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1-1 あと五分

「起きなさい、武。これ、会社に遅れますよ。もう二十五歳にもなって母親に起こされているんじゃありません」


「うーん、あと五分」

「今度遅刻したら、人事部長から厳しいお説教なんじゃなかったのかい?」


「そうだった!」

 俺はガバっとベッドから起き上がって、慌てて会社へ行く支度を始めた。スーツで行く会社でなくてよかったぜ。うちは制服があるからTシャツとジーンズで通勤OKなのさ。


「すぐ降りてらっしゃいよー」

 やべえ、俺こと荒神武は遅刻の常習犯なので、いい加減にしておかないと次のボーナスが半分になってしまうわ。


 俺は大急ぎ一分で支度をして階段を駆け下りて、母親が袋から剝いて投げ渡してくれた総菜パンを一つ咥えたまま、バッグを担いで家を出て行った。


 ぎりぎりで走ってバスに飛び乗り、時間通りに駅に着いた。まだ時間に余裕があったので一本遅らせて、五分後の次の電車に乗る事にした。それなら座っていける可能性がある。あのバスに乗り遅れていたらアウトだったなあ。危ない、危ない。


「今日は楽勝で間に合うぜえ」

 そう思い、余裕こいてホームに立っていたのだが、通過列車の特急電車が迫って来たその時、突然に強烈な突風が吹いた。


 周りに悲鳴が巻き起こり、俺の体はまともにその風を浴びて浮き上がった。おいおい、ちょっと待て。今、それ洒落にならないから。


 なんだ、これ。まるで局地的な竜巻みたいな変な突風だ。だが、抗うために踏ん張る地面は俺の足元に存在しなかった。体が舞い上がり、線路の方へ吹き流されていき、迫る電車がぐいぐいと近づいてくる。


 俺が人生最期に目にしたものは、地元私鉄が走らせている独特の形をした特急列車の鼻面の切っ先であった。


 拡大する時間の中で、俺はそいつがゆっくりと眼前に迫ってくるのを感じたが、どうにもならなかった。加速したのは感覚だけで、体は硬直していたのだ。


「おい、勘弁しろよっ。なんだ、これ」

やがて強烈無比で人間が抗う事を許されない衝撃が身を包み、俺は痛みも感じずに真っ暗な世界の底へと沈んでいった。


  ◆◇◆◇◆  


「起きよ、これ起きよというのに」

「う、うーん。あと五分」

 だが、物凄い電撃が激しく体を貫いた。


「ぴぎゃああー」

 うわっ。起こし方が手荒いなあ。少なくともうちの母親の仕業じゃあるまい、誰だよもう。


 あれ、ここはどこだ。なんだか俗に言う真っ白な大神殿のような場所なのだが。大理石の冷たい感触が朧に伝わってくる。俺は何故このような場所にいるのか。


「荒神武よ、わしはこの世界の神の一人じゃ」

「神様?」


 そこには髭もじゃで外国の神話に出てくるような爺様が、節くれだった曲がった形をした木の杖を持って立っていた。


 えー、俺って無神論者なんですけど。神様に会っているという事は死んでしまったとでもいうのか? 武よ、死んでしまうとは情けない。


 じゃあなくって、『この世界』だと。


「そうじゃ、お前は死んだのじゃ。肉体はもう灰となりお前が生きた世界では蘇る事はできない。実はお前はどうやら手違いで死んでしまったらしい。責任者から手紙を預かっておる」


「な、なんてこった。俺はそんな事で死んでしまったのか。責任者だって?」


 俺はショックを隠し切れなくて目の前が真っ暗になりそうだったのだが、気を取り直してそれを受取ろうとして起き上がった。


 いや、起き上がろうとして起き上がれなかった。何かが変だ。なんだかよくわからない。


「あれ? 俺って、もしかして今四つん這い? それとも寝てるのか」

 なんだかまだ頭がぼんやりとして、はっきりとしない感じなのだ。体が馴染んでいないとでも言おうか。


「ああ、後で説明する。よいか、ここにはこう書かれている。


【ああ、私は君の担当をしている地球の死神です。君は地球で亡くなったのですが、実は手違いでした。予想外の出来事が起きましたので、まったく対処できませんでした。気がついたら葬儀が終わっていて、君の体はもうありません。


 そのままだと、『命の海』へ君の魂が流れてしまい、私の不祥事が神様にバレますので揉み消す事に決めました。


 つきましては、知り合いの異世界の神に預けました。悪いんだけど、生き返ってそっちで暮らしてくれ。一応そちらの神様にあれこれと我儘を言っていい事にしてありますので。では!】とな」


「とな、じゃないでしょ。とな、じゃ。異世界???」


「ああ、ここは地球ではないよ。剣と魔法と、そしてお前達が言うところの北欧神話のような神の子供達の世界なのじゃ」


「あのう、もしかしてコンビニとかマンガ喫茶とかない世界なのでしょうか」

 俺は一番気になる事を聞いてみた。


「ほっほ、その姿でそのようなものが必要かのう」

「え?」


「よく自分の体を見て見るがよい」

 俺は改めて自分の体を観察してみた。目に入ったものは獣の足だった。しかも真っ黒な。


「うーん、足が真っ黒じゃあないか。早く洗ってこないと。って違うわー! なんじゃあ、これは~。獣? 俺は獣になったのか」


「それはな、神の子フェンリルの肉体じゃ。お前のためにわざわざ用意したものなのじゃ」

「な、なんでフェンリル。せめて人間の体にしてくださいよ」


「それはできぬ。そういう魂の総数は規定により決まっておるのじゃ。人間の数は定めによって決まっており、定めによって増えていく。


 神といえども、その決まりを破れば、そこから無秩序が始まり、世界は崩壊する。例外は神の子じゃ。お前のために神の子の肉体を一つ用意した。お前は今日からこの世界の神の一人、このロキの息子じゃ」


「えーと。では父、俺どうしたらいいの? そもそも、何でフェンリル?」


 俺は混乱しまくり、試しに犬のように後ろ足で首の付け根をかいてみた。あ、ちゃんとかけたし案外と気持ちいいな、なんだか癖になりそう。だが、それを聞いたロキはおかしそうに笑った。


「お前は生前、こう言っておったそうじゃな。『あー、犬はいいなあ。毎日ゴロゴロしていても怒られないし。寝てても御飯が出るしなあ』と」


 ぶふう。確かにそう言ったけどね。でも、これは多分犬じゃないよな?


「鏡はないの?」

 神様は笑って杖を振ると、そこに溶け出すように鏡というか、空中に鏡のように現れた水面が俺を映し出した。


「こいつは!」

 なんと言ったらいいのだろうか。いわゆる美獣、輝くような美しい造形、四つ足の芸術品といった趣だ。


 人が見れば一瞬の内に虜になるだろう。あるいは真っ黒な姿をしているので禍々しいと思い畏怖の念に囚われるものか。


 確か、姿を見ただけで災いをもたらす黒犬の伝説があったような。しかし、これはまさに神の子だ。俺の姿に心を奪われるあまり、ぜひとも剥製にして我が家に飾ってやろうという奴がいなければいいのだが。


「ねえ、神様。俺って強いの?」

「神の子の肉体ぞ。ほぼ不死にして最強ぞ」


「じゃあ、魔法も?」


「ああ、済まぬ。異世界の人の魂を入れると魔法は使えぬ。逆にそれゆえに耐魔法性は最強じゃがの」

「えーっ、それは無いよー。ひどいー。魔法欲しいよー。我儘を言っていいって手紙にも書いてあったじゃん!」


 俺はひっくり返って、四肢をばたばたさせて暴れた。まあ犬族だから全部足だけどな。


「はっはっは、では代わりに何か力をやろう。何がよい。魔法は使えなくても強大な魔力はあるので魔道具は使えるぞよ。あるいは、お前の持つ異世界人の知識から何か作らせてもよいしのう」


「えー、何にしよ」

 うー、今すぐと言われても特に思いつかん。


「保留でいいっすか」


「ああ、構わぬ。その体はわしに通じているが故、念じて呼び出すがよい。とりあえず、いかなる物理攻撃も魔法攻撃もお前には通じまい。ただし、例外はあるぞ。神の力には耐えられぬ。所詮は神の子に過ぎないのだからな。オーディンの一族には気をつけるがよい」


 ここは北欧神話のような世界か。あるいは、その影響を地球側が受けているものか。ヨルムンガンドとかヘルみたいなフェンリルの兄妹とかいるのかね。


 この世界にラグナロクなんかが無けりゃあいいのだが。どこかにずっと括り付けられるなんてごめんだぜ。父の話だとオーディンがいるらしいからな。


 北欧神話では、ロキはオーディンに対しては子供を差し出すほど恭順していたはずだ。ラグナロクで裏切ったけど。


「えーと、成長したら神になるとかいう進化の道は?」

「ない。あるはずがなかろう。そもそも人の魂が入ったものであろうに」


「まあ、そうですよね。それで俺は、これからどうしたらよいので?」

「好きにすればよい。ここで暮らしてもよいし、旅に出てもよい」


「じゃあ、旅の一択で」

 何が悲しくて、こんな神殿みたいな場所で爺さんと二人暮らしせねばならんのだ!


 しかも『犬』として。神話のように鎖、正しくは紐で繋がれないだけマシだけどね。そういやロキって北欧神話だと確か邪神扱いだったよなあ。


 そして北欧神話ではフェンリルは主神オーディンを殺すのだ。その後で殺されるなんてごめんだから、主神様なんかに関わり合いたくないけどね。


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