65日目 越情の胎動
護熾が身を置く方の世界では、今、大変なことになっていた。
生徒が突然何の前触れもなく帰ってきて、それからが忙しかった。
なにしろ千人ほどの生徒が一日いなかったのだから、その保護者の親は連絡を受けた途端、仕事や家事を投げ出して急いで学校へと向かい、辺りは混乱に満ち溢れていた。
学校は人で大いに溢れた。
学校で我が子を見つけると泣きながら抱き寄せ、わんわん泣いている親の行動に一日いなかったという実感がない子はどうリアクションすればいいか困らされていた。
そしてどうやって帰ってきたのか、どこにいたのかを警察が聞ける生徒に聞き込もうとしたが、どの生徒も覚えていない、記憶にないと答え、もう少し時間が経ってから、事態が安定したら聞こうと決断した警察はとりあえず家に帰すか具合が悪い人は救急車やパトカーで病院に送るなどの処置を施し始めた。
「何だか分からないけどあたし達、一日ここにいなかったらしいよ?」
「え!? 嘘!? 何だか12時間くらい寝たようで気分がすっきりなんだけど」
「う~ん、覚えてないや。やっぱ嘘じゃないの?」
「俺は木ノ宮さんとデートする夢見たぞ! ひゃっほい!」
警察の人に肩に毛布を掛けられ、近藤と沢木達が暢気に話していた。
こちらも無事のようで相変わらずの底抜けの元気の良さを振る舞っていた。
しかし一人だけ、胸に手を当てて心配そうに辺りを見渡している女子生徒がいた。
近藤と沢木達もそれに気づき、近寄ってどうしたのと訊くと、その女子生徒、斉藤千鶴は辺りを見渡しながら、不安げに言った。
「二人がいないの。それに―――すごく悲しい気がするの」
胸騒ぎがし、自然と自分の服を力強く握っていた。
同刻、異界にて、それは起きていた。
誰もが恐れていた事態が、起きていた。
その場は紅く染まり、紅い花を地面に叩き付け、そして絶え間ない流血が、さらに地面へと捧げていく。
「がはっ……ごほっ……!」
それからまた、遠慮無く口から鮮血を吐く。
護熾は、ユキナを庇い、右胸に大きく穴を開けて倒れたのだ。
血が服を赤く染めていき、護熾を中心に赤い血の水たまりが広がっていく。
ユキナは急いで駆け寄り、傍らに膝をついて護熾を起こすと、胸に抱くようにして必死に呼びかけた。
「護熾! 護熾!! しっかりして!!」
「う……ユキナ、か、無事で、よかった」
ガシュナは振り向いて立ち止まっていた。
護熾が倒れたこともそうだが、攻撃してきた本人の姿が見えていないことに警戒をしていた。
しかし今はそんなことを考えている暇はない。
出血量から助からないと判断したガシュナは奥歯を噛みしめ、彼を見据えていた。
護熾が倒れたことに驚きを隠せなかったラルモは、出血が止まらず、どんどん赤い水たまりを広げていく彼に、何が起こったのかを理解する前に体が動いていた。
すぐさま駆け寄り傍らに着くと頭を抱き起こし、叫ぶように言った。
「おい! ―――護熾!! 大丈夫か!? しっかりしろ!! 今、外で待っている医療班のとこへ連れて行ってやるからな!!」
次元の裂け目のすぐ近くで待っている医療班、ミルナなら護熾の一命を取り留めることができるかもしれない。しかし護熾は弱る一方で荒い息づかいもだんだん小さくなっていく。
思い立ったラルモは護熾を運ぼうと手を伸ばしたときだった。
「誰だ? 私の線に当たったのは――? ユキナか? いや、護熾か、この声は?」
空間内であの声が響く。
声のした方向へ目をやるとマールシャが消滅した辺りに空間の割れ目があり、そこから腕が出て、人差し指をこちらに向けていた。
割れ目はみるみる広がり、やがてそこから赤く発光している眼が覗く。
一歩、そこから一歩踏みだし、頭の造形物は半分ほど吹っ飛び、片腕も無くなっていたが、それ以外はほぼ無傷といっていいほどそのままだった。
相手は割れ目から出て、フィールドに足を踏み入れ、損失している部分から新しい組織を作り出し、瞬時に体を修復していき、倒れている護熾とその両傍らにいるユキナとラルモに向かって歩きながら、話してきた。
「危なかったぞ……だが何故私が生きているのかが、不思議でたまらないっという顔をしているな? では教えてやろぉ」
およそ十メートルほど離れたところでその歩みは止まった。
損傷した部分は完全に治り、元の状態に戻っていた。
ユキナ達は消滅したはず、基いあれほどのエネルギーを含んだ攻撃を自ら食らって生きていることが何よりも信じられなかった。
恐怖に引きつった顔を眺めるようにして見たマールシャは満足げに笑うとゆっくりと何故無事でいるのかを自慢げに、そしてより恐怖を煽ろうと楽しそうに説明し始めた。
「お前達は忘れてないか? この異界は私が作り出したことに。お前達が私の攻撃を返し、それを自分達の一撃にしたのにはさすがに驚いて私も忘れていたがな。だが、すぐに別の空間を作って身を伏せれば、そんなことは無意味だ。まあしかし、もし、あのまま食らったとしても私を倒せないだろう。だがそんなのは問題ではない」
全てを打ち砕く絶望そのものが再び立ちはだかった。
護熾は弱々しくも少しだけ顔を上げ、マールシャを睨むがすぐに咳き込んで血を吐き出す。
ユキナがそれを必死になって自分の服が護熾の血にまみれても構わずに吐血を止めようと胸に空いた傷を手で押さえるが血は止まる素振りも見せず、手の隙間から漏れ出て染み渡っていく。
「哀れだな、人間というのは脆い。苦しいだろ? 今、楽にしてやろうか?」
自分の攻撃が当たった護熾に対し、マールシャはトドメを刺そうとさらに近づいてきた。
ユキナはもう武器が無く、対抗手段がないのでラルモが動こうとしたがこれだけやってもまた全快になったマールシャに対して恐れを抱き、思うように体が動かせずにいた。
そんなラルモに向かって、怒号が降り注ぐ。
「ラルモオオオォォォォォォ!!」
ガシュナが叱咤激励の大音量で叫んだ。
ラルモはビクッとしてガシュナの方に顔を向けるとすでに最大限解放状態になっており、細い槍を片手に持ち、悪鬼のような形相でこちらを睨んでいた。
「ユキナもそいつも戦えない!! 戦えるのは俺たちだけだ!! 行くぞ!!」
「あ、ああ!」
限りなく低い希望だが今のガシュナにはこれが自分ができる最大の行動だと思った。しかし今度は禁忌の三回目。
これでどうなるかは本人にも分からなかった。
全身全霊の力を体中に込め、すごい速さで、倒れている護熾を通り過ぎるとマールシャに向かって槍を突き出すが、それ以上のスピードで軽々と避けられると振り下ろされた腕で思いっきり床に叩きつけられた。
あまりの衝撃に血反吐をバラ撒き、床に沈むガシュナにさらに足が乗っかり、メキメキと埋めていく。
ラルモは護熾の元から離れ、絶叫しているガシュナの加勢をすべく、遠距離では効果が薄いので接近戦に持ち込むために両手から大刀を精製し、一気に接近するとそのまま横に振り抜く。
マールシャの腕と大刀が激突する音が、辺りに響き、支配していく。
「よお、服、汚れるぞ……」
「お願い、……喋らないで護熾」
ぼんやりと開かれた瞳に、泣いている表情の少女が映り込む。
この傷、この出血量。
ミルナのように強力な治癒能力を持っていない自分には、為す術もない。
どうして、こんなことに、と彼女は自分の無力さに打ちひがれ、ただただ涙を流す。
その様子を見ていた護熾は、ゆっくりと腕を持ち上げ、優しく、慰めるように、ユキナの頬を撫でる。
「どうやら……助から、ねえみてえだな……まあ、そうだよな……」
ユキナは自分の頬を撫でている護熾の手を取り、握るとそれに応えて少しだけ握りかえしてくれた。
「…………死なないで」
「なあ、ユキナ……」
胸の中で抱かれている護熾は口だけを動かして喋り続けた。
「あいつら……無事か…どうか……確認………して来てくれ」
あいつら、すなわち護熾とユキナがこの戦いで取り戻したかった友人達のことである。
彼は、今自分がこの有様だというのに、いや、この有様だからこそ彼女に意志を託しているのだ。
光が失われつつある瞳を向け、護熾はそのまま続ける。
「だから……生きろ……生きて帰るんだ……」
「お願い!! もうそれ以上は喋らないで!!」
ユキナは喋らせまいと残り僅かの命を長らえさせるために強く抱きしめて止めさせようとする。体温が徐々に失われていくのが、手に取るように分かった。
もう彼は、本当に、命を閉ざそうとしているのだ。
それから、また彼の身に、異変が起きる。
「? …………ユキナ……どこだ……どこに……いるんだ……?」
「…………」
もう、彼の目は、瀕死の重傷の影響で、徐々に見えなくなっていた。
そして光が失われている瞳で、そばにいるはずの少女を、探す。
ユキナはソッと、護熾の身体を起こし、ひしっと、傷に障らない程度の力で、抱きしめる。
心が、胸が、あまりにも痛いと、彼女の中で悲鳴を上げる。
「護熾、此処だよ、此処にいるよ……」
「そこか…………温か、いな……」
護熾は少女の顔を捉えると、柔らかく微笑み、そしてお返しに弱々しく抱きしめ返す。
それから空いている手をユキナの艶やかな黒髪に伸ばし、愛しそうに撫で始める。
「お前は……髪が……きれい、だから……大事に……しろ…よ。へへっ」
見えない目で手探りで触った後、くすぐったそうに笑ってみせる。
「護熾……ごめん、ごめんね……護熾」
「なんだよ、泣くんじゃ、ねえよユキナ………………なあ」
「何……?」
「今、思った……ことだけどよ……俺、たぶん、こうなる、運命、だったんだなって、思うんだ……」
「! 護熾、お願い、もう喋らないで……」
「お前に会ってなけりゃ、俺、三回、も、死んでる、んだぜ? だったら、今、こうして、いるのも、お前を助けて、死ぬのも、悪くねえ、気がするんだ……」
そう、初めて彼に会った時は、その気力の高さから、怪物に狙われるという悲惨な状況からであり、そして彼は彼女と出会ったため、三回もこの身を助けられたのだ。
「よくない、よくないよ護熾!! ねえ、護熾……お願い、死なないでよ……」
「ユキナ……」
耳も、そんなに聞こえていないらしく、ユキナの言うことを無視して、護熾は抱きしめる力だけを強くした。
「今まで、本当に……ありがとよ……五年間も、町を、そしてそばにいてくれた、ことを……感謝、するぜ……」
彼が送る、精一杯の、感謝の言葉。
いつか言おうと思って、ずっと隠していた、言葉。
「護熾……私も、護熾と一緒で、楽しかったよ? 楽しかったからさ、ねえ、だから、もう……」
「……一生懸命、生きて……生きてくれ……ユキナ……それが……俺から、の、最後の、言葉だ……」
それから、繋がりを求めるかのように差し出されて手を、ユキナはソッと手を握ってみせると、護熾はそこにいるはずの彼女に顔を向け、言う。
「それと、ユキナ……頼みが……ある……」
「……何?」
「笑って……くれ……笑っている、顔が、見たい……」
「…………」
ユキナは、返事はしなかった。
ただ、代わりにそこには、
「こう……?」
必死で泣くのを抑えながら、彼女の精一杯の笑顔が、目の前に広がっていた。
穏やかで、まるで太陽のような、笑顔。
(可愛い……な)
護熾にそう素直に思わせる。
そして、ありがとうと言える力もなく、やがてその笑顔も薄れていった。
そして、自分も笑っていることに気がつき、ソッと、眼を細める。
もう、自分に残された時間は、ほんの僅か。
残っている力を振り絞って、最後の言葉を弱々しく紡ぎ始める。
「ユキナ……俺……さ、誰か……護れたか……?」
「うん……たくさん……たくさん護ったよ……」
「……そうか……それと、ユキナ……俺、さ……言いたかったことが……」
「何……? 護熾……?」
「……いや…………何でも……ねえよ…………ありがとな――――じゃあな、」
それから、誤魔化すように、その小柄な身体を抱きしめる力を強くし、それから、意識が完全に沈み、瞼が閉じていく中、最期にこの少女が、側にいてくれたことを心地よく思い、
(……ああ、悪く、ない気分だな……―――――)
そして、全てが暗闇へと染まっていった。
「護熾…………?」
ユキナは、もう声を紡がなくなった少年に声を掛ける。
返事は、一切返ってこない。周りの轟音のみが、改めて静寂を切り裂いてくる。
そして気づく。
自分を抱きしめている、彼の腕に、力は込められていないことを。
さっきまで、耳元で弱々しくしてた、呼吸音も、もうないことを。
体温も、ほとんど無くなっていたことを。
「護熾……?」
それから、恐る恐る、顔を横に向けてみる。
そこには、まるで眠っているかのように、眼を閉じて、微笑んでいる表情の、少年の顔があった。
そして、確かめるように、その首に手を回して引き寄せ、ひしっと胸に抱きしめる。
温度も、呼吸も、その瞳を開くことも、なかった。
もう、彼は、一切動くことはなかった。
「……約束したのに……何で……?」
もう抜け殻でしかない、彼の頭に顔を埋め、両眼から涙が溢れ出す。
「一緒に……生きて帰ろうって……一緒にお泊まりしようって……約束したのに……」
両目から溢れ出る熱い液体は、彼の頭を少しだけ、濡らしていく。
「ねえ、お願い……もう一度……私の名前……呼んでよ……ねえ……? 『ユキナ』って、呼んでよ……『チビ』って……いつもの調子で言ってよ……」
それでも、彼がその願いに応えることは、なかった。
「ねえ……護熾……護熾…………護熾!」
彼の名前を必死で呼び、彼が自分の名前を呼ぶのを、ただひたすら、願う。
「護熾!! 護熾!!」
叫ぶための名ではないのにユキナは呼び続ける。
しかしどんなに叫んでも、目は二度と開かず、どんなに強く手を握ろうとも、もう握りかえしてはくれない。
共に生きて帰ろうと誓ったではないか、もう一度みんなと会おうと、言ったではないか。
でも、もうその願いは叶えられない。
「返事を!! お願い……返事を…………」
ユキナはもう動いてはくれない護熾の抜け殻を抱きしめ、天を仰ぐ。
こんな結末のために戦ったのではない。
こんな終わりを見るためにここにいるのではない。
冷たくなった護熾を揺さ振っても、こちらが顔を合わせると喋ってくれた少年はもう、いない。
大切な護熾が今、死んだ。
その事実を理解したとき、彼女は叫んだ。
「うああぁあぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――!!」
ユキナは体温のない体を抱きしめ、手の平に爪が食い込むほど強く拳を握り、慟哭した。上を向いたユキナの目に涙が出てきて、溢れるそばから頬を流れ落ちていく。
それでも、奇跡などは起きず、つらい現実が目の前に突きつけられていた。
(――護熾が、死んだ―――)
どうしてこんなに胸が痛いのか、
どうしてこんなに、心が痛いのか、
まったく、分からない。
分からないが、彼が死んだことで、自分の中で何かが大きく欠如したことだけは分かった。
どうして、約束したのに。
どうして、死なないんじゃなかったの。
どうして、普通以上に、こんなに悲しいの。
ねえ、護熾、帰って、きてよ。
私を一人にしないで。
私を置いていかないで。
私に、もっと、いろいろ教えてよ。
なのに、死んじゃうなんて、ねえ護熾、お願い目を覚ましてよ……
泣き叫んだ後、気が付くと護熾の抜け殻と共に、暗い空間にいた。
ガシュナとラルモが戦っている騒音は聞こえない。
光が一切無く、見渡しても漆黒の闇が空間を染めていている。
しかし何故か身に覚えがある場所だった。
「う…うう…………ごおき……ごおき」
嘘みたいにさっきの騒がしい音が消えたのでこれは夢なんじゃないかと思い、護熾の顔を胸に押しつけるように抱くが、やはり抜け殻のままだった。
そしてこちらに近づいてくる足音が聞こえたのでそちらに涙でくしゃくしゃになった顔を向けた。
彼女にとっては見たことがある人、そして目を少し大きくすると呟くように言った。
「…………あなたは―――」
マールシャと交戦しているガシュナの体が限界を超えようとしていた。
体の至る所で骨が軋み、皮膚にはびしびしと切り傷に似た擦過傷を作り、血がそこから滲み出ていた。
そんな中、同じく傷が重なって徐々に疲労が溜まっていたラルモが不意に足を止めた。
ユキナの悲痛な叫びが耳に届いたからだ。
「あ……あぁ……あの野郎……」
顔は向けなかった。だが向けなくとも眼の使い手で最も気の使いに長ける彼ならば気力を感じ取ることで大体の状況は掴めてしまうのだ。
「何だよ……せっかく仲間が増えたと思ったのに……一緒に戦った仲なのに……一緒にいた仲なのに……何で……何で…………何で、死んじまうんだよ!? 馬鹿野郎!!」
そして、この悲しみを作り出した根源を瞳が捉える。
気がつけば、ガシュナをすり抜け、手にした武器を使って悪鬼の如く突っ込んでいた。
だが、ラルモが大刀を槍のように突き攻撃をするが、マールシャはそれを腕で絡め取るとそのまま小枝を折るようにバキッと折った。そして一瞬の隙が出来たところで強烈な蹴りがラルモの胸に襲いかかる。だが吹き飛ばされるのではなく、衝撃だけが体を奔っていく。
ラルモは地震のような揺れが身体の内部で起こると目を見開き、血反吐を吐きながら床に沈み込んだ。
「ら、ラルモ!?」
「がはっ……!? ……ぁ……ぁ……チクショ……悪ィ…………」
ガシュナは倒れたラルモに呼びかけるがすでに自分も限界を超え、意思とは反対にガクンと膝をついた。感覚が麻痺し、もう言うことを聞かない体を必死に動かそうとするが、とうとう槍を握っていた手から力が抜けた。
(――万事休すか……)
「諦めろ、今度こそ終わりだ。じゃあな」
マールシャは突き放すように言った後、足許に倒れている二人を一変に葬り去るために肘のカッターを肥大化させると首を狙い、目にもとまらぬ速さで横に動かした。
しかし途端にドーム状の紫色の球体が二人を包み込み、攻撃を防いだ。
攻撃を弾かれたマールシャはすぐさま別の気配を感じ取り、援護した人物の方に顔を向けると部屋の真横に穴を開け、二人に向かって両手を向けている髪も瞳も紫色の少女が目に入る。
(こいつか? 私に気付かれずに異界に侵入したのは? いや、そうだろうな。同じ感じがする)
すると視界の中にテニスボールほどの大きさの黒い球が見え、これは何だ?と疑問が浮かび上がる前に黒い球は破裂して強烈な閃光を目の当たりにした。
視覚を奪われたマールシャは怯み、その隙を狙って黒い影がアルティの背後から飛び出し、後ろ腰からブレードを引き抜くと同時に二、三度斬りつけた。
だが効果は薄く、少ししか傷を負わせることしか出来ない。
「ユキナ!! 海洞!! 無事!?」
「あ! いたいた !大丈夫!?」
「カイドウはん!! やったもんよ!! みんなは無事向こうに着いたもんよ!!」
聞いたことがある声。
部屋の横に開いた穴から、総勢九人の、救出班がようやく到着した。
イアルは護熾を抱いているユキナに駆け寄ると、ユキナはソッと護熾の頭を地面に置き、スッと立ち上がった。
それから彼女は、戦場を見据えながら、背を見せたまま三人に頼んだ。
「みんな……護熾をお願い」
「え…………」
イアルが見たのは右胸に大きな穴を開け、口から血を出して死んで横たわっている少年の姿だった。
ギバリもリルも表情を一変し、驚きとショックを隠せず、その場で固まる。
イアルは両膝を付き、そのあまりにも残酷な光景に、視線を動かせず、固まる。
「――――嘘でしょ」
そして後から来た、シバの部下達が、この少年に気がつくとすぐさま近づき、脈をとるために手首と首に、指を押し当てるが、彼らは、首を小さく横に振った。
「あ………。ああ……」
イアルは、ようやく彼が死んでいると確信すると、両手を伸ばし、護熾の躯を抱きしめ、それから頭に顔を埋めると、泣き始めた。
ギバリもハッとなって慌てふためいて数歩手前で跪いて近づくが、命の灯っていない屍が目の前にあるだけだった。
一方、ユキナはそのままシバが相手をしているマールシャの許へと歩き始めた。
そして十歩ほど歩くと立ち止まった。
睨んでいる先はマールシャのみ。
その身体からは一瞬だけ赤いオーラが点滅するように光った。
「うん? 誰だお前は、……いや、見たことがあるぞ」
「くそっ、もう回復したのか」
視力が回復したマールシャは改めて今、自分を斬りつけていた相手、シバを見て、見覚えがあるかのような口調で言った。十三年前の“大戦”から記憶の糸を手繰り寄せると、赤い髪と眼をした男に向かって叫ぶ男の姿が眼に映る。
思い出したマールシャは赤い眼を細め、にやりとした口調で言った。
「ああ、あの時の大馬鹿の側にいた奴か…生きていたのだな」
「そりゃどうも、でもここまでか――」
「おや? 開眼を使わないのか?まあいい、どちらにせよ私に適う者など――」
「待って!!」
シバに攻撃を仕掛けようとしたマールシャの動きはユキナの止める声によって中断された。
だが、勝機がゼロのユキナに何が出来る? 何も出来ずにただ自分の攻撃をまともに食らってしまうほど鈍く、しかも武具は一切ない。
マールシャにとっては既にどうでもいい相手だった。
そして無視し、今は目の前にいる相手を殺そうと腕が動き出す。
常人には絶対に反応できない速度でパンチを繰り出そうとしたとき、
(ん―――――!?)
ゾクッと背中に何かが突き刺さるような冷たい感触が襲い、攻撃を止めさせる。
それからその殺意のした方向、ユキナの方に顔を向けさせると、そこには先程の艶やかな黒髪から一変、夕陽のような髪をした少女が、そこに佇んでいる。
けれどただの開眼状態なのに先ほどとプレッシャーがまるで比べものにならないほど強大だった。
(―――? 恐怖がまったくない? 何だ? この感じは……?)
「私は――私は―――許さない」
下に俯いて、呟くように言ったユキナの足元からオレンジのオーラが吹き上がる。
今までにない、膨大な量のオーラが噴き出し、蛇のように暴れまわり、そこから生まれる強風が彼女の髪を揺らす。
やがて、天を衝くように伸びていたオーラたちは行き先を見つけたかのように一気に彼女に還っていった。そして全てが彼女に収まったその途端、橙色の激しい竜巻が彼女を中心に起こり、姿が見えなくなる。
「何が起こっているのだ? そしてこの気は何だ? 明らかに―――これは!」
竜巻による暴風から顔を守るために翳している腕からその様子を見たマールシャは明らかになりつつある相手の変化に戸惑いながらも、過去に似た感覚を感じたことがあることを思い出していた。
これではまるで――――13年前、我らの主に歯向かったやつと同じ感覚では、と。
「護熾、あなたの遺志、私が引き継ぐ。約束を守るよ」
竜巻の中、ユキナは悲しそうに、しかし真っ直ぐな口調で呟くと目を瞑って胸に手を当てた。
彼は、自分の友人達の安否について、心配していた。
そしてそれを確認するのが、彼から自分に託された、意志。
ならば、その意志に応えるには、今目の前にいる敵を倒さなくてはならない。
だから、力を。
もう誰も、死なせない、もっと強い力を。
誰も、何もかも、護れる強大な力を、唯、求める。
するとそれに応えるように、ユキナの胸から突然、刀の柄がそこからゆっくりと突き出す。
ユキナはそれを握って何の躊躇いもなく引き抜くと、赤と青の見事な模様が彫られていて、鎖で雁字搦めになっている鞘に包まれた日本刀が胸の中心から出てきた。
それを左のベルトに差すとユキナはそれが当たり前かのように、左手親指で鯉口を切った。
右手で柄を掴み、抜く。銀色の刀身がそこから生まれる。
そして試し振りのように刀を横薙ぎに振ると自身を護るかのように巻いていた竜巻が斬れ、新たな風が空間内に広がっていった。
その場にいた者は全員、突風を腕で防いでいたがやがて隠すのをやめてユキナを見ると、驚愕の表情を浮かべる。
そこには―――――ギザギザの緋色のコートを羽織り、稲妻のように火花を散らしている気を纏った彼女が立っていた。
風を孕んでいたコートはふわりとしぼみ、体に沿うと閉じていた瞼をゆっくりと開け、夕陽の瞳で睨み付ける。
「私は、絶対にお前を、許さない!!」
ユキナの激情に共鳴するかのように、纏っている気が火花の数を増やす。
マールシャは無表情で見据えるが、彼女がどうなっているのかは解らなかった。
解ることはただ一つ、自分にとっての最大の相手がここで生まれたのだということを――――




