げ出すのを横目に見ながら、ウォルターは即座に散らばった部下たちに合図を送った。
最初に分かれていた部下たちは入口近くを固め、足の速い客や壁際に控えていた護衛連中を取り押さえる。ウォルターと一緒に座っていたユアンたちは分散し、逃げようとする観客を周囲から取り囲みにかかった。
舞台裏には充分な人員がいるはずなので、応援に行く必要はない。幸いなことに、地上から五階分の距離があるこの地下空間でどんな騒ぎを起こそうと、地上に騒音は伝わらない。
ホールを見回し、仲間たちの動きを確認したウォルターは、最後に自分のすぐ近くにいる客へと視線を向けた。そうしてすぐに肩を落とす。
(――んで、あいつはいつまでアホなことやってんだ……!)
この修羅場のど真ん中で、ぬいぐるみはとうとう仮面の客の隣席にまで移動していた。
短い足を優雅に組み、頬杖を突き、わざとらしく欠伸をしたりしながら、チラッチラッと横目で隣を見ている。
一方、謎のアプローチを受けている客はと言えば、他の客たちのように逃げ出すこともなく、苛々と親指の爪を噛みながら虚空を睨んでいた。
護衛もいない細身の人間が、たった一人で逃げることもできずに焦っている――というわけではなさそうだ。
やがて忌々しげに舌打ちした客が、何を決めたのか立ち上がって身を翻した瞬間、ぬいぐるみが「なんでですかあぁぁぁぁぁっ!!!!」と弾かれたように泣き出した。
『えっ!?』
驚愕にハモった声は、最早何から突っ込めばいいのか分からないウォルターと、肩を跳ねさせて振り向いた客とのもの。
その客の声が存外澄んだ女のものであることに気付いたウォルターの目の前で、ぬいぐるみはどうやって分泌しているのか分からない涙を撒き散らしながら、地団駄踏んで喚き立てた。
「なんっっで気付かないんですか!? こんなに近くに僕がいるのに! あんなつまらない見せ物ばっかり熱心に見つめて! 挙句、僕を無視してどこかに行こうとする! ひどい! ひどい! 愛が足りません!」
客――女がぬいぐるみに手を伸ばした。はっとしたウォルターが止める間もなく、女の手がぬいぐるみを鷲掴む。
「――あ・ん・た・を・今まさに探しに行こうとしてたんだけどぉぉぉぉぉぉ!!!?」
「僕はこんなに激しくアピールしてましたー!! 気付かないあなたが悪いんですー!!」
「サイズ考えてモノを言えタワケぇ!!」
ウォルターたちに見せていた無表情が嘘のように感情豊かな顔で理不尽なこと喚き立てるぬいぐるみに、物凄くもっともな反論を女が吼えた。
……いやいやいやいや。
「おいおい、一応修羅場だからさ、痴話喧嘩はその辺にしといてくれや……」
どうやら気のおけない仲らしいと理解して、ウォルターは恐る恐る一人と一体に近寄っていった。
「えっ、痴話喧嘩? 僕ら、恋人同士に見えますか?」
きゃっ、と両頬(色に変化はない)を押さえたぬいぐるみが、恥ずかしそうに身をくねらせる。恋愛真っ盛りの思春期女子の如き反応をするぬいぐるみをイヤそうな雰囲気で見やってから、ウォルターに向き直った女がフードと仮面をとった。
露わになったのは、さらりと零れる透き通った灰色の髪。最年少のユアンより更に年下だろう、澄んだ灰色の瞳の少女だった。
「初めまして。もしかしてこの子を、ここまで連れてきてくれたんですか?」
貴族か富裕層と当たりをつけていた割には随分と礼儀正しく下げられた頭に、ウォルターも居住まいを正して軽く頭を下げた。
「ああ、街で出くわして、一人で跳ね歩いてるのがあんまり危なっかしく見えたもんでな。本当はこの後、詰所に連れてって『ご主人様』とやらを探すつもりだったんだが……」
「私のことですね。ありがとうございました」
よく見れば、少女のコートはぬいぐるみのそれと全く同じデザインだった。ファーつきのフードやボタンまで同じで、揃いで誂えたのだろうと一目で分かる。
少女がぬいぐるみを肩に乗せると、ぬいぐるみは慣れた動作で腰を下ろした。安定した座り方は、ぬいぐるみの定位置がそこであることを窺わせる。
「半日くらい前かな。街を歩いてる時、私がちょっと他所を見てる隙に、この子が急に肩から飛び降りて走っていっちゃって。慌てて探したんですけど見つからなくて、てっきりヤバい連中にでも捕まったのかと思ってたんです」
「あれはあなたが悪いんですよ、この浮気者! 僕というものがありながら!」
「ちょっとショーウィンドウの人形眺めてただけじゃん! あんたの脳内どうなってんの!?」
抗議の家出だったらしい。お前そんなに長時間単独行動してたのか、と呆れながら、ウォルターは話を促した。
「それで、もし捕まったなら近辺で最大級の裏オークションであるここに来ると思ったわけか。よくここのことを知ってたな……つーか、よく入れたな」
「こんな訳の分からない生態の生き物、下手な扱いして弱らせる前にお金に変えちゃいたいでしょうし、近場で捌くと思ったんですよ。ここについては、ちょっと伝手があって」
言葉を濁す少女は、あまり詳しく話すつもりはないのだろう。
気の毒だが、居合わせた以上はこの後詰所に同行してもらわなければならない。それを告げると、少女はあっさりと頷いた。
「構いませんよ、追及されないで済ませるだけの手札はあるので」
「おいおい、そいつは……」
「すみません、こちらも色々と事情がありまして」
できれば「伝手」について詳しく知りたかったウォルターが眉根を寄せるが、少女は申し訳なさそうに肩を竦めた。
「もしこの子がステージに出てきたら、素直に札束で話をつけるつもりだったんですけどね。立ち入り捜査が始まったから、舞台裏に忍び込むところでした」
「きゃっそんな、僕を救い出すためなら戦火の中にも飛び込んでくれるだなんて。僕ってばそんなに可愛いですか? まあ、全くその通りですけど!」
きゃっきゃとはしゃぐぬいぐるみの額に、少女は人差し指でビシッと一発。
「何呑気なこと言ってるの。本当に捕まってたらどうしたのさ、私が間に合わなくて落札されちゃったりとか」
「そうしたら、あなたが取り戻しに来てくれますもん。心配してくれたんですか? そんなに僕のことが好きですか?」
ビシッともう一発、少女がぬいぐるみの額を弾いた。
「あんたは私のぬいぐるみだもの。私のモノだ。私以外に何もさせやしない」
ふんと鼻を鳴らして投げられた言葉に、ぬいぐるみは額を抑え、嬉しそうに笑った。
「……えへへ。僕ってば、愛されてる」
「そう思うなら自重して」
「僕が誰かにひどいことをされたら、怒ってくれますか? 町一つ焼き払うくらい?」
「やらないよ? 報復のえぐさで愛を測るのやめよ? それ小説とかなら盛り上がるけど、リアルでやったらただの惨劇だからね?」
「火の七日間、起こしてくれますか?」
「巨神兵じゃねぇんだぞ」
ウォルターには意味のよく分からないやりとりを最後に、彼らはステージの方に意識を移した。すりすりと頬擦りするぬいぐるみを放置して、ステージを指差した少女がウォルターに問いかける。
「ところで、あっちに合流しなくていいんですか? お兄さんも軍人でしょう?」
「あー、いいんだ、今回は。俺たちのチームは客席担当」
ひらひら手を振るウォルターの目はしっかりとホールの中を把握して、問題が起きていないことを確認している。騒音も止んできたし、じきに舞台裏の制圧も終わるだろう。
「そうですか……じゃあ、この後は詰所まで付き添いお願いします。日が暮れるまでに終わるといいんですが」
「一応名目上は連行ってことになるから、あんまり力抜かれても困るんだけどな」
ウォルターは最後に一度ホールを見回して、使わなかった腰の剣を軽く撫でた。
「再会のちゅーを忘れてました」と少女の唇に顔を寄せるぬいぐるみを、少女は人差し指一本で押し返しながら、思い出したように名を名乗った。
「申し遅れました、私の名前はレンカ、旅人です。短い間ですが、よろしくお願いします」
「おう、俺は軍所属のウォルターだ。またちびっこが消えたとかで困ったら、大体詰所にいるから相談しに来てくれや」
「ありがとうございます。……ところで念のために聞くけど、キミ、お世話になったウォルターさんたちに、ちゃんと名乗ったでしょうね?」
「…………、…………、…………、………………忘れてました」
「ゔぉい」
低い声でツッコむ少女に、ウォルターはそっと目を逸らした。「ぬいぐるみに名前を聞く」というファンシーな行為に微妙に抵抗を感じてわざと確認しなかった、という事実は、言わない方が良さそうだった。
※※※
いつから意識があったのか、いつから心があったのか、いつから命があったのか、そのぬいぐるみには分からない。
精巧な人形なら、芸術品としての価値があった。
動物のぬいぐるみなら、愛らしさに人気があった。
ただ人間を中途半端にデフォルメされただけの、安物の綿が詰まっているだけで何の仕掛けもない、抱き締められるほどの大きさすらない、手のひらに乗る程度のぬいぐるみなんて、どんな小さな子供だって見向きもしなかった。
いつもは布製の小物を作っているという作家が、ある時たった一つ、気紛れに作ったそのぬいぐるみは、安物の布に縫い付けられた黒い目を虚空に向けて、もう随分と長いこと、ショーウィンドウの中に座っていた。
記憶の始まりがいつだったかも分からない中で、ただ一つ、深く深く残っているのは、いつか言われた、誰かの言葉。自分をつまみ上げ、人型のぬいぐるみなんて珍しいわね、と言った誰かに答えた、興味のなさそうな冷たい声。
――ええ、そんなのいらないわよ。つまんない安物の布だし、見た目だってちっとも可愛くないじゃない。
その客たちが何を買って帰ったのか、ぬいぐるみは覚えていないし、興味もない。
ただ、小さくて場所を取らないというだけの理由で廃品を免れ続けたぬいぐるみは、何ヶ月も、何年も、じいっとそこに座って、次々と買われていく自分以外のぬいぐるみを見送っていた。
――そんな風だったものだから、ある日、誰かが自分の前に立ち止まった時も、その誰かが自分以外を見ているんだと、ぬいぐるみは疑いもしなかった。
閉店間際の、星が瞬く時間のことだった。
その誰かは、一日土埃に晒されて少し汚れた窓の前にぼんやり立っていたかと思うと、すたすたと店のドアを潜ってきた。
「――へぇ、いいな、これ。可愛い」
丁寧に並べられた大小の動物ぬいぐるみや小物の間を通り抜け、まっすぐ窓辺まで歩いてきた誰かは、細い手を伸ばして、もう三年近くもそこにある、小さなぬいぐるみをつまみ上げた。
可愛い。
その言葉が自分に向けられたものだと、ほんの数秒、ぬいぐるみは理解できなかった。
閉店作業を始めていた店員が寄ってきて、客の手の中のものを見る。ずっとずっと売れ残り続けて、服の色も心なしか褪せてしまったようなぬいぐるみを見て、客に愛想良く笑いかけた。
「お客様、こちらのぬいぐるみをお気に入りですか? 人型のはあまり人気が出なかったもので、もしご購入なら代金は勉強させて頂きますよ」
全く儲けにはならない品だが、元手がかかっている以上、売れるものなら是非売りたい。
この客を逃がすものかという意図が透けて見える店員の言葉に、客は、うん、と頷いた。
「私も人型のぬいぐるみは初めて見たな。ぬいぐるみ作家が作ったんですか?」
「いいえ、ぬいぐるみ専門の方ではなくて。だから、勿論ブランド物ではないし、そのぬいぐるみにも名前はついていないんです」
有名な作家が作ったぬいぐるみのシリーズ――ことに詰め物にさえ細心の注意を払ったような高価なものやブランド物には、キャラクターごとに名前がつけられていることが多い。
当然このぬいぐるみはその類いではなく、続けて店員が告げた作家の名前にも、客は聞き覚えがなかったようだった。
つけられた小さな紙製のタグを見つけて、客は白い歯を見せて笑った。
「『僕に名前はありません。あなたが素敵な名前をつけてください』――」
読み上げて、客は店員に財布を取り出してみせた。シンプルな赤の革財布に、黒いネズミのような動物のキーチェーンが付いていた。
「これください。包装はいりません」
「ありがとうございます。ちなみに、どのあたりがご購入の決め手でした? サイズですか、お値段ですか?」
「んー、そうだな。敢えて言うなら――一目惚れかな」
ぬいぐるみの値段は、三人家族が食べる一日分のパンより安かった。
客が店員に金を渡し、店員は釣り銭を用意するために歩き去る。
客は――澄んだ灰色の瞳をキラキラ輝かせた、彫の浅い顔立ちをした若い娘は、ぬいぐるみを優しく掴んだ手を掲げ、自分とぬいぐるみにだけ聞こえるくらいの声で囁いた。
「ショーウィンドウの向こうに座るキミを見た時、キミの黒い目にガラス越しの夜空が映って、星がこぼれるようだった。
キミの名前は――」
※レンカ
旅人。本名、レンカ・ニュール/壱矢蓮伽。透き通った灰色の目に灰色の髪。以前は黒目黒髪だったが、ちょっと訳あって色が抜けた。
ぬいぐるみはデザイン、ことに目が気に入って一目惚れし、衝動買い。旅に連れ歩いて可愛い可愛いと愛でていたが、ある日動いて喋る謎のぬいぐるみ(仮)に超進化してからは、言動のウザさに若干塩対応が入り始めた。と言うか、可愛い無機物と自己主張激しい無機物(仮)で対応が違うのは当然だと思う。
めんどくせぇ彼女みたいな奴だと思っているが、如何せん見た目がド好みなので、なんやかんや甘やかす。
この世界に血縁者ゼロ。ふらふら根無草をしているが、訳あってすげえ権力者の所に養子入りしてる。
財布についてるキーチェーンの「黒いネズミのような動物」はアマミノクロウサギ。
植物使いの異能者。
※アステル
ギリシャ語で「星」の意。
黒い大きな目と、ハニーブラウンの布製の髪で形作られた、手のひらサイズの二等身人型ぬいぐるみ。
動物や空想生物もののぬいぐるみが主流の世界なので、全く評価が受けられなかった。バランスの悪い二等身や、顔に目と口しかないデザインも、人間モデルのぬいぐるみではマイナス評価だったらしい。
レンカを主人とし、所有者とし、彼女からの愛と「可愛い」という言葉を一心に求める。愛情が分散されることを嫌い、ことに彼女が他のぬいぐるみや人形に興味を向けると激しく嫉妬する。自分だけが愛されているとの確信がある限りは、にこにこ可愛くしている。服は職人に頼んだりレンカの手作りだったり色々。
愛の証拠が欲しくて、よく試し行動に出る。ウォルターたちに保護された時も、「彼らに酷い目に遭わされたら彼女が怒って報復に来るかも知れないから、それはそれで美味しい」と思っていたり。将来の夢はお婿さん。
小物作家のガチ気紛れで作られたものなので、文字通りの一点物。ただのぬいぐるみとして作られた彼にどうして魂が宿ったのかは不明。そのうち時間制限ありで人間の姿をとれるようになる、かも知れない。